母が病になった時、何国煌(ホー・グオホアン)医師は、患者の家族がどれほど恐怖に苛まれるか身を以て体験した。そこで彼は医師を志した。「患者と家族が助けを求めている時、心を落ち着かせる力を与えるのは、医師として大切な仕事だと思いました」。
クアラルンプールのマレーシア国民大学(UKM)病院・腫瘍と癌の放射線治療部門には快適で清潔な部屋がある。革張りの一人用ソファーが幾つも置かれており、患者は点滴を受けているように見えるが、実はケモセラピーの最中なのである。何医師は中に入り、一人の患者に近づいて穏やかに具合を尋ねると、次の治療の予定を立てた。
治療を済ませて間もなく、ケータイが鳴った。すぐに緊急処置のため病室に急いだ。何カ月も診てきた患者で、リスクの高い手術を受けたばかりだった。腫瘍を摘出したので二週間後に退院する予定だったのが、突然亡くなってしまったのだ。何医師は患者の奥さんにメッセージを送ったが、返事がなかった。
「私はその時の奥さんの気持ちが良く分かるのです。夫の臨終の刹那に側に居なかったのですから」。長い間、患者と家族に寄り添って癌と闘ってきた何医師は、彼らの気持ちに心を重ねたのか目を赤くして、ゆっくりとそう語った。
その話が終わった時、看護師からメッセージが入ってきた。悲しんでいる時間はなく、いくら悲しんでも役に立たないとも思い直し、放射線治療専門医として、彼は速やかにいつもの自分に戻った。冷静に多忙な一日に対処するには全精神を医療行為に集中することこそが大事なのである。
病はとても苦しいが、焦りと不安はもっと辛い
今年四十七歳の何医師は、同年輩の人よりも白髪が多く、専門の癌治療の話になると両目が鋭くなる。小さい頃は教師になりたいとも考えたそうだ。高校一年の時、母が大病を患った。癌と誤診され、様々な検査を受けた時は一家が辛い思いをしたが、結局何もなく、驚かされただけだった。それで、医師を志し、癌を専門の領域にすることにしたのだという。
「母が病気をした時、患者の家族がどれほど不安と恐怖に苛まれるかを知りました。特に病状に対して何の知識もなかったことが一層焦りと無力感を募らせたのです」と何医師は言った。ある日、彼は病院の前で母のCT検査をした医師に出会ったので、その医師に尋ねた。
「先生とは僅か二十秒の会話でしたが、私の不安は完全に消えました。これほど医師は患者や家族の心に影響を与えるのだと気が付きました。あらゆる治療段階で、患者が無力感に陥った時、医師は彼らの気持ちを落ち着かせることができるのです。なんと素晴らしい仕事だろうと思いました」。まだ若かった何医師は人助けを志し、何もしてあげられない人間にはならない、と誓った。
何医師は一九七三年にマレーシアのサバ州ビューフォート地区に生まれた。父親は小学校の校長、母親は専業主婦で、八人兄弟の六番目だった。小さい頃、家庭は貧しかったが、成績が優秀な彼は母親の病気の後、しっかりと目標を立てて懸命に勉強し、高校を卒業後、奨学金を得てイギリスで勉強を続けた。
一九九五年、彼はスコットランドのセント・アンドルーズ大学薬学科を卒業し、優秀な成績でイングランドのマンチェスター大学医学部に入学し、三年で卒業してから更に研修を続け、二○○七年に腫瘍科専門医の資格を取得した。
彼は自分の決めた人生プランを歩むため、高収入であるイギリスでの医師業と先進医療システム及びハイテクを研究する機会を放棄して、マレーシア国民大学付属病院に戻り、腫瘍と癌の放射線治療専門医兼講師となった。
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●病院と教鞭で忙しいが、何医師は時間があれば機会を逃さずボランティア活動に参加している。マレーシアの慈済人医会メンバーとなって医学部の学生に医療人文に関する話をする。何医師は調理ボランティアにも参加している。(撮影/写真左・戴于玲、右・陳德銘) |
医師が仏法を学ぶのはとても有益である
何国煌医師が国立病院に戻った理由は、貧しい患者を助ける以外に、もっと多くの若い腫瘍科医師を養成したかったからだ。近年、私立病院が様々な手厚い条件で彼を招聘するが、彼は動じない。私立病院は貧しい患者に奉仕したいという彼自身の願望を満たすことができないと分かっているからだ。
心から人助けしたいという思いは慈済人医会の理念と一致していた。慈済ボランティアの黄淑瓊(ホアン・シューチョン)さんの勧めで、彼は二○○八年に慈済の施療活動に参加し、その後も家に受信機を取り付けて大愛テレビを見るようになった。その時から仏法に接触し始め、慈済への理解を一歩進めた。
何医師によると、年に何回も施療活動に参加したが、自分が奉仕した患者はそれほど多くなかった。しかし、施療という縁で仏門に入ったことは、彼の人生に大きな変化をもたらすかもしれないと考えたそうだ。
普段、早めに家に帰った時は直ぐにテレビをつけ、夜九時に證厳法師の「静思晨語」の開示を聞いている。今まで信仰する宗教を持たず、仏教は迷信だと思っていたが、證厳法師の開示は彼の考え方を変えた。
「證厳法師の教えは非常に生活に溶け込んでいて、何も不可思議なことはなく、全てが基本的な人生の道理なのです」。長年にもわたって医学的訓練を受けてきた何医師にとって、人が死ねば灰になるというのは物理現象に過ぎなかった。それが仏法を理解してからは、生命はそれだけではないことが分かってきた。
「證厳法師は、人はこの世では菩薩道を歩み、人間(じんかん)で人助けすべきだと言っています。私はこの理念を信じます。それによって生命は最大限に良能が発揮できるのです」。
何医師は證厳法師が自分にも慧命を授けてくれたこと、仏に学ぶ道を切り開いてくれたことに感謝している。現在を大切にし、過去のことを悔まず、未来のことを妄想しないことで、彼は悩みがかなり減ったと感じている。
謙虚に学び、智慧を増やす
二○一八年の旧正月は何医師にとって、人生における一つの試練の時期だった。正月前に父の声が出なくなったことを知って里帰りを機に父を病院に連れて行った。医師の診断は食道癌だったが、父は七十歳を越していたので一連の治療をこなすのは容易ではなかった。しかし、二日後は正月でもあり、兄弟姉妹皆が里帰りして一家団らんを迎えるので、考えた挙句、しばらく誰にも話さず、旧正月明けにもう一度父をマレーシア国民大学病院で詳しく検査しようと思った。
旧正月の間も時々そのことが頭に浮かんだが、やはり今は家族と楽しく正月を過ごし、そのあとで父のためにやるべきことをやろうと思った。
「父の今後の治療など考え続けることもできましたが、それは執着であり、自分にも患者にも利益をもたらしません。皆にこの話をすれば、春節を祝う気分を損ねるので、暫く考えないことにしました」。
二回目の検査の結果、食道がんではなかった。これまでの心配や不安は全て余計だった。
「仏に学ぶと、先ず利されるのは自分です。試練が訪れた時、それに対処する方法がなければなりません」と何医師は言った。高等教育を受けていても、智慧は謙虚な心によって啓発され、自己満足や傲慢な人には智慧はないと何医師は思っていた。「コップ中の水を少し捨ててこそ新しい水を入れることができますが、最も良いのは空にすることです」。
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●多くのセランゴール慈済人医会のメンバーがチームリーダーの付き添いの下に、2018年11月、台湾で慈済ボランティアの認証を授かった。(写真提供・葉碧儀)
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誰もがしなければならない人生の宿題
何医師は患者に彼が学んだ仏法を喜んで分かち合っている。それらを日常生活に応用すれば、世の中のためになり、人生の智慧にもなる。しかし、大勢の患者が彼を待っているので、彼にできることは限られている。
「咽頭癌で第四ステージの患者が来られたとき、私は励ましたかったのですが、たったの十分や二十分間で、どうやって自分が理解した僅かな浅い『仏法』を伝えることができるでしょう。ですから、私たちは常に自分を充電して、宿題をしておくことが大事です」。
四年前、セランゴール慈済人医会の陳成亨(チェン・チョンホン)医師は、何医師に慈済の見習い・養成講座に参加するよう勧めた。初めは時間が取れないことを心配して断っていたが、陳医師の励ましもあり、勉強する気持ちで参加した。
毎回講座に行く時、行こうか行くまいかと迷って心の葛藤があった、と彼は笑って言った。実際はたくさん学ぶことができ、多くの先輩たちと知り合ったそうだ。二年間の課程を順調に終え、二○一八年に認証を授かった。
自分は多くの悪い習慣を改めなければならない、特に強情で人を罵倒するところを、と何医師が言った。證厳法師の静思語に「気性や口先が良くない人はどんなに善良であっても、善人とは言えません」という教えがある。それは常に彼を戒め、にこやかな顔になるよう努力している。
「私たちの肉体はいつか消滅します。ですから私は今生、證厳法師と師弟の縁を結びました。これで来世ではぼんやりして道に迷うことはないでしょう」。慈済は仏法を日常生活に取り入れるので、證厳法師が示す道は誰もが実践できる、と何医師は言う。
「静思法脈の精神を理解すれば、不平不満を言わなくなりますし、回りの人に影響を与えて人同士の争いを減らすことができるのです。静思弟子である私たちの最終目標は、和やかな世界を作り、多くの志と信念を共にする人と善行することなのです」。
(慈済月刊六四一期より)
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