三月初め、ウクライナとロシアの戦火に怯える中、多くのウクライナ人が追われるように故郷を逃れた。慈済は人道支援活動を展開し、初めは隣国ポーランドの国境地帯で緊急支援物資を提供した。戦火が一日でも早く治まり、彼らが安心して家に帰れるようにと願った。
人災と天災は常に人類の生存において厳しい試練となる。被災者には各方面からの支援が必要であり、それが数十年続くこともある。最近、台中市霧峰区花東新村と太平区自強新村では住民のための新築住宅が落成したが、このことはその一例である。
二つの村とも都市部から外れた原住民の部落で、殆どの住民は、花蓮から台東にかけて住んでいるアミ族である。一九九九年九月二十一日の大地震によって、彼らは居住と生活面で困窮に陥った。国有地に建てられた仮設住宅に住んでいたが、二十数年経っても再建できず、安全が憂慮された。台中市政府と慈済が協力して、二つの村の元の場所に、社会住宅を建設する精神でもって、恒久住宅の建設を支援することになった。
都市部の原住民部落は一九六○年代から、台湾経済の成長に伴い、労働需要が増えた。そして、消費生活が部落社会の自給自足という経済モデルに影響を及ぼし、伝統的な生活では生計を立てることが困難になった。従って、原住民は次第に都市部に移住し、就業や就学の機会を求めるようになった。今では、都市部の原住民は全原住民人口の六割以上を占め、中でもアミ族が一番多い。
当時、彼らは経済面や教育面で取り残されて社会的に弱い立場にあり、大部分の原住民男性は鉱夫や建設労働者、遠洋漁業の乗組員などリスクの高い職業に従事し、女性は紡績工場の従業員や美容師などの仕事をした。アミ族の多くは建設業で働いており、型枠職人を例にとると、原住民は台湾経済の発展にれっきとした貢献を残している。
都市では生活費が高いため、原住民にとって家の購入も賃貸も相対的に困難である。彼らは都市の外れの川縁に自分たちの集落を築き、助け合う形で肩を寄せ合って暮らしている。しかし、このような居住形態は公共安全にもリスクをもたらす。
今月号の表紙の物語によると、震災後、住民の生計は一層悪化していたが、器用な手で拾い集めた廃棄建材で、非常に短い時間で家を建てていた。
今、二つの村は、社会住宅を建設する精神で再建するには多方面からの考慮が必要で、即ち住宅の購入と賃貸市場とは別に、政府は基本的な居住の質を備えた一定数の住宅を確保しなければならないのである。経済的に立場の弱い人でも手が届く範囲内で、「賃貸のみ」という方式を採用することにより、社会のセーフティネットを構築することができる。
台湾は十年ほど前からやっと、社会住宅を推し進めるようになった。都市空間が狭くなるという課題に直面してはいるものの、物件数を増やすことは困難でも、建築規格とコミュニティの構築においてはまだ弾力性がある。今回の二つの村の再建は、原住民の文化の伝承と社会福祉資源の注入も考慮に入っている。
慈済が建設を支援した恒久住宅の歴史は、一九六七年に遡る。茅葺小屋に独居していた目の見えない李阿拋爺さんのために建てた家が、最初である。その後は二〇〇九年に、台風八号(モーラコット)の被災者のため政府と協力して恒久住宅を建設した。初心を忘れず、十方からの愛を結集し、被災者が人間(じんかん)で安心して過ごせるよう願っている。
(慈済月刊六六五期より)
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