防護用品と食料の価格が高騰し、国境付近の砂漠地帯に住んでいる難民や遊牧民の大きな負担となっている。戒厳令で夜間外出が禁止され、遠くで苦難に喘ぐ人々に手が届かない。慈済はどのように支援すればいいのか……。
中東各国と国境を接するヨルダンは、長年パレスチナ、イラク、シリア、アフリカのソマリア、スーダンなどの近隣諸国から戦火を逃れてきた難民を受け入れてきた。現在も百五十万人以上が滞在し、そのうちの約六十五万人がシリア人である。
首都アンマンの慈済ボランティアは、長期的に国境付近の砂漠地帯でテント生活をする貧しいシリア難民のケアをしており、現地の遊牧民ベドウィンと共に二カ月に一度、物資を配付している。しかし、今年の三月は砂嵐で配付ができず、三月二十一日からヨルダン政府の発令した新型コロナウイルス感染拡大防止のために戒厳令を受けて軍が道路を封鎖して都市交通を遮断したため、国境付近のシリア難民たちはより困難な状況に陥った。
「彼らは昨年十一月から収入が途絶えています。以前はヨルダン渓谷へ出稼ぎに行っていましたが、今はそれができず、生活の収入源は完全に絶たれています」。慈済人の陳秋華(チェン・チウホア)さんは、テント地区の難民が食糧不足の危機に直面していることを心配していた。
戒厳令下では夜間の外出禁止、休業と休校が実施されており、緊急事態を除いて人々の外出は厳しく制限されている。感染症の影響で、街ではお金があっても物が買えず、医療用マスクは一箱二・二五ディナール(約三百円)だったのが五倍に跳ね上がり、消毒用アルコール製品も品切れで、ジャガイモやトマトなどの野菜も数割値上りしている。
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●3月初旬、ヨルダンの慈済ボランティアは、ナンサ市のシリア人貧困家庭を定期訪問して物資と手作りの石鹸を届けると、手洗いによる感染予防を教えた。 (提供・慈済ヨルダン支部) |
四月二十四日からイスラム教徒にとって重要なラマダンに入る前に陳さんはシリア難民のボランティア・カディジャさんと電話で連絡を取りあい、マフラクのフウェジャ村で食糧が不足していることを知った。道路封鎖の下で難民支援の方法を模索し、四月初旬にマフラク在住のシリア人医師であるアタ・モハマドさんに連絡係の役目と物資の購入を依頼した。
以前、何度も慈済と協力して難民の施療を行なったことがあるシリア人の眼科医アイダさんによると、マフラクでは全ての店舗に在庫があるわけではなかったが、最終的には値段の手頃な店が見つかった。店に確認を取ってから購入を完了すると、直ちにフウェジャ村のテントエリアでの配付準備に取り掛かった。米、小麦粉などの主食三食分と二十五キロの新鮮な果物や野菜などは、一世帯一カ月分の食糧に充分な量である。
カディジャさんによると、テント地区の人々は食糧不足を心配していたため、物資が届くと、大人も子供も笑顔を浮かべたという。「言葉では言い表せないほど感謝の気持ちでいっぱいです」と言った。
アンマン市郊外のシリア難民のシングルマザーと孤児が暮らす「慈心の家」は、慈済が長期的に家賃と学生の就学を支援している場所だ。四月に母親達から届いた手紙にはこう書かれていた。
「感染症のために各地で休業が相次ぎ、隔離されています。この困難な時期に誰からも顧みられることなく、世界から見捨てられたようになり、国連難民事務所も門を閉ざし、電話も通じません。私たちが十四日間家で待機したと確認したのち、政府は決まった時間帯に外出して買い物することを許可するのですが、食べ物を買うのには十分なお金がありません。以前から私たちを思いやり、心配してくれるのは慈済ボランティアだけです。慈済に深く感謝します。法師様、ありがとうございます」。
「慈心の家」の母親たちは、以前は出稼ぎをしながら国連難民高等弁務室が発給する買い物券で何とか生活してきたが、戒厳令のために三月から買い物券は発給されなくなり、三十五世帯が食糧不足に陥った。ヨルダンの現地ボランティアは交通の困難を克服して、物資と義援金を届けた。野菜売りは「慈心の家」が孤児センターであることを知って、野菜の値段を下げただけでなく、更にお金を寄付した。センター管理人のアブテムさんは子供たちの栄養補給のためにと、残ったお金を全て使って牛乳、ヨーグルトなどの乳製品を買った。食糧や野菜が配付される写真を見て、陳さんはほっとした。「彼らがお腹を空かしていないと分かったので、私はやっと安心して眠れます!」。
(慈済月刊六四三期より)
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