慈濟傳播人文志業基金會
八仙水上楽園の粉塵爆発から一年
昼間は三時間のリハビリ、夜は三時間の自宅治療、
四六時中身体を苛む痛みとかゆみとはれ。
一朝一夕ではない苦しみを彭文郁は一年間耐えてきた。
体のリハビリと同時に心のリハビリに、両親と共に励んでいる。
 
顔にサポーターをつけた文郁。顔の火傷の傷跡は見えないが、毅然とした目は勇敢に歩き続けると語っているよう。
 

二○一五年六月二十七日の夜、若者の集う楽しいはずの八仙水上楽園で突然粉塵爆発が発生した。約五百人が火傷を負った事件から早くも一年が経った。負傷した人たちは、日夜痛みをこらえて今の現実を受け入れることができているのだろうか? 屈むこともままならない上に、我慢のできないかゆみと痛みを克服するには、あまりにも大きな代価を払っていた。

彭文郁は血液型がB型の活発な女の子で、花蓮慈済科学技術大学の看護学科の学生だった。昨年学科の履修を終えて花蓮病院で実習していた。休みが取れ、夜の列車で板橋の実家へ帰った。翌日の午後、仲良しの友達と連れ立って喜んで八仙水上楽園で行われるライブイベントに出かけた。

出かける時に両親は「楽しむのもいいけれど、気をつけなさい」と注意をしていた。しかし思いもよらず、その数時間後に悲劇が起きたのだ。水を抜いたプールのダンスフロアは瞬時にして火の海となり、阿鼻叫喚の修羅場と化し、空いっぱい粉塵が覆いつくし、耳をつんざく音楽の中、驚愕に震える若者たちの顔は灰にまみれた。

彭文郁は顔と手足に重度の火傷を負い、一年経っても顔の火傷の痕はまだはっきりと見られる。彼女は鏡にうつる自分に向かって、どんなに後悔しても元には戻れない、ただ前に向かって気をしっかりもって歩いてゆくしかないと自分に言い聞かせていた。

 
Adversity is a good discipline
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事故に遭う前の文郁。腕のタトゥーは、英語で「苦難は人を鍛錬する最も良い方法」と書いてある。火傷の後、この信念は彼女自身を激励し奮発する力となった。(写真・彭文郁)
 

 

死ぬな! 早く逃げろ

 

五月の夕方、彭文郁はソファーに座って足を上げていた。かゆくてたまらない所をお父さんにマッサージしてもらいながら、彼女は発生当時の状況を話してくれた。あの瞬間、何が起きたのか分からなかったが、夢中でここで死んではだめだ、早く逃げないといけないと思っていたと。

病院へ送られた時は意識がはっきりしており、内頸中央静脈導管、栄養剤補充の鼻胃管を挿入していた時は痛くてたまらず、気絶していたらこんな痛みを知らなかっただろうと恨めしかったが、自分はナースだからこれらは必要な処置なのだと思いなおした。

彼女の火傷面積は六十八%、深度は二から三まで達した重症だった。皮膚のない痛み、筋膜の切開、傷の消毒や植皮など六回の手術があった。手術が終わる度に腫れと無力感に襲われ,体力は衰え、腹痛や発熱が起きていた。

まだICUの病床にいた時、えぐられるような腹痛に襲われた。ちょうど寝返りの時間で担当の看護師が体の向きを変えてくれたが、痛みに耐えきれず、当たり散らしてしまい、その後すぐに後悔した。病院で実習の時に患者が怒って当たり散らすのは、気分が悪いからだということを思い出した。両親もその看護師に謝っていた。

一月経ってICUから普通病棟に移り、さらに一月の入院の後、昨年の八月二十六日に退院した。家に帰っても悪夢は続いた。傷口の薬の交換や筋肉を伸ばすなどのリハビリの痛みに涙をため大声で悲鳴を上げていた。

しかしながら、柔軟で意志の堅い彼女は苦痛に負けず、毎週病院で五日間のリハビリをこなし、家に帰っても休まず続けていた。昼ご飯をすませると少し休んで、読書したり、指先の練習にビーズを通したりしていた。

以前のなめらかな皮膚に戻れなくても、努力すれば成果が上がるという信念が彼女にあった。

 

サポーターをつけて町へでかける

 

片手にリハビリ用の握力器をもち、もう片手には携帯電話を持って、画面に目を通している。少し疲れている様子に「ねむれなかったの?」と聞くとうなずいた。火傷を負って以来、睡眠薬に頼らずには眠れなくなっていた。

彼女の瞼は重たかったけれど、リハビリに関しては熱心で、作業療法士が変形した指先を触っただけでも痛くて声を上げたが我慢していた。物理治療室は火傷患者のために設置した場所である。彼女はそこでリラックスして、何人かの同じ年齢の人たちと映画の話をしたり、ディズニーの縫いぐるみをもらって嬉しかったとか、おしゃべりを楽しみながらリハビリに励んでいた。

床にひざまずく動作は簡単になったし、自転車にまたがって漕ぐ動作もスムースになった。歩行器で速度を速めて歩き、後でゆっくりにしたり、時速を八キロに上げて十分間歩いたり。息が弾んで全身汗びっしょりになる。しかし手足の汗腺作用がなくなっているので、「早く走り終わって、シャワーを浴びたい」と。

午前三時間のリハビリを終えて、彼女はゆっくりと台北馬偕病院の門を出て、八分で地下鉄の駅に着き、車内に席があれば座る。以前は母に付き添われていたが、旧暦の正月以降は自分でできると思って、一人で行き来し、父が板橋の駅へ迎えにきていた。

ある日私が彼女の家を訪れた時、彼女は遅れて四時過ぎに帰ってきた。リハビリが終わってから長安西路までビーズを買いに行っていたのだ。お母さんは「頭にまでサポーターをつけて、万一人にぶっかったらどうするの」と言ったが、今の彼女は自分一人でバスに乗ってどこにでも出かける自信がある。

お父さんは昨年退院の前日に、新店慈済病院の廊下と階段の間で歩行練習させた。その時は、文郁は痛くて左足を前に出してから右足を出すことさえ困難で、痛さのあまり震えていたが、両親は彼女が転ばぬよう注意して見守っていた。

「幸い順調に回復していますが、もう昔に戻るのは不可能だと思っています。ただ身体の機能が回復して自分の生活を維持できるようになることだけを願っています」と両親は言う。

昨年の8月に危険を乗り越えて普通病棟に入った。俳優の林嘉俐さんが見舞いにきた。(撮影•蕭耀華)
 

 

薬交換の専門家になったお父さん

 

文郁と両親が親密になったのは粉塵爆発に遭った後、心を一つにしてこの難関を乗り越えるためだった。お母さんは「この子は反抗心が強く、いつも私たちにたてついていました。買い物でも姉と私たちの意見は同じなのに、この子はいつも反対のことばかり言っていました」と言う。

お父さんは、「中学卒業後、文郁本人は普通高校に進学するつもりでしたが、私たちは慈済の看護学科に行くように勧め、反対にあうと泣き続けていました。一学期では奨学金をもらいましたが、その後は反対にあうとわざと遊びほうけていました」と当時を振り返る。

両親が自分に関心を持っているのを分かってはいても、わざと無視して勝手気ままにふるまい、両親の求めることと反対のことばかりしていた。しかし、火傷事故に遭った後は両親の心労と至れり尽くせりの看護が身にしみ、リハビリに努力し、毎日の痛みをこらえて一日も早く治るように願っていた。

退院してきた時、お母さんは「ガーゼを取って見た時、びっくりしました。全身に無数の水ぶくれがあって本当にかわいそうでした。始めは水ぶくれから出ている液を見て緊張しました。傷口から感染しないかと心配で」

ガーゼ交換と薬を塗るのはお父さんの役目で、几帳面に綿棒は一度塗ると捨て、生理食塩水も二日使ったら捨てていた。看護師の文郁はお父さんがやり方を間違えると、指摘していた。

ガーゼ交換は始め、手はお母さんで、足はお父さんが担当したが、痛がる悲鳴を聞くとかわいそうで胸がしめつけられると言って、傍で手伝いをしている。両親が協力して薬を塗り傷口の処理を終えると、乳液を塗って手足や顔をマッサージし、硬くなっているところをほぐして収縮を防いだ。お父さんが文郁の足を自分の肩に上げてマッサージしているのを始めて見た時、お母さんは感動した。こんなことをしてくれる親は他にいるだろうかと。

「私たちが一番恐れていたのは、生まれ変わった柔らかな皮膚が傷つくことです。小さな傷も薬を塗らないと大きな傷跡を残しますから」と言う。夫婦は朝起きるとまずサポーターに血がついているかどうか調べ、血がついていれば新しい傷ではないかと調べた。「大きな水泡になると、夜に注射針で八~九CCの水を抜いても翌日また水泡になります。針は高価なうえに消耗が早く、費用も馬鹿になりません」と話す。

両親のきめ細かな日夜の看護によって傷跡は縮小し、皮膚は柔らかになって、黒かった両足も血の気のあるピンク色になったのは、血の流れがスムースになった証拠だった。

お父さんは足の治療をした後、冗談を言いながら足をマッサージしている。八仙楽園の事故は一家につらい試練をもたらしたが、親子の感情はさらに緊密になった。
 

三人で休む間もなく心を一つに

 

 文郁が火傷を負ってから両親はずっと一緒に寝て世話をしていた。昨年八月に危険期が過ぎてICUから普通病棟に移った時は、ベッドの脇に簡易ベッドをおいて寝て、少しの音にも飛び起き、文郁がかゆい所をかくときに、自分の爪で傷つけないように注意していた。

お父さんは毎日大半の時間を文郁の薬交換とマッサージに費やしている。夜は薬交換を済ませると、サポーターをつける前に一時間のマッサージをする。長期間マッサージしてきたために指の関節が痛み、湿布を貼っている。

傷口が大きかった頃、お母さんは傷口に触れないように気をつけて生理食塩水で体を拭いてくれ、傷が大分よくなってからシャワーを使っていた。始めのうちは体を洗って薬交換をしてマッサージ、そしてサポーターをつけるのに八時間もかかっていたが、傷が治るにつれて要領もつかめるようになり、三時間に短縮された。

お父さんは長期間の心労と昼間の会社勤めの疲れに耐えられず、三月で早期退職した。お母さんは定年退職までにまだ四年もあるのにと、残念に思っていたが、お父さんはそうは思っていない。「娘は一日一日と良くなっています。私の払った犠牲で一日も早く学校や社会に娘が復帰して未来の希望を探せたら、この犠牲は価値のある犠牲であり、私の最大の喜びでもあります」と言う。

リハビリの期間、家族や友人、そして専門家の付き添いが重要である。台湾で発生した爆発事件は人々の心に深刻な記憶を刻んだ。馬偕病院のボランティアが文郁に付き添って歩く。
 

 

調子はずれの音符が曲に

 

「八仙楽園で起きた爆発は瞬時にして、私の人生を変えてしまいました。百八十度の方向転換は私の人生における悲しい歌だっただろうか? それとも調子はずれの突拍子もない音符だろうか」

文郁は全校の教師と生徒が祝福と励ましを送ってくれたお礼に、慈済科学技術大学が催している人文キャンプへ行って、今までのリハビリの過程を話した。朗らかな性格は早くも精神的な壁を乗り越え、スパイダーマンのような頭のサポーターをつけて勇敢に人々の群れの中へ入っている。

「私は病院で初めて自分の顔を鏡で見た時、思わず悲鳴をあげました」。イベントを主催した人の不注意でこんなひどい火傷を負ってと恨み、マイナスな気持ちに陥っていたが、両親は起ってしまったことを恨んでも何の役にも立たない、それよりもマイナス面をプラスに代えて、今はリハビリに励むことが大切だと言い聞かせている。

今年の五月、腹部から三十センチ四方の皮膚を切り取って、手の甲に移植した。指先が活動しやすくするためだった。手術で九日間入院し、退院したその日に馬偕病院が企画した一・五キロのマラソンに参加した。その気力は感服に値する。

リハビリはつらく、かさぶたを取るのはナイフでえぐられるような痛みを伴ったが、歯を食いしばって耐えてきた。馬偕病院は九月には学校に戻れるように治療の進度を進め、彼女もこの目標に向かって頑張っている。

今年クラスメートたちは卒業するが、彼女はその卒業式や謝恩会に参加して自分も一緒に喜ぶのだと言う。今の自分は外面的な美しさは失われたけれど、内面的な美しさで人を引き付けようと自分に言い聞かせている。文郁は両親と多くの人に温かく付き添われ、この世を勇敢に歩き続けていくことだろう。

 
NO.236