慈濟傳播人文志業基金會
荒野にこだまする 声に耳を傾ける
ボランティアの願力
 
青年達は被災地での一カ月にわたるテント生活の間、現地ボランティアが炊いたベニバナインゲンとカンランの料理を食べてきた。任務を終えて帰国する時、心に甦るのはモザンビークで過ごした日々だった。
 
●烈日のもとで支援物資を貰う行列の人々のために、高雄ボランティアの蔡雅純は現地ボランティアと共にテントを張った。
 

四月二日、自発的に参加した第一陣の慈済基金会宗教処の青年職員たちが、台湾から二日間の長距離飛行の末にモザンビークのべイラに到着した。その後、台湾、南アフリカ、オーストラリア、イギリスからの青年ボランティアたちが合流し、五十六日間にわたる災害支援の配付と慰問活動が繰り広げられた。
 
平均年齢が三十歳過ぎのこの青年たちは、昼間は一日中村々を回って調査と支援で忙しく、その食事は即席麺や即席飯に現地のトウモロコシ粒と茄子があれば豪華な一食だった。夜はテントの中に蚊帳を吊るし、中で資料を整理して台湾へ送る。ホテル代を節約した分だけ、被災者の気持ちにより近く感じられると言う。
 
皆、黒く日焼けして、まだ幼い面影が残っていたが、張佑平はこのひと月で現地の住民と仲良くなり、現地人ボランティアの炊いた、大鍋にインゲンを煮てカイランを加えた昼食も食べた。「本当に美味しくて、故郷の味がしました。私はモザンビークが自分の国のように思え、ここが益々好きになりました」と言った。
 
調査、会議、調整、物資調達、輸送など、配付や施療活動の裏では言い尽くせない苦労がある。四月から被災地に駐在し始めたこの青年たちは頑なに任務を遂行した。

来て当然

「南アフリカのヨハネスブルクはモザンビークから千三百キロも離れていますが、ビザなしで入国できるので、台湾のボランティアよりも私たちの方が支援に行くのには便利なのです」と、南アフリカ在住の蔡凱帆は家事と事業を後回しにして、二カ月の間に四回も被災地に入って奉仕した。
 
ヨハネスブルクは、南アフリカの他の都市よりもベイラに近く、飛行機で一時間四十分の距離にある。ボランティアの黄騰緯は「ここは私たちとは縁の深い場所です。当然来るべきです」と言った。この二人の青年は浄水剤を被災地まで持って来ただけでなく、カメラとパソコンも持ち込んで、災害状況を詳細に記録していた。
 
黄騰緯は、遠くから来たボランティアは一時のカンフル剤であり、被災者の最も困難な時に緊急支援はできるが、私たち現地ボランティアは時間をかけて彼らを立ち上がらせ、さらに他人を助けられるようになるまで寄り添うのだと言った。
 
慈済基金会職員の陳祖淞は、「ニャマハンダの村人は皆さん善良な方で、彼らに手伝いを頼めば、喜んで応じてくれます」と言った。慈済人は配付と同時に、ボランティアとしての訓練を受ける意志のある人を募ったところ、五百人余りの応募があった。そのうち二百人余りが合格して、「慈済ボランティアのベスト」を誇らしく着ることができた。活動期間中、食事が準備されている場合もあれば、その一食が彼らの一日の食事になるかもしれないこともあった。
 
黄騰緯によると、数多くの住民にインタビューしたが、自分の年齢を知らない人が少なくなく、戸籍もなく、鏡で自分を見たこともないのである。「私はインスタントカメラで或るおばあさんの写真を撮って彼女に見せると、写真の人物が誰なのか分からなかったのです。自分の顔を知らないのです」。
 
彼は話しながら目を潤ませた。住民はこの生涯で一番近い大都会のベイラにも行ったことがないだろう。まして外部の世界を知らないのは言うまでもないのかもしれない。この貧困な地に生まてから選択の余地がなかった彼らに、この先の慈済の援助を通して、人生が変わる機会がもたらされることを願った。
 
●台湾の高雄から来た林維揚(左)、南アフリカヨハネスブルク在住の蔡凱帆は被災地に長期駐在している。大愛テレビの葉樹姍局長(中央)はマプト灌仏会現場で二人を激励した。

旅する意義

オーストラリアの盧威程と歯科医の妻である盧以欣は、五月九日にベイラに着き、オーストラリアからの薬剤師である高敬堯と共に、施療活動の各種準備作業と教育の仕事に投入した。
 
新竹のIT業界に勤めている陳璽中は、蓄積していた有給休暇を使ってこの五月中旬のアフリカ大型派遣団に参加した。彼は住民に対する交流活動の担当を任されたが、言葉が通じないのに気づき、うまく事が運ばなかった。そこで総務担当の二人と一緒に行動することにした。
 
「総務は人より早く起き、施療が終わって皆がホテルへ引き上げた後に、引き続き翌日に施療チームが持って行く必要物資を用意します。私はこの数日間で数多くのことを学びました」。陳璽中は自主的に総務を手伝うようになっただけでなく、慈済大学や専門学校の卒業生を中心にした行政チームを見て彼らの苦労を思い、心が痛んだ。任せられた仕事はやり遂げなければならない。「彼らに心配をかけず、事をうまく処理できれば、また仕事を任せてもらうことができ、彼らの手伝いをすることができます」と言った。
 
以前は娯楽に夢中だった陳璽中も今は休暇を無駄に過ごさず、「苦難の人を助けるという意義のある休暇になり、また来る機会があるよう自分を祝福しました」と言った。ボランティアになった縁を逃さず、「普段からまじめに仕事をして社長に認められ、仕事を代わってくれる人を見つければ、また、ボランティアをするチャンスは来ると思います」と言った。
 
高雄から来た蔡雅純と夫の林維揚は四月十一日、モザンビークに着き、いろいろな活動の準備を済ませてから五月下旬に帰国した。彼女はフェイスブックにこのように投稿した「ベイラではとても貴重な体験ができて、台湾に戻っても感慨深いものがありました。食事の時に蠅を見かけず安心して食べられ、寝る時も蚊がうるさくないので安心して眠れます。水は慣れない味がしないので安心して飲め、トイレも水の心配がなく、安心して流せます。突然、生活は楽なものになりましたが、ブリキ屋根の下や大樹の下で、勉強を渇望する小学生や人込みの中から医師の診察を請う眼をした人を思い出します。緊急支援は一段落しても、中長期は続けなければならない、と法師は言っています。『教育』はアフリカを変える力であり、希望の道なのです」。
 
アフリカで朝早くから夜遅くまで彼らが繰り広げたパワー溢れる活動の話しを聞いていると、インドの詩人タゴールの詩集『迷い鳥』が思い浮かぶ。「こだまが聞えた、山の谷と心の間から、孤独の鎌を以て荒野の魂を刈り取る。絶えず決裂を繰り返し、また幸福も繰り返し、遂にオアシスが砂漠で揺らめく……」。
 
彼らは慈済に出会い、さまざまな人生ストーリーの中から心の奥深くに自分を見出した。慈済は砂漠のオアシスに咲く災害後の蓮の花のように、住民にも自分にも希望をもたらしていた。
(慈済月刊六三二期より)
NO.276