以前の私は夫と子供の世話をし、
美容院を開いて家計を助けていた、
そんな安らかな日々を過ごしていたが、
舅が重病にかかった時、私には疑問が芽生えた。
なぜ舅のような善人が病苦に苦しまねばならないのか。
舅は亡くなった後、何を持って、どこへ行くのか、
これらの疑問は私に別の人生の方向を示してくれた。
ある日、私は病棟のエレベーターで数人の人と乗り合わせた。その中の一人の男性が「あなたはボランティアにでもきたのかい?」と聞いてきました。まるでボランティアは手持ち無沙汰で時間つぶしにきているとでも言うような口ぶりでしたが、私は「そうです。『生命教育』を勉強にきています」と答えました。
男性は驚いて、「あなたはそう思っているのですか?」と問い返したので、「すべての患者やその家族も人生の師と見なしています。生命に関わるさまざまなことを教えてくださる人々であると、とても感謝しています」と私は答えました。
そして短い会話の終わりに、今流行している台湾語の言葉「やれる人は幸せ、やらない人は廃物、やらなければもったいない」と言うと、エレベーター内は大笑いの渦に包まれ、男性もうなずいていました。
二十年前に私が台南成功大学付属病院でボランティアをしていたきっかけは、舅が入院していた時に八カ月付き添って最期を見送ったことでした。その時病院で見つけた答えは、自分が重症患者とその家族の世話に向いているということでした。
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美容院を経営している郭淑菁は、笑いながら自分のお節介な性分は医療ボランティアに適していると言う。ふだんの生活の中でも常に周囲の人に関心を寄せている。 |
生はどこから来て
死後はどこへ行くのか
舅が病院で検査した結果、医師から末期の肺癌と告げられ、義兄たちは病名を舅に隠すことに決めました。義兄たちは病名を知ったら舅が自殺するのではと恐れていたのです。
舅は温和な人柄でした。もしも末期癌だと告げられたら、受け入れることはできないでしょうか。こう疑問に思いましたが、皆に合わせなければなりません。
舅は「殺人も放火もしたことがないのに、こんな病に苦しめられるとは」と癌細胞が骨に転移した苦しみに耐えきれずに言いました。
真実を言えない私の心は痛み、「お父さん。私が嫁にきてからのお父さんは、誰に対しても優しく正直で、温かい家庭を築いて下さってありがとうございました。いつか縁が尽きた時、お父さんに悔いは残らないと思いますが」と言いました。舅は「よく言ってくれた」と言って、気持ちが落ち着き、しばらくして亡くなりました。
看護師に痛みに耐えられない時のケア方法を聞いて、毎日食事を持って行く時はできるだけ長く付き添っていました。舅は私と話している時、死に対して少しも気にせず、「私が亡くなった後、あんたが拝んでくれなくても、私は少しも気にしないし、やはり嬉しいよ」と言いました。いつかは私たちと離れなくてはなリませんが、最期の時は安らかにと願いながら、悔いが残らないようにと心を込めて付き添いました。
しかしながら、舅のような善人がなぜ病に苛なまれなければならないのか、亡くなった後何を持って、どこへ行くのか、という疑問に私は困惑していました。
そして生命と因果果報の道理に関する上人の著作物を熱心に読みました。その中でも《三十七道品講義》はとくに役に立ち、その中で仏法を知ることができました。
美容院を戸締りしてから真夜中まで本を読んでいるのを見て、夫は「大学の受験勉強をしているのか」とからかいました。読む前はただ主婦として、家庭を守り、真面目に美容院を経営することだけでしたが、生命の意義を理解して上人のおっしゃる生老病死は自然の法則であり、死後は何物も持って行かれず、業のみが身について行くのだと会得しました。その「業」とは自分が書き下ろした人生でつくったもので、何者も代わりに書くことができない自分のまいた「因」であるから、正しいことさえしていれば後悔がないということでした。
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郭淑菁(右から4人目)は家でお茶会を開いて会員の声を聞き、慈済のことを話す。目を患った何さんはボランティアたちに励まされて出てくるようになり、奥さんも仕事が見つかり、献金して人助けをするようになった。 |
お節介の性格はボランティアの特質
病室で舅に付き添っていた時は、隣のベッドの人にも関心を寄せていました。中風患者のおじいさんで、嫁が持ってきた食事を食べようともせず、リハビリもしようとせず、嫁は傍らに立って手のほどこしようがありません。
私は「おじいさん、食べられることは幸せですよ。折角嫁さんが持ってきているのに食べなかったら自分を苦しませているのと同じで、リハビリもしなかったら生んでくれた両親に申し訳がないですよ。楽しい生活を送りたかったらリハビリに努力することよ」と言葉をかけました。
おじいさんは私の言ったことを聞いてくれたようで、冗談を言うと笑ったので、私はそのすきにお弁当をとって匙で口に持っていくと口を開けて食べてくれました。
おじいさんが退院した後、病院でばったり出会いました。診察を終えて帰るところでした。「もしもあなたに出会わなかったら、私はこんなに回復できなかったでしょう。本当にありがとう」と言われました。舅に付き添った機会に私は自分のお節介癖を発見し、病院のボランティアに向いていると思いました。
小さい頃は家が貧しい上に兄弟が多く、高等教育を受けられませんでしたが、父は近所で冠婚葬祭や困った人がいると、仕事を置いて手伝いに行っていました。その性分がいつしか私の身についたのか、困っている人を見るとついお節介癖がでます。高校を卒業後、十七歳で美容院へ習いに行きました。小柄な私ですが、ここで豊富な社会経験を身につけて、周りを和やかにさせる特技も得ました。
成功大学病院へボランティアに行った時は、リハビリ科と腫瘍科が受け持ちでした。訓練を受けていたものの、患者に対すると力不足を痛感して、命に対する態度をさらに理解しなければ、患者やその家族のお手伝いなど何もできないと思いました。末期患者のケアのため、「緩和ケア」を学習の重点として、台北へ「アジア地区緩和ケア」の研修会に参加しました。
緩和ケアには抱擁が必要
成功大学病院に緩和ケア病棟が設立されると、私は週二日ボランティアに行っていました。当時の舅を思い出して、心身の痛みに耐えられない患者やどうしていいか分からない家族に対して、良い架け橋となるよう努力しました。
ある時、三十歳を過ぎた主婦に会いました。末期の肝臓癌に苦しんでいる夫がいらっしゃるそうで、「夫は私に一言も言わないのでどうしていいか分かりません」と相談してきました。「ご主人を抱きしめてあげなさい」と言うと、「横になっているのにどうやって?」と聞き返します。私はご主人を抱き起こして座らせ、奥さんに抱きしめさせたら、にっこり笑いました。温かい妻の懐に抱かれ、痛みが和らいだことと思います。
口腔癌末期の患者は傷口の痛みがひどく、私が行くと私の手を痛いほど握って痛みをこらえていました。私を握っている手を妻の手に代えると、もう一方の手を出し、両手で妻の手を握りしめました。次の週に行くと妻は片時も離れられないので髪のカットもできないと困っているので、私の専門である洗髪をして髪を切り爪もマニキュアしてあげると、ご主人は嬉しそうに紙に「とても綺麗だよ」と書いて、妻にあげました。この紙が形見になったことと思います。
医療ボランティアとしての経験があったので、慈済委員の委員訓練を受けていた時、古参委員はよく貧困家庭の訪問ケアに私を誘ってくれました。大方のケア対象者は病による貧困で、救済評価には私の経験が役に立っていました。
患者のいる家庭では病人に寝返りや助け起こし、車椅子に乗せる要領、着物や紙おむつの取り換えなどを教えて、家族の信頼感を得ていました。毎年私は花蓮慈済病院や大林慈済病院に短期の医療ボランティアに行っています。
二○○八年、台湾が金融危機に襲われたあおりを受け、慈善救済のケースが増えたので、成功大学病院のボランティアを週一日にして、地域の訪問ケアに当たりました。医療ボランティアと慈善訪問ケアに参加して私は多くのことを学び、言葉を慎み、相手の尊厳を守り、その人の身になって耳を傾けることが非常に重要であることを学びました。
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血液腫瘍科の病室でボランティアたちは患者の話し相手になり、患者を自分の師として生命教育を学んでいる。右から2人目が郭淑菁。 |
町の人々を誘って一緒にやろう
二十年あまりボランティアの道を歩いてきて、私は自分の経験を人とも分かち合いたいと思いました。度々自宅でお茶会を開くことは、早期の委員が会員を勧誘するためのしきたりとなっています。私も自宅でお茶会を開いて会員の声を聴き、お互い家庭生活の知恵を分かち合うとともに、普段ボランティアとして奉仕している環境保全、医療ボランティア、訪問ケアなどの活動を知らせ、一緒に奉仕するように勧めました。
私の住んでいる地区の近くに退役軍人の宿舎があります。そこに住んでいる主婦は、大部分が学歴もなく家が貧しいために、若くして年の離れた退役軍人と結婚していました。霞さんもその一人で、夫は年老いてできた子を溺愛し、夫婦のいさかいは絶えず、鬱病にかかる寸前でした。私は家庭訪問をして、彼女を地域の清掃活動に誘いました。
早朝五時過ぎ、車や人の往来が少ない時に道を掃きましたが、はじめは恥ずかしそうにしていました。私は「木の下に集まっておしゃべりしながら時を過ごす退役軍人のおじいさんたちの周囲が清潔になると気持ちがいいでしょう。それに蚊や蠅もなくなると、町の人々の健康にもいいのよ」と言いました。掃いている中に近所の人とも笑顔で挨拶を交わすようになって、その人たちも参加するようになりました。
霞さんが心を開いてくれたのを見て、慈済の環境保全への参加を勧めるとすぐに「いいですよ」と承諾してくれました。数日後に「空き箱などの回収物を慈済にくれる人がいます」と言ってきたので、私は「相手にはありがとう、そして一緒に地球を愛し、大愛テレビ局が世界に向けて放送するのを賛助しましょうと言うのよ」と教えました。
迷信を信じる秀さんという女性もいました。彼女を亡くなった人の助念(通夜に八時間念仏を唱え死者の冥福を祈る台湾の風習)に誘うと、死人に近づくのは怖いし念仏もできないからと言うので、皆の後ろで見ていなさいと言いました。何回か参加している中に、娘が「今日も助念に行くの? 邪気を払う芙蓉の葉は持っていかないの?」と言うと、秀さんが「忘れた」と笑っていました。私は秀さんに「上人は心に疑心暗鬼がなければ、心は平穏になるとおっしゃっておられるから、今の心は平穏だからいらないのね」と言いました。
私は霞さんと秀さんに委員の研修を受けるよう勧めました。二人は講義の内容を聞いても理解できないし、筆記もできないからボランティアだけでいいと言うので、それでは元の場所で足踏みしているだけで進歩しないから、研修の時に私が付き添って教えてあげるからと勧めました。今では二人以外に地域で三十人余りの人が研修を終えて認証を受け、その中には夫婦が一組います。その後、秀さんは夜間小学校で勉強して卒業しました。どの人にも潜在能力があって、身分を気にせず勉強に励めば、充実した機会を得られるのだと思いました。
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三十四歳で慈済に入ってから、毎月の配付日にはケア対象家族に理容の奉仕を行っていました。はじめ、ボランティア仲間のことを、「この人たちはお金の余裕があるのだろう」と思っていましたが、一緒に活動しているうちに、その人たちも私と同じように、普段は懸命に働いて生活を維持していることが分かりました。また、以前は素行が悪かったり、姑との関係が悪かったりした人が、慈済に入ってから生活の品質が改善されたことも知りました。
私は家に帰ると夫に慈済の活動で出会った出来事を話します。夫は口べたで何も言わないけれど、私の話すことはよく聞いてくれます。私たち夫婦とも学歴は高くないから、慈済の団体に入れば心が充実するはずだと思いました。
夫は一日中外で働き、家に帰ってくると休息するだけで、生活は単調で、本を読む習慣はありませんでした。私は慈済にイベントの機会のあるごと彼に参加を勧めましたが、なかなか首を縦に振りません。そこで慈済の人たちにお願いして誘ってもらい、みなと付き合う中にだんだん視野が広がりか活発になりました。
私はボランティアとは大勢の人の中で修行するものと思っています。異なる社会階層が集まり、それぞれ習性がありますから、いざこざが起こることもありますが、それも修行と思っています。そして私は常に、慈悲心で人に対し、広く良い縁を結ぶようにと、自分に注意を促しています。
(本文は慈済道侶叢書『もっといい自分に会った』より抜粋)
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