貯蓄する習慣がない生活に都市封鎖が重なったフィリピン。感染症が拡大する中で最も大きな打撃を受けることとなったのは貧困層である。通行証を申請すれば毎日一世帯につき一人だけが外出できるので、これに慈済の取り組みを合わせ、九万世帯以上に一カ月分の米の配付を行った。自宅で感染を予防するにはこれでひとまず安心だ。
三月中旬、マニラ首都圏に通じる国内の陸・海・空路全てが暫時通行止めとなった。いつもは往来が激しいマニラ港周辺の道はがらがらになった。港に近いトンド地区では、四月中旬にコミュニティーでの大火が二件発生し、千三百世帯余りが家を失った。避難場所は人があふれ返ったが、マスクを着けている人は殆どいなかった。まだ多くの被災世帯が避難所に入ることができず、焼け残った僅かな家財道具を持って道端で野宿していた。
三輪車夫のマイケルが三輪バイクに掛けてあった布を取ると、中は一家三人の避難場所になっていた。「私たちは横向きに寝るしかなく、息子は真ん中に、妻と私は両側に寝ます。火事の後はここが私たちの家なのです。感染症が広まっているのに、火災まで起きてしまうなんて…」。
感染症で都市が封鎖され、住民は自宅待機して感染予防を求められているが、彼らは祝融の災いに遭って家を失い、どうしたらいいか分からない。
ひしめくように住居が軒を連ねる貧民地区では、老朽化した配線や倒れた蝋燭の火が原因で火災が発生することが多い。その度に慈済ボランティアは迅速に物資の配付を行うが、今回は方法を少し変えた。
四月二十二日、避難所となっているスタジアムでは動線を印で表し、丁寧に消毒された座席が一・五メートルの安全距離を設けて配置された。人々は印に沿って移動し、隔離政策に従って活動が行われた。以前のように火事の後は鍋や食器、ゴザ、寝具が配付されるが、それに各世帯十キロの米とマスクが追加となった。
レシルは物資を受け取った時、思わず涙を流した。というのも、慌てふためいて逃げた子供たちの中には七カ月の赤ん坊もいたことを思い出したからだ。「私たちは全ての家財道具をなくしました。今、鍋と米をもらったのでやっとご飯を炊くことができます。とにかく、ゆっくりでも立ち直ってみせます」と言った。
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●慈済は貧困者への米の配付を、4月から5月にかけてマニラ首都圏と離島で行なった。サンマテオ地区にあるマリ村の貧困層1400世帯が米を受け取った。(撮影・黄亮亮)
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都市封鎖下での配付 困難は乗り越えられる
三月中旬、フィリピン政府は矢継ぎ早にマニラ市の封鎖、そして翌日はルソン島の封鎖を公布した。全ての住民は自宅待機を強いられ、一日一世帯あたり一人だけが食糧や生活必需品を購入するための外出を許され、全土が六カ月間の防疫体制に突入した。首都と周辺十六の都市を含むマニラ首都圏で、突然自宅に閉じ込められた人は一千二百万人を数えた。
都市封鎖の前、多くの人が感染症拡大を恐れて急いで故郷に帰ったが、離島の都市でもそれぞれ異なるレベルの隔離措置が公布された。しかし、感染は拡大し続け、フィリピン全土で三月中旬は百例余りだった感染者が五月中旬には一万例を突破した。ドゥテルテ大統領は再度、マニラと第二の大都市セブを含む感染者が多い地区に対して、コミュニティ隔離措置を五月三十一日まで延長すると発表した。
マニラには約百万人がスラム街に住んでいるが、住民は出稼ぎに行けないため食糧が底をつくことになる。政府は一世帯あたり五キロの米を配付しているが、救済は貧困層にまで行き届いていない。慈済ボランティアは直ちに愛の募金で米を購入して封鎖期間中も貧しい人々が困難を乗り越えられることを願い、三月中旬から五月初めにかけて、全国で六万五千世帯に米を配付した。その時、数々の困難を克服して、封鎖期間中の配付方法を模索したのである。
「コロナ禍が続く中では、多くの今までになかった困難に遭遇しました!」と慈済フィリピン支部の楊國英(ヤン・グオイン)執行長が言った。あらゆる経済活動が止まった中で、短期間に何万袋もの米をどこで買えばいいのか?コミュニティ隔離措置と集会禁止の下でどうやって配付すればよいのか?政府の規定で六十歳以上の高齢者は外出禁止令となり、経験豊かなボランティアが該当したので人手が足りなくなってしまったのだ。楊執行長は日夜電話を掛け続けて供給先と運送屋を探した。同じ頃、米の配付の調整役である李偉嵩(リー・ウェイソン)さんは、各地区の責任者を決めると、それぞれの自治体や町長と連絡を密にして住民リストを入手するよう指示した。
多くの市町村の責任者は住民の外出を許可しなかった。というのも集会を恐れると同時に、人々が感染症を軽視してマスクを着用せず、人との距離を保つ政策を守らなくなることを心配したからだ。ボランティアは感染予防と安全のために、何度も住民と受け取り方法を詳細に確認し、マスクを着用して安全な距離を保ちながら列に並んで米を受け取るよう要求し、受け取り方を簡素化して互いに「接触ゼロ」で配付ができるようにした。
初日、ケソン市のタタロン地区での配付は、秩序を守らない人による騒動で一時中断した。翌日住民たちは安全距離を保って秩序を守れば必ず米は貰えることを理解したので、軍と警察の警護の下に長い行列を作った。
住民は市の封鎖時に各世帯の通行証と慈済の配付券を証明書として使用し、自分で配付券を箱に入れてから米とベジタリアンプロモーションカードを受け取った。タタロン地区での配付が順調に進められたため、ボランティアはその経験をマニラと周辺のケソン市、マリキナ市、中部のセブ市、南部のザンボアンガ市などに活かした。貧しい人を米で支援する活動は各地のボランティアが次々と困難を克服して、リレー式に展開されていった。
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●オルモック市では、コミュニティ隔離措置が取られたため、大愛村から野菜や果物を外に輸送して販売することができなかった。慈済の青年たちが農民の収穫と片付けを手伝い、 それらをお年寄りや貧困世帯に贈った。その後感謝の手紙が届いた。(撮影・Amos Matugas) |
困難を乗り越えての配付 奉仕に疲れを感じない
マリキナ市のナンカー川沿いのバルバッド集落でボランティアは、米を路地の入口まで運ぶため、四台の小型トラックを手配してもらえるよう村長と掛け合った。「慈済が米を配付します。家の外に座っていてください。一世帯当たり一人で十分です!」とボランティアは拡声器で呼びかけた。住民は椅子を持ち出すと安全距離を確保して並べて座り、ボランティアの話を聞いた。そして椅子から立ち上がって順序よく、次々に路地の外に止まっていたトラックまで歩いて行った。配付券と通行証を見せると一袋二十五キロの米を受け取ることができた。一世帯一カ月分の食糧には十分な量だ。
全ての配付活動は軍と警察が協力して警護した。住民は連日収入がない状態が続いて緊急に食糧支援を必要としていたため、多くの人が手作りのポスターを椅子や柱に貼って感謝の気持ちを表していた。ある女性は窓に掛けていたビニールシートを外して、それに「慈済ありがとうございます」と書いて体に掛けて、嬉しそうに米を家に持ち帰った。
四月のフィリピンはとても暑いが、配付活動は屋外で行われた。マスクや顔面防護シールドをつけたボランティアは、皆汗まみれだったが、喜んで任務を全うした。小柄なボランティアのディナさんとエヴァンゲリンさんは、トラックの荷台に立つと村役場の幹事と共にバスケットボールコートにある米を運んだ。ボランティアは全員マリキナ市出身だが公共交通機関が運休しているため、二人は一時間掛けて歩いて配付会場にたどり着いた。
「疲れていません。配付活動が終わった後も一時間かけて帰りますが、夜はぐっすり眠れます。ボランティアになる機会があるのに、ただ見ているわけにはいかないのです!」とディナさんは真剣に言った。
ケソン市のシティオ・パヨンコミュニティは元々最も貧しい地区である。この地区の配付活動責任者であるボランティアの莊黎媛(ジュアン・リーユエン)さんは六十歳を超えている。現地政府は貧困者支援に出かける彼女に特別許可を出したが、家族は猛反対で、長男は彼女と言い争いまでした。彼女は家族の心配を理解し、最善を尽くして説得した。最後に長男の黃書正(ホアン・シュージョン)さんに「本当に心配なら、私と一緒に会場まで見に来たら?」と言った。その日は配付会場に若いボランティアが一人増えた。配付が終わった後、息子は「明日、またお母さんと一緒に来るよ!」と言った。
配付の段取りは簡略化されたが、愛の啓発と菜食の勧めを省くことはできない。ボランティアの蔡昇航(ツアイ・ションハン)さんは集まった人々に、法師が関心を寄せてくださり、慈済人が愛の心を募らせてこの配付米がここにあるのだと話した。「皆さんも愛を広めてください。もし隣人が米を受け取っていないのであれば、少し分かち合ってください!」その一言に住民は胸を打たれ、一同頷いて拍手した。
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●都市閉鎖が行われている中で米の購入から家々に届けるまでの作業は容易ではない。ボランティアたちは人々の緊迫した状況を和らげるために努力している。(撮影・陳愈翊) |
台風三十号(ハイイェン)が過ぎても、愛は絶えずそこにある
レイテ島に位置するオルモック市もコミュニティの隔離、在宅勤務と自宅学習、国境閉鎖を実施し、当地区への出入りを禁止した。四月末、オルモック市政府は国家住宅管理局によって、新しく建てられた国民住宅の空き部屋を「新型コロナウイルス感染症隔離施設」に変更した。慈済は要請を受けて、感染が疑わしい人が休息を取ることができるよう、百床の多機能折畳み式ベッド(福慧ベッド)を提供した。
「これら福慧ベッドは非常に役に立ちました。今でも七年前の台風三十号のことを覚えています。慈済はオルモック市の支援にやってきた最初の団体で、最も多く支援してくれました!」とオルモック市のロクシン副市長が言った。台風三十号(ハイイエン)の後、オルモック市は地震に見舞われたが、今年は新型コロナウイルス感染症が拡大している。慈済は引き続き支援の手を差し伸べているのだ。
オルモック市の感染者数はゼロだが、多くの病院で来院者を分類すると、疑似症状を呈した人が多く見つかった。しかし地元の医療機関ではマスクや隔離ガウンなどの防護物資が不足していた。四月、慈済は国際輸送の困難を克服して海外から届いた防護物資をマニラに送り、四月末にはオルモック市を含め、いくつかの都市に迅速に配付した。
「今世界的に感染予防物資が不足している中、私たちは限られた材料を使って自分たちで防護用品を作り、繰り返し使う必要があります。今慈済から届いた物資のおかげで、私たちの防疫体制はアップグレードしました」と医師のジェイミーが言った。外来患者がマスクを着用していない場合、第一線の医療スタッフは完璧な感染防止対策を取らなければならない。慈済ボランティアから送られたマスク、防護服、医療用手袋などは全て緊急に必要とする物資だった。
感染症拡大の中で防護物資を緊急支援し、九十二カ所の病院で医療関係者と防疫人員の健康が守られた。貧困者への米の配付も各地のボランティアの固い意志で途絶えることなく続けられている。五月末までに合計九万世帯への配付を予定している。
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●2009年にフィリピンを襲った台風16号(アジア名ケッツァーナ)が過ぎた後、ずっと寄り添ってきた現地ボランティアたちは、今回の感染症でも地元住民を支援する重要な担い手となっている。(撮影・施養食)
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(慈済月刊六四三期より)
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