頼允政(ライ・ユンジョン)さんの造血幹細胞は林志龍(リン・ジーロン)さんに寄贈された。「医師になる」夢が叶い、彼はより多くの人にチャンスを与えるだろう。命の奇跡であるばかりでなく、愛のリレーとなった。
元々、面識がなかった二人または二つの家庭が最も親しい「血縁」関係になるのはどのような縁からなのだろう?また、異なる人生で回り回った挙句に出会っても、少しも距離を感じない。
一九九六年に慈済(ツーチー)骨髄幹細胞センターでドナー登録をした頼さんは、十四年後の二〇一〇年に、HLA(ヒト白血球抗原)の適合通知を受け取った。彼がドナー登録した時、林さんは生後一歳足らずの赤ちゃんだった。成長して白血病を患うとは誰も知る由もなく、ましてや移植手術に成功した後、医学部に合格し、臨床医療の領域で人命を救う医者になったのだ。
二十三年前に蒔かれた善の種が、二十三年後に燦々と輝く生命の花を咲かせ、髄縁の香りを放ったのである。
受贈者が健康であれば、それでいい
適合通知を受けた時、頼さんは丁度仕事で忙しかった上に、家族は造血幹細胞寄贈についての知識がなかったため、もう少しでその縁は切れるところだった。しかし、幸運にも慈済ボランティアが諦めず、彼の兄や姉も母親を説得した結果、その命の縁はしっかりと繋がり、順調に寄贈を終えることができたのである。
注射や採血は怖くなかった頼さんだったが、顆粒球コロニー形成刺激因子製剤の注射と造血幹細胞採取の時は少し緊張した。「勇敢になるのだ!相手は自分の何百倍もの苦しみを味わっているのだから、一緒に頑張って乗り切ろう!」と自分に言い聞かせた。
寄贈した後、毎年、受贈者から便りがあり、移植が成功したこと、正常の生活が出来るまでに回復したこと、学校に通っていること、そして海外で医学を学んでいることなどが書かれてあった。「これは愛の伝承だと思います。私の造血幹細胞が彼に生きるチャンスを与え、彼が人助けをする医者になって無数の人にチャンスを与えるようになるのです」。
数年来、寄贈者と受贈者の対面する機会は何度もあったが、毎回、頼さんが海外出張していたり、林さんが留学中だったりで、会うチャンスがなかった。何度もその機会を逃したが、頼さんは、「受贈者が健康であれば、特に会う必要もないだろう」と思った。
二〇一九年、林さんはオーストラリアの大學の医学部の卒業を間近に控えて、クリスマス休暇に台湾に帰っていた。同じ頃、デルタ電子株式会社の南科支社で主任をしていた頼さんも会議のために台湾に戻っていた。そこでやっと縁が成就し、寄贈から九年、十二月十一日に花蓮静思精舎で対面することになった。
会見に先立ち、林さんの家族は皆、感激と感謝に溢れる挨拶をしたいと思った。林さんの父親も医者だが、息子の治療過程を振り返って、医師から患者の家族になった時に妻のいたたまれない様子を見て、どうやって切り抜けたのか分からなかった。彼は冷静にそのことを捉えることができると思っていたが、過去のことに言及するとやはり、涙がこみ上げてきた。「もし證厳法師の慈悲心から設立された慈済骨髄幹細胞センターと師兄や師姐たちの努力がなかったら、今の息子はいなかったでしょう」と語った。
林さんの記憶によると、癌になった時はまだ十五歳で、ケモセラピーと放射線治療がとても辛かった上に、学業で同級生に大きく遅れをとってしまったため、大きな挫折感を味わったが、幸いにして全ては過去のものになった。
「献身的に世話してくれた両親に感謝したいと思います。弟にも、私の病気のために構ってもらえなかったことを済まなく思っています。皆さん本当に有り難うございました」と林さんはこの機会に感謝の言葉を述べた。
母親も息子は物分かりがよく、親に心配をかけなかったことに感謝した。いつも黙って苦しみに耐え、それが逆にいじらしくて心が痛んだ。「いっそのこと怒りを爆発させてくれたら返って良かったかもしれません。いつも私たちの前では痛いと言わないので、彼が苦しいと言った時は、本当に辛くてたまらなかったのだと思います」。子供が病気になると、親は綱渡りをしているようで、片時も気を弛めることはできない。
母親は、その過程で多くの恩人に出会い、医療チームのケアと遅れていた勉強の補習をしてくれた教師に感謝した。そして数えきれない感謝にどう恩返しをすればいいのか分からなかったため、彼女は慈済に参加し、骨髄ケアチームに入った。初め、任務を遂行した時、その大変さが分かった。休日も昼も夜もなく、特に適合者に寄贈をお願いする時がそうだった。
寄贈のお願いをしに行く時、いつも夫の林医師が有力な後ろ盾になった。それは相手を説き伏せるのを手伝うのではなく、医師の免許を持って採血の手伝いをし、また授業で学生たちに臓器移植と造血幹細胞寄贈の重要性を説き、行動で以て慈済骨髄幹細胞センターを支持した。
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●9年かけて受贈者の林志龍(左2人目)は遂にドナーの頼允政(左端)と対面を果たし、感激と感謝の気持ちが堰を切ったように溢れた。 (撮影・楊國濱)
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時間をくれた寄贈者に感謝したい
林さんの家族が会議室で移植のチャンスを待っていた時の話をした。慈済骨髄ケアチームのボランティア・林淑芬(リン・シューフェン)さんの付き添いで、寄贈者の頼さんとそのお兄さんが外で傍聴していた。
進行係を勤めていた花蓮慈済病院の呉雅汝(ウー・ヤールー)医師の呼びかけで、頼さんが中に入ると、林さん一家は目頭を熱くした。あの年、あの人のお陰で生命に奇跡が起きた。激情が溢れ、まるで長い間会っていない家族に会った時のように、喜びの感情が会場にいた全ての人を感動させ、皆涙を拭った。
林さんが頼さんに声をかけた、「本当にありがとうございました。私の命はあなたによって救われました。それにあなたは私が想像していたよりもずっとハンサムです!」。父親の林医師も、頼さんがいたから、息子は生き延びることができ、その命でもっと多くの人を助けることができることに感謝した。
母親がこう回顧した。息子が回復して留学した時、彼女は腕時計を買って寄贈者に渡してもらうよう、センターに託した。「寄贈者にとても感謝しています。息子が側にいてくれる時間を与えてくれたからです。しかし、腕時計はセンターから送り返されました。私はずっとそのことが気に掛かっていました。私たちはとてもあなたに感謝しています」。
頼さんはこみ上げる気持ちを抑え、終始太陽のようなにこやかな笑顔を浮かべていたが、目を赤くして震える声でこう言った。「私はずっと、これは天が与えてくれた人助けのチャンスであり、その幸福になるチャンスをどうして掴まないわけがあるでしょう?逆に私の方から感謝しなければなりません。そして骨髄幹細胞センターが運営していたお陰で、私はこのチャンスを掴むことができたのです。あなたたちは私に感謝に来たと言いましたが、私こそ皆さんに感謝するためにここに来ました」。
当時の寄贈に付き添っていた台南区ボランティアの林さんは、初めから感激の涙を流し、頼さん一家がその善行に賛成してくれたお陰で移植に成功したことに感謝した。二十数年来、骨髄ケアチームはこの道を歩んできて、一人ひとりの命を救うために一度でも諦めたことはない。
対面の時間はあっという間に過ぎた。慧命を成長させてくれた命の恩人に対する最も良い恩返しは、これから健康に気をつけ、生命の良能を発揮して周囲の人々に幸福をもたらすことである。
(慈済月刊六四〇期より)
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