慈濟傳播人文志業基金會
心を浄化する やさしい力
今では街の至る所で静思語の言葉を見かけることができるが、それは三十年前の、分野の垣根を超えた出会いから始まった。作家であり出版業者としてもよく知られていた高信疆が慈済のことを初めて知ったのは、一九八九年のことであった。證厳法師の「真」と「常」のなかに、人の心に影響を与える力があることを見出した高信疆は、これらの知恵の言葉の数々を『静思語』としてまとめ、出版した。
 
それから三十年、『静思語』はすでに十八カ国語版に出版され、世界の隅々にまで影響を与えている。
 
●高信疆(右から4人目)は報道関係者や文化関係者の中から広く友人を招き、初めて慈済を訪問した。1989年12月13日、高信疆と何國慶(1番右)は中国大陸出身の在米作家である劉賓雁(左から3人目)らと共に静思精舎を訪ね、證厳法師と会見した。(写真提供・花蓮本部)
 
一九八九年九月十七日、慈済看護専門学校の開校式典に参加した二万人の来賓は一冊の本を手にしていた。證厳法師の『静思語』である。これは、開校式典を主催した何國慶が、慈済文化の象徴として来賓達にプレゼントしたものであった。
 
慈済委員であった何國慶が出資し、作家であり出版業者としてもよく知られていた高信疆が編集責任者を務めた『静思語』はこの時、慈済看護専門学校の開校を祝福するため記念版四万冊が印刷された。それから一カ月後、更に九歌出版社からも出版され、慈済から世に出された初めての書籍となった。この本は発行から数カ月という短い間に、一九九〇年度台湾出版界における十大ベストセラーの内に数えられることとなった。
 
高信疆は「紙メデイアの風雲児にして第一人者」の異名を持ち、またかつて作家の林清玄から「出版編集界の大将軍」と呼ばれた人物である。一九八九年三月に證厳法師と会見してから九月の出版までわずか半年足らずで『静思語』はベストセラーになり、ロングセラーになり、のちに十数カ国語に翻訳されて世界中で出版された。
 
●2015年の歳末祝賀会にて、證厳法師から慈済人へ「祝福のお年玉」が贈られた。(撮影・黄錦益)
●1990年1月、證厳法師は『静思語』初版の印税を歳末祝福会の「祝福のお年玉」とすることを決められた。それが酒造りの酵母のような役割を担って人々に社会への貢献を促し、功徳と智慧という両方の財を身につけられるようにと願われたのである。以来毎年「祝福のお年玉」の伝統が続いている。左下は1992年の、右下は2018年のそれである。(撮影・蕭耀華)

平易な言葉 一字一字が宝物

中時晩報の社長であった高信疆は、台北市延平南路の実践堂に入って行くまで、慈済の名誉理事懇親会がどのような会であるのか、全く理解していなかった。親友の何國慶からは、一度慈済へ来てみるようにと度々誘いを受けていた。彼は、自分が本当に理解していないものを宣伝したり、付き合いのため表面的な文章で対処したりすることはないと言っていた。
 
彼には自分なりの堅持があった。かつて中國時報の別冊「人間」誌の編集責任者だった頃、ある作家が「花蓮に慈善事業にすぐれた比丘尼がいるので、報道してみてはいかがですか?」と尋ねた時、彼は少しも考えることなく、「私は宗教には関わらないことにしている」と答えた。
 
一九八九年三月四日、高信疆は新聞社から帰宅する途中、誰にも言わず慈済の活動会場へと入っていった。入り口でまず目にしたのは、中国服に身を包み、満面の笑顔をたたえた女性達だった。彼は彼女達から温かい中華包子を受け取った。会場には多くの人々がいた。数人の女性達が同時に立ち上がって席を譲ってくれ、そのうちの一人が通りの階段に腰掛けたので、彼は辞退し難くなった。
 
記者から編集長を経て社長になるまで、高信疆が担当した新聞や雑誌には、いずれも新しさや創造性があった。彼はジャーナリストとしての深い観察力を持ち、常に現実社会へ貢献し、社会的意義を作り出すような仕事をしてきた。だがこの時、客席に座っていた彼は、慈済が二十年余りで成し遂げた救済活動の数々に驚きを隠せなかった。
 
それから二日後の夜、彼は何國慶とともに台北市吉林路に台湾北部を行脚中の證厳法師を訪ねた。宗教を信仰しない彼ではあったが、證厳法師が幼少期に空襲を逃れた時のこと、養女となったこと、その養父が突然他界したこと、台中は豊原の田舎で送った稲作生活のあれこれ、早熟な悟りが真理追求の道をひらいたことなどを、とうとうと語られるのに聞き入った。高信疆は、出家者は世間のことを論じないという自身の思い込みが徹底的に覆されたと感じた。
 
證厳法師の言葉には、難しすぎて分かりにくいところはなかった。高信疆は、宗教家の「真」と「常」が、とても親しみやすいものだと感じた。これらの物語に、彼は目を輝かせた。彼は、ロシアの作家ドストエフスキーの大著『カラマーゾフの兄弟』に登場する東方正教会のゾシマ長老を思い出していた。
 
ゾシマは若い頃に従軍していたが、愚かな事をして後悔し、修道院へ入ることを決めた。恨みの心を克服した彼は、清んだ空気と瑞々しい草花こそが天の恵みであることを知り、生命溢れることの素晴らしさを悟った。ゾシマ長老はまるで鏡のように、人々の心の闇や空虚さを映し出し、彼らを導き、祝福を与える。彼は亡くなる直前に来訪者と交わした会話の中で、数々の知恵に富んだ素晴らしい言葉を残した。
 
ゾシマ長老は小説家が描き出した虚構人物にすぎないと思っていた。だが、目の前にいる證厳法師が、そのゾシマ長老に生き写しであることに高信疆は驚いていた。「現実世界にも、このような智者がいるのだ!」。その後、彼は人脈を通じて報道業界や文化人の中から友人を招き、慈済を訪問した。一行には、劉賓雁、蘇暁康、聶花苓、李欧梵、柏楊といった作家達や、歴史学者である唐徳剛教授も含まれていた。
 
高信疆の推薦により、中央日報、中国時報、聨合報、自由時報等の新聞社も、次々と花蓮に赴いて慈済を取材した。そのうちの一人、中央日報の特集ページ編集者であった洪素貞は、高信疆の紹介により四月九日に花蓮にて訪問インタビューを行い、「万頃の福田を万人で耕す〜證厳法師の慈済世界」と題する一文を、四月十九日と二十日両日の中央日報で連載した。
 
●今年4月、桃園の慈済ボランティアは地域社会へ歩み寄り、商店街で静思語の言葉を共有した。「静思語の良い言葉を町に広めましょう」の活動は、2004年に台北文山区の慈済人が発起した。これは、店主の同意のもと、店に静思語のポスターを貼ってもらう活動であり、今では台湾全土、そして海外の多くの国々へと広がっている

論語にならった智慧の語録

読書家であった何國慶は、證厳法師の言葉は智慧に富んでおり、丁寧に編集すれば、一般の人々も興味を持って読めるものになると考えた。この考えは、高信疆夫人である柯元馨の考え方とも期せずして一致するものであった。
 
高信疆が證厳法師に会見したあの日、別れの挨拶を告げる高信疆に、證厳法師は『慈済の教え』と『三十七道品(涅槃への三十七の修行法)』、『浄因三要』等の資料を贈った。これらを柯元馨が先に読んだ。「内容が素晴らしい!」。当時、時報出版社のマネジャーを務め、鋭い感性を持っていた彼女は、内容を再編集して出版することを提案した。
 
五月初旬、高信疆は新聞社を辞職したばかりの洪素貞に電話をかけ、慈済のために一緒に何かしようと彼女を誘った。彼は、證厳法師のために一冊の語録を出版することを考えていた。
 
洪素貞は慈済のインタビュー記事を書き終えた後も、感動冷めやらぬ気持ちでいた。ちょうど職業人生における空白の時期を過ごしていたこともあり、高信疆の依頼を受けることにした。中国文学を専攻していた彼女は、『論語』の形式にならってはどうかと提案した。高信疆の同意を得ると、すぐに資料の収集に取り掛かった。
 
何國慶、楊亮達をはじめとする慈済委員の協力のもと、台北から十九名の委員チーム長を招いて数度にわたる会合を開き、證厳法師が述べられた言葉のうち、彼らにとって一番役に立ったと思う言葉を共有してもらった。その後、各委員チームから證厳法師の言葉を五つずつ提示してもらった。また、洪素貞はベテランの委員達を訪問し、彼らが證厳法師から直接受けた教えを遡って取材した。静思精舎に一週間泊まり込み、證厳法師の講演記録や弟子達の日誌の研究を続けた。大海の中で針を拾うような根気のいる作業により、ついに一千余の言葉が選び出された。
 
こうした細かな編集作業は、高信疆が姿を表すまで続けられた。当時コンピュータなどはなかった。高信疆は資料を短冊状に切り、三時間も地面にしゃがみこんで、一つ一つ分類し、整理した。その様子を間近に見た何國慶は、優秀な編集者は舞台裏での努力を欠かさないものだと知った。
 
編集が完成し、上下二巻とすることに決まった。上巻は『静思晨語』と題し、時間、慈悲、貪欲、因縁、修養と修行等に関する證厳法師の言葉を集めた。下巻は『人間問答』と題し、高信疆夫妻が精舎で直接證厳法師へ質問した内容をまとめたものであり、寛柔、責任、コミュニケーション、嫁姑、情愛を語った人事編と、信仰、仏教学、功徳、因果等を語った宗教編からなる。
 
何國慶と高信疆は、書名を『静思語』とすることに決めた。李男氏が美術設計を担い、表紙には奚淞氏の仏画を掲載した。編集責任者から美術設計までを当時一流の人物に依頼して出来上がった本は、簡素な中にも典雅な風格があるものになった。何國慶が出資して二万冊を印刷し、慈済看護専門学校の開校式典で来賓と縁を結ぶ物として贈られた。この本は慈済人の間ですぐに広まり、盛んに読まれるようになった。何國慶はすぐに二万冊を増刷して送り届けた。
 
「この本は、慈済の会員だけでなく、一般の人々にも読んでもらうべきだ」。このような考えは、高信疆と何國慶の共通認識だった。これまで仏法書、善書の多くは寄贈によることが多く、慈済の出版物も市販されたことはなかった。『静思語』を市場で販売するため、何國慶と高信疆、そして中央日報編集長の王端正は三人で会議を開き話し合った。一九八九年十一月、『静思語』は九歌出版社から一般市場に向けて出版された。
 
「この度の刊行によって、この本が慈済人の覚行の指南として読まれるだけでなく、社会一般の縁ある人々に、生活の懇切丁寧で実行可能な一冊の辞典として、読まれるようになることを期待している」。高信疆は「出版の背景」の文中でそう述べた。
 
一九八七年、台湾では戒厳令が解除され、数年のうちに大きな経済発展を遂げたが、株式と不動産がバブルの一歩手前まで上昇し、社会は不安に包まれた。『静思語』は、こうした人々の心の求めに応じるものだったのだろう、発売後わずか一週間のうちに二万冊が完売した。台湾全土における三十二の書店でベストセラー第一位となり、わずか二カ月で三十刷を重ね、印刷部数は六万冊に達した。
 
●南投県中寮郷の社寮中学校の廊下で、学生達はどこでも心を養う良い言葉を目にすることができる。台湾中部では、約六百校が校内に静思語を掲示しており、生徒達は校内環境から自然に学ぶことができる。(撮影・黄筱哲)

生活に根付いた人生指南

『静思語』は書店で飛ぶように売れた。九歌出版社の発行人である蔡文甫は、證厳法師との会見時に印税の入った厚みのある封筒を手渡した。證厳法師はこの知恵の財産を、歳末祝福会における「祝福のお年玉」として、慈済人と共有することを決められた。
「では法師から皆様にお年玉をお渡しします」。一九九〇年一月十八日、大晦まであと八日となったこの日、證厳法師は委員懇親会にて以下のように喜ばしく宣言された。「このお金は功徳会のものではなく、基金のお金でもなく、私自身のお金です。私がどこでお金を稼いだというのでしょう?良い知らせがあります。『静思語』の印税のおかげで、今年は私から皆さんにお年玉を配ることができます!」。
 
『静思語』の印税によって、その後慈済人が毎年の歳末に證厳法師から受け取る「祝福のお年玉」が生まれた。證厳法師は、慈済人達がこれを酵母として、世俗の財を社会のために使うだけでなく、功徳の財と知恵の財をも身につけて欲しいと考えた。
『静思語』の出版から五カ月後、一九九〇年四月十五日のこと、證厳法師は委員懇親会の場で、昨日一人の青年から受け取ったという手紙について話された。
 
「彼の手紙にはこうありました。『法師、私はあなたにお会いしたことはありませんが、あなたの『静思語』が私を救ってくれたことに感謝しています。私はある日、信用金庫を強盗しようと考えていました。その時、隣にあったバイクの上に『静思語』が置いてありました。手にとって開いてみると、「善行をするのに一人たりとも欠けてはならない。悪行には一人たりとも加わってはならない。」との一文が目にとまりました。私は棒で一喝されたように、理性を取り戻しました。もしこのことがなければ、今この手紙を書いている時分、私はすでに自由の身ではなかったでしょう』彼は、幼い頃から家庭が貧しく、生活が苦しい中で努力して高等教育を終え、兵役を終えた後も努力して仕事をしましたが、友人の保証人になり、その友人が夜逃げしたことで、四五〇万元の負債を負うことになったそうです。債権者が毎日取り立てに来て、行き場を失い、このような考えに及んだ時、幸いにも『静思語』を読み、ハッとして思い直し、恥ずかしくなったのだそうです」。
 
この住所の無い手紙は、證厳法師の心を慰めた。「なんという不思議な縁でしょう。この縁が無ければ、どんな結果になっていたことか。私はこの匿名の青年を心から祝福します。光明ある未来に向かうことを祈ります!」。
『静思語』が人の心を救った例は、枚挙にいとまがない。
 
ある日、一人の男性が慈済の台北支部に入って来た。彼は定期的に『静思語』を二十冊購入して人に贈っているが、重慶南路の書店では一度にこれほどの数を購入できないため、直接慈済の支部まで来たのだと言う。
 
なぜ毎回二十冊も買うのかといえば、彼は新聞で「逃走した妻への警告」が掲載されているのを見るたびに、掲載主に電話して子供はいるかと尋ねるのだと言う。もし子供がいるなら、子供の面倒をよく見るように諭し、『静思語』を贈る。実は、『静思語』に出会う前、彼もこのような広告を出したことがあり、ずっと復讐ばかり考えていたそうだ。彼は、配偶者に不実を働いたことで婚姻が破綻したと自認しているが、その後も同居人に暴力を振るったため、相手が幼い娘を連れて家出したのだった。長女を養わなければならないのに仕事をする気になれず、頭の中は恨みで溢れ、耐え難い苦しみを味わったのだという。
 
その時、近所の人が『静思語』をくれた。彼はこれを読んで冷静な気持ちになり、慈済人に助けを求めて導きを受け、ついに心を整え、新たな人生に向き合うことができた。「私の家庭は、『静思語』に救われたのです!」。彼は『静思語』を購入し、この一冊の良薬を、同じ境遇に苦しむ人に贈ることにした。
 
当時、半月に一度発行されていた「慈済道侶」では、毎号冒頭に静思語が一つ掲載されており、多くの人々がこの簡潔で良い言葉に目を引きつけられた。特に教育界の人々がしばしば引用し、人格教育の教材とすることが多かった。
 
台北で教師をしている慈済委員の林慎はある日保護者からの電話を受けた。「林先生、娘は家に帰るといつも書き留めた『静思語』を私に見せてくれるのです。私は以前、主人と喧嘩して一、二カ月も口をきかない事がありました。私はまるで武則天のように、家族に言うことを聞かせようとしていたのだと思います」。
 
その結果、家族に恐がられ、避けられ、彼女自身も苦しみを味わったそうだ。そんな時、娘が書き留めた言葉を見た。「他者を一つ許すごとに、幸福が一つ増える」、「良い言葉は口からハスの花が出るのに似ている。悪い言葉は口から毒ヘビが出るのに似ている」。この二つの良薬を服用し続けた結果、彼女は子供と話す際には励ましの言葉を使うようになり、また夫に対しても恨みを持たないようにし、家庭の雰囲気が大きく変わったのだそうだ。彼女が教師に電話をかけ、お礼を言ったのはこういう訳であった。
 
●慈済ボランティアが台中の監獄で開催した静思語の読書会にて、収容者が活動の感想を記録しているところ。ボランティアは台中、屏東、宜蘭、花蓮等にある監獄を慰問し、前向きな良い言葉を共有した。(撮影・陳群誠)

十八カ国語に翻訳され、世界中で発行される

『静思語』の誕生を支えた何國慶にも、この本の力を感じる出来事に出会った。彼はある時、商談相手と意見の相違が生じ、互いの声が次第に大きくなっていった。その時、電話が鳴った。彼が電話を済ませて席に戻ると、相手の態度が一変していた。テーブルの上にあった『静思語』の「道理はまっすぐ、態度は柔らかく」との言葉を見て、怒りが瞬時に消えたのだという。『静思語』によって二人の心は平穏を取り戻し、商談も順調に進んだ。
 
洪素貞は『静思語』を編集しながら、法師の言葉に含まれる深く豊かな力を感じ取っていた。人の心を癒し、善を呼び起こす力である。「宗教とはどこか遠いところにあるものではない。ここでは人間菩薩の価値が作られ、生活に根付いた仏法の信念が実践されているのだ」。洪素貞はのちに證厳法師に帰依し、静原という法号を授かった。
 
「證厳法師の話される言葉は、決して人を驚かすようなものでは無いにも関わらず、たった一言で人を夢から醒ますことができる」。高信疆は「編集にあたって」の文中で、「證厳法師の話は、高尚で華やかな言葉を使わずとも、小さなところから真理を発見するものである。問答の中に大きな啓示が溢れている」と述べた。
 
「法師の救済行動の力は、観念に始まって、浅いところから深く入り、身近な問題から人生哲学の問題へと導くものです」。高信疆は、證厳法師の言葉は人生指南を与えるものだと考えた。日々の生活に根ざすそれらの生きた言葉にどれほどの人と、そして家庭が救われたか知れない。
 
『静思語』の完成前、王端正も筆をとった。「真理は往々にして日常の中に隠れており、偉大さは平凡の中にあります。『静思語』には難しくて読めないような用語は無いにも関わらず、一言一言が深く考えさせられるものです。分かりにくい仏教学の用語はありませんが、一字一字に仏の性質が込められています」と彼は考えた。
 
何國慶は当時、高信疆と王端正という報道界の先輩二人と『静思語』の出版について話し合った時のことを覚えている。経営者であった彼は、この本は必ず市場の評価を得ると確信しており、五十万部から百万部は売れると予測した。高信疆と王端正は大声で笑って言った。「何師兄、それは不可能ですよ。台湾の出版界では、二万部を売ればもうベストセラーなのです」と。
 
ところが『静思語』出版から一年のうちに、発行量は二十万冊に達し、高信疆と王端正の予想の十倍を超えた。二人は眼鏡がずり落ちそうになったことだろう。
 
高信疆のおかげで人口に膾炙する良書が誕生した。彼と證厳法師との縁のおかげで、報道関係者や文化関係者が慈済に注目するようになったのである。高信疆が慈済に足を踏み入れたあの年、台湾が慈済を発見したのだと、何國慶は考えている。
 
●ホテルの客室に『聖書』が置かれているのをよく見かけるが、2005年より台湾では『静思語』を置くところも現れた。その後、ボランティアの推進によって、今では国内外で1400軒のホテルに設置され、旅人と善縁を結んでいる。
 
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現在『静思語』は既に十八カ国語版が刊行され、七百万冊を超えて販売されている。慈済教師懇親会の教師は、静思語教育を発展させ、良い言葉を国内外の学校に取り入れた。多くの子供たちが『静思語』を朗唱できるようになっただけでなく、その家族に影響を与えることもあった。一言一言が精錬され、簡潔な仏法の言葉が街角や商店街に溢れ、いつでも人の心に清々しさを届けている。
 
過去三十年間、『静思語』は社会に対して、大いに善の影響を与えてきた。證厳法師は、この本の誕生を支えた何國慶の功徳は無限大であるとたたえられ、また人文志業には人心を浄化する力があるとの確信を強められた。「この本を読んだ全ての人が、心の自由を得られることを願っています」。『静思語』は證厳法師が易しく分かりやすい言葉で、人生の道理の初心を説いたものである。この本が、より多くの人々の心と出会うことを願っている。
 
【静思語・修養編】
・大きな過ちは容易に反省できるが、
 些細な悪癖はなかなか改められない。
・心が美しければ、何を見ても嬉しくなる。
・相手の目の中に入るほど己を小さくし、
 心の中にまで入り込まなければならない。( 撮影・黄筱哲)
 
【静思語・家庭編】
・母親の心で世の衆生を愛し、菩薩の智慧で子供を教育する。
・親孝行は人生で最も幸せなことである。
・夫婦の間柄はどちらが相手をより愛しているかが大事であり、
 相手より大きく出ることではない。( 撮影・黄筱哲)
 
【静思語・実践編】
・人生は使用権こそあれ、所有権はない。
・自ら福田を耕せば、
 自ずと福緣がもたらされる。
・中途で止まるのは、
 目標にたどり着くよりも困難である。( 撮影・黄筱哲)
 
(慈済月刊六三五期より)
NO.276