慈濟傳播人文志業基金會
呂保璇は娘と 早朝の法の香りに浸る

 

インドネシアのバタン島は台湾より一時間遅れの時差がある。

早朝の三時半、呂保璇は子供を背負って                         

インドネシア慈済支部に「早朝の法の香り」の準備に行く。

かつての彼女は社交界の花形といわれていたが、

十四年前に女の赤ちゃんに巡り合ったのが人生転換のきっかけとなった。

 

三階に住む呂保璇は、夜も明けきらぬ早朝に、ブルーのシャツと白いズボンで身を整え、身軽に子供を背負って、斜め向かいにある慈済バタン島連絡所の鉄製の門を開けた。中へ入って背中から女の子を下ろすと、女の子は手足を伸ばして慣れた手つきで二階に上がった。  

呂保璇もその後から上がって、電灯をつけ、音響機器の点検をすると優しい声が伝わってくる。二人は座って静かな早朝を満喫しながら「早朝の鐘と共に法の香りに浸る」朝のお勤めの時を待っていると、慈済の委員も続々と入ってくる。

これは慈済バタン島連絡所の責任者である呂保璇と十四歳になる末娘恩恵(グレース)の毎朝の日課だった。

 

因縁の出会い

 

二○○三年のある夜、呂保璇はグレースと初めて出会った。その時のグレースは生まれて二カ月の赤子で、体重はたったの一・七キロで、二枚の薄いおくるみに包まれていた。母親は十七歳にもなっていない娘で未婚で妊娠し出産したのだった。

呂保璇は「彼女は私にこの子を育てて下さいと言い続けていました。私は、自分には四人の子がいるので、あなたのこの子を育てるわけにはいきません。ただどんなことをお手伝いすればいいのか見にきただけです」と言った。

母親は妊娠中にドイツ麻疹に感染していたため、この子は生まれた時から病気がちで、彼女には育てる能力がなかったのだ。そして「私は誰かにこの子を育ててもらいたいのですが、何人かの人はこの子を見ると立ち去ってしまいました。どうか私を助けて下さい。そしてこの子の病気を治して下さいませんか?」と訴えた。

この哀れな赤子の境遇に呂保璇は、一言の下に承諾したがその条件として、この子の病気が完全に治ったら母親であるあなたのもとに返すということだった。

医師の診断では下腹部の病気で、その治療は容易ではない上に体重不足で手術ができないとのことだった。「グレースは泣き止まず、泣くことで痛さを表しているようで、当時の私は母親に返すべきかと決めかねていました。それに私の事業は発展し始め、取り扱っている商品はレストランなどで需要が日々伸びていた時で、事業と善行との間に心の葛藤がありました」と。

そんな時に一筋の希望が現れた。台湾の取引先である蔡さんが、シンガポールの慈済ボランティアがバタン島で施療を行うこと、ジャカルタ、シガポール、台湾から医師が来て手術も行うという消息をもたらしてくれた。

呂保璇は期待を胸にグレースを抱いてバタン島の施療所へ行った。しかし体重が足りず、現時点では手術ができないと言われて、人目も憚らず声を上げて泣いた。

 

情けは国を超えて                                  

 

シンガポールで診察中だったある医師は、呂保璇の血縁もない幼子にかける深い情に感動して、慈済シンガポール支部にこのケースを報告した。思いもよらず二日後にシンガポールの慈済人から、私たちが世話するからシンガポールにきて治療を受けるようにと言ってきたのだった。

シンガポールでの手術は成功したが、医師はその他にも心臓に欠陥があることを発見して手術をした。しかし、それ以外に難聴、緑内障、白内障、小脳障害などの疾病もあって長期の治療が必要になる。

バタン島に帰った後、生母に連絡して家へ来るように言って「あなたの子供の手術が終わったから、自分で世話するよう荷物を取りに行きなさい」と言ったが、それっきり消息を絶ってしまった。探してももともとバタン島の人ではなく、親戚もおらず、探しようがなかった。

呂保璇は「この子を誰かにあげようと言っても引き取る人はいないでしょう。たとえいたとしても、大事に育ててくれるか私は心配です」と言って、正式に籍に入れ「恩恵」と名を変えた。四人の子の陳愈宣、陳芝宜、陳明恵、陳政元は、恩恵の病がよくなるように願って三度の食事を素食に改めていた。「苦しくて泣き叫んでいる恩恵が可哀想で貰い泣きしました。血のつながりはないけれど、恩恵は私たちの家族です」と言ったことに感動した。

2011年バタン島の慈済人は菜食を推進するイベントを行った。写真中央の呂保璇は天然香料を使った料理を紹介した。(撮影/蕭耀華)
 

事業との決別

 

恩恵が国を超えてシンガポールで治療を受けている間、当地のボランティアはいつも呂保璇に付き添っていた。「私は一人でこの子の世話をする覚悟でいましたが、まさかこんな大勢の人が一緒に世話をしてくれるとは、本当に感動しました」と述べた。

呂保璇は二○○七年に慈済委員になっただけでなく、経営していたレストランを慈済活動の場所に提供した。事業の成功で彼女は意気揚々とし、ますます増える付き合いや接待を夜遅くまでしなければならず、多くの悪い習慣に染まるようになっていた。「お客を楽しませようといろいろ思案した結果が、知らず知らずの中に自分の悪習慣となっていました」と言う。夜遅くまでお客相手に酒を飲み、外島までヨットを走らせて買い物するだけでは満足できず、外国にまでも買い物に行っていた。

「私はブランドの靴、バックや服を買うのが好きでした。家にはたくさんあっても、ただ買い物が好きなだけで、必要品ではなかったのです。以前はただ楽しむだけの生活で、自分さえよかったら、世間や他人に対して何の責任もないと思っていました」と恥ずかしそうに言った。彼女は次第に、自分が今追い求めている快楽は、内心の真の幸福ではないと思うようになっていた。

「私はこんなことでは浪費しているだけだと思うようになりました。これからは本当に必要な物だけを買います。これが法を心に、法を以て歩むことです」と悟るようになっていた。彼女があらゆる悪習慣を改めた原因の一つには、慈済を汚さないという思いがあった。とくに證厳法師を尊敬してその教えを守り、「慈済で許されないことは一つ一つ改めていきます」と言う。

彼女が製造している燕の巣は、いろいろな所から原料を購入して加工し、マレーシアに転売している。非常に高い収入を得ることができ、一月に三十キロ売り出せば当時の価格では一キロが三千シンガポールルピアで毎月の利潤は何億インドネシアルピアに上っていた。

成功の絶頂だったが、彼女は毅然として、いとも簡単に事業を手放した心境は容易ではない。彼女は「上人は私たちに生命を大切にすることを教えられました」と話す。この理念はまた彼女にすべてのレストラン経営を閉じさせた。

「私は今慈済ボランティアになりました。もしもまだレストラン経営を続けていると、肉類などを使って心の悔いになってしまいます。その上私は神様に実践をする願いを立てました。子供たちが一人前に成長しますように、私は一心慈善活動に投入し、実践行動によって感謝の心を表します」

「上人は、人はさらに良くならなければいけないとお教えになっています。もしも慈済人になっていなかったら、今のような充実した生活を送ることができなかったでしょう。そして一日中人が言うつまらない話に耳を傾け、町をぶらついて意義のない日々を送っていたと思います」

「上人はそれと同じようなことをおっしゃいました。明日が先にくるか、それとも無常が先か分からないのだと。彼女は、同じ年頃の健康そうに見えた友達が突然亡くなったことで、この道理がつくづく身に染みて納得がいきました。努力の積み重ねが世間における富であって、死後は何も持って行くことができず、業のみが身についていくのだと悟りました」

呂保璇は先天性重度障害の恩恵を連れて、今年の4月台湾の台北新店慈済病院で手術を受けさせた。手術は成功し歩行器を使って歩くリハビリを受けている。
(撮影/王占籬)
 

志の提唱

 

日一日と大きくなる恩恵は、話ができず難聴だが、簡単な手話と人の目を見て意志を通じさせることができ、他人に対して親切だった。彼女の両足の筋肉は委縮して歩けなくなっていた。だんだん重くなり、抱くのが重荷になった呂保璇は、恩恵の足を治す医師を探した。

二○一六年の三月末、呂保璇は恩恵を連れて台北の新店慈済病院へ手術を受けにきた。二カ月の療養とリハビリを経て、十四年間立って歩けなかった彼女は、ついに人生の一歩を踏み出した。

現在の呂保璇は、慈済バタン島連絡所の責任者を担当している。「始めの頃は幾多の挑戦にあって苦労しました。しかし私は終始『願があれば、自ずと力が湧く』と信じてどんな困難も切り抜けてきました」と。

姉御肌の彼女はボランティアたちの世話をし、すべての人を励まして「私はボランティアたちが自発的に責任をになって、人から指図を受けなくても任務を果たせる人になるよう願っています。もしも強制したら良い結果が出ず、もう来なくなるかもしれません。上人の法を基礎に、甘んじて事をなし、喜んで受けるなら良い結果が現れるものと思います」と言う。

彼女は、バタン島の静思堂建設にボランティアたちがさらに責任を担うことを願っている。そして未来に社会教育の殿堂とし、また人間菩薩の集う拠点となることを願っている。そしてボランティアは最前線に立ち、より多くの人間(じんかん)菩薩を募って愛を世間にそそぎ、幸せと智慧を広めたいと願っている。

「上人は私たちに『仏の心を我が心に、師の志を我が志とする』とおっしゃっておられます。バタン島のボランティアが慈善活動だけでなく、毎朝法の薫に浸るお勤めに参加することで、上人の教導を理解するよう願っています。私はこの道を歩けば歩くほど、心は次第に平静になることができました。過去にあったいろいろなことは、昨日がなくなるように消えてゆきます。今日の自分を新たに生きていくことが何よりも大切なことです」と話す。結婚の失敗、事業に打ち込んだ頃の喜びも失敗の悲しみも煙と消え、楽観的に日々を生き、積極的に善行をしている。

「恩恵に感謝しなければなりません。その出会いがあったから慈済に巡り合うことができたのです。それで私の人生は変わることができました」と言う。呂保璇がこの堅い初心をこれからも持ち続けて歩くよう祈っている。

NO.238