慈濟傳播人文志業基金會
貧困から抜け出し、 豊かな人生を手に入れる
幼い頃、母子家庭の貧しい日々は邱碧琬の表情を暗いものにしていました。中学校の先生は「布施する」ことを教え、その言葉で彼女の人生は変わりました。
 
その日、台中静思堂では邱碧琬が竹筒を持って会場でケア世帯に愛の募金を募りました。「かつて私もこのような経験をしたことがあります。幼い頃ケア世帯の座席に座っていた時、心の中では劣等感や無力感を感じていました。しかし、時間が経って成長するにつれて心の持ちようが変わり、感謝するようになりました」。
 
二○一八年慈済ボランティアの養成講座に参加した邱碧琬は、微笑を浮べていても、眉間にしわを寄せてしまうのでした。それは彼女が小学校三年生の時からの表情で、ボランティアになり、大愛ママになってから、ようやく笑顔で人と接することができるようになりました。一つ一つ試練を乗り越えていったのです。
 

変貌した幼年期の温かい記憶

 
邱碧琬は山に囲まれた南投県国姓郷福亀村に生まれました。以前は平穏な家庭でしたが、父親が三十五歳の年に交通事故で亡くなり、母親も慢性関節リウマチを患ってからは、母と娘三人の生活は苦境に立たされました。
 
母親は夫の借金を返済するためにあちこちで借金し、レストランでウェイトレスと食器洗い、清掃などをして懸命に働いて一家を養いました。姉妹三人も家事はもちろんのこと、内職をしたり、建築現場でレンガを運んだりして、わずかな収入を得て家計を助けました。
 
彼女の叔母は、小学生の三人姉妹をかわいそうに思い、面識のある慈済ボランティアの徐瑞宏に話しました。徐瑞宏は埔里から国姓郷の邱家を訪ね、未亡人の母親と子どもたちの苦境を知り、邱家を長期ケア世帯に認定しました。慈済が毎月生活補助金を支給することになったほか、彼は自ら近所の米屋に月一袋のお米を邱家に届けるよう依頼しました。
 
徐瑞宏は毎月邱家を訪ねました。姉妹三人はいつもの「ブーブー」というオートバイの音を聞くと、「おじさん、こんにちは!」と大喜びで迎えるので、長旅の疲れも吹き飛んだそうです。
 
慈済のケア世帯になってから、姉妹三人は年越しを楽しみにするようになりました。暮れに行われる慈済の歳末配付です。日用必需品のだけでなく服の配付もあり、子どもたちのサイズにあった清潔な古着が届けられたのです。「もらった服を姉と一緒に身につけた時の嬉しさや感激はいつまでも忘れられません」と言いました。
 
邱碧琬は昔のことを語り続けました。当時、毎月の生活補助金は花蓮の慈済本部から郵送されて来ましたが、それと一緒に『慈済月刊』が添えてありました。月刊の内容は、邱家と同じようなケア世帯の情報だけでなく、ボランティアのストーリーもありました。忘れられないのは、人々からの愛の献金を詳しく記載していたことです。「科学技術が発達していなかった時代にもかかわらず、慈済は全ての淨財の会計を公開していました」。
 
その時期、町役場の協力を得て、邱家は低所得者として認定され、子どもたちの学費は免除になりましたが、生活はまだまだ慈済の補助に頼っていました。子どもたちは人々からの愛の支えを大切にし、向上心をもって定時制高校に進み、日中はアルバイトをしました。
 
彼女は二年制の専門学校までの学費や生活費を自分自身で稼ぎました。邱家の収入が安定した後、母親は慈済の支援を辞退しました。
 
中学校の担任の先生は、生活が苦しくても、前向きで成績も優秀な彼女に奨学金を申請し、塾にも無料で通えるようにしました。塾の張先生の励ましの言葉が、彼女の人生にとって大きな転機となりました。「人生では誰もが苦難に出遭うものです。肝心なのは、貧困を力に変えて頑張ることです。そして施す心を忘れなければ、そこから抜け出すことができるのです」。
 
先生の言葉を胸に、彼女は「いつか必ず貧困から抜け出せる!」と自分に言い聞かせました。布施する機会があれば、たとえ僅かなお金しか持っていなくても、それを必要としている人に与えました。
 
●小さい頃、慈済の支援を受けた邱碧琬は、今、人助けするボランティアとなり、社会に恩返しをしている。(撮影・陳静玫)

困難に出会ったら、先ず自分を変えよう

 
結婚してからは台中の烏日に定住しました。息子を出産した後に臍帯血を慈済骨髄幹細胞センターに寄贈したことで慈済との縁が続き、ボランティアの呂閃が度々彼女を慈済の活動に誘いました。
 
二○一三年、「大愛ママ」コースに参加すると、親子成長クラスで世話役などを務めました。「一番嬉しいのは、私が子どもと一緒に親子成長クラスに参加し、遊びや劇を通して子どもの本音が聴けるようになったことです。包容の心が生まれ、親子間はもはや一方的な説教ではなく、話し合いと分かち合いができるようになりました」。
 
成長の喜びは智慧を開くのです。彼女は親子クラスの内容に充実感を覚え、慈済について更に理解を深めると共に自らの体験を話すことで苦難に喘ぐ人を励まし、勇敢に歩み続けたいと思いました。そこで二○一八年、慈済委員の養成講座に参加しました。
 
ボランティアの活動で忙しくなった彼女に夫は「お前は時間を無駄にしている。働いてお金を稼いだ方が賢明ではないのか?」と小言を言いました。夫の言葉を聞いた時、彼女はちょっと戸惑いましたが、気持ちを落ち着かせてから次のように答えました。「奉仕に時間をたくさん費やしているけれど、私が得たものはそれ以上なのです!」。
 
ボランティアとしての困難はふいに訪れます。ある日、歳末祝福会前に経典劇のリハーサルした時、終わったのはすでに夜の十時でした。家に帰ると夫がドアをロックしていたので、子どもたちに助けを求めてようやく家に入ることができました。子どもたちは落ち込んでしまった彼女に、「私たちは母さんを応援しているよ」と慰めました。
 
彼女は證厳法師のお諭しを聞いて、自分を変えれば夫も認めてくれることに気づきました。それからは家族の世話を大切にして、理屈を通そうとせず、優しく語り掛けるように努めました。夫は次第に「ボランティアをするならば、家事をきちんとしてからにし、また、帰宅時間をちゃんと決めれば、文句は言わないよ」と約束してくれるようになりました。
 
養成講座に参加するには家族の理解と同意がなければなりません。夫が時に難題を言いつけても、柔和な態度と声音に変えてからは、ボランティアの道がより歩きやすくなりました。早朝に「法の薫りに浸る」活動に行くために、前の晩に、翌朝の朝ごはんの要望を家族にきいて置くのです。そうすれば、朝食の準備に手間取らず、時間を把握できるのです。「菩薩道を歩むのは自分で選択したのだから、堅い意志で進もう」と自分に言い聞かせています。
 
●台中静思堂で「中部古参委員の里帰り」活動が行われ、邱碧琬(右)は当時、自分の一家に寄り添って苦難を乗り越えさせてくれたボランティアの徐瑞宏(左)と再会した。(提供・邱碧琬) 

母親に恩返しし、社会の役に立つ

 
母親は晩年、国姓郷の実家に一人で住んでいました。彼女は烏日に一緒に住むよう頼みましたが、お年寄りは住み慣れた田舎の環境がよかったのです。母親は自立して生活できなくなってから、老人ホームに入ることを選びました。
 
二○一二年大晦日の午後、母親の訃報が入りました。彼女はしばらくぼうぜんとして受け入れることができませんでした。二日前に母親と電話で話したばかりで、旧正月の三日に会いに行くと約束したのです……。母の臨終前に別れを告げ、謝罪と感謝、愛の気持ちを表せなかったことに、自責の念に駆られました。
 
『父母恩重難報経』の経典劇で、このような台詞があります。「父母の白髪は誰のために増えたのか、両親が悲しそうな顔をしているのはなぜか?世の親心はみな同じであろう……」。親の恩は山ほど重いという分かり易くも深い道理の経文を一字一句と唱えると、涙が溢れて止まらなくなりました。彼女は経文を唱え、写経することで母親に恩返しできることを願っています。
 
「私たちが困っていた時に手を差しのべてくれた人たちことを忘れてはいけません。人から受けたどんな些細な恩も、湧き出る泉のように返さなければなりません」。母親の言いつけを胸に、邱碧琬は既に心の拠り所を見つけ、その方向にまっすぐに進んでいます。彼女のように心の重荷を一つ一つ捨ててゆけば、いつの間にか貧困から抜け出し、豊かな人生を手に入れることができるでしょう。
(慈済月刊六三二期より)
NO.276