慈濟傳播人文志業基金會
ヨルダンに亡命した シリア難民 国境の淡い希望

中東に位置するヨルダンは長期的に周辺の国から戦乱を逃れてくる難民を収容している。

シリアの内戦は五年経っても収束せず、既に百万人が国境を越えて来ており、ヨルダン政府と人道団体も長年の救済で苦境に陥っている。

故郷を追われた老若男女は行き場を失い、医療と教育の欠乏に苦しんでいる。それでも、国境付近には無数の家族が戦火を逃れて生き延びるチャンスを掴もうとしている。

 

*生活のために国境を越える

今年5月下旬、約12000人のシリア難民がヨルダンとの国境に近いシリア領内のハダラという地区に留まっていた。白昼は国境を越えてヨルダン側に入り、国際慈善団体が配付する食糧や水を受け取ることができるが、夜はシリア領内に帰らなければならない。

 

五月、ヨルダンの首都アンマンは希望に満ち溢れていた。ヨルダン建国百周年記念とイスラム教のラマダンがすぐそこに迫っていた。私たちはラマダンが始まる前に慈済が長期ケアしているシリア人の家族を訪問するため、国旗に埋め尽くされた通りを車で抜けて、三十分ほどでアンマン市ラスアルアインに着いた。

「ここは家賃が安いので、数多くのシリア人難民が住んでいます。私たちがアンマンでケアしている人は全部ここに住んでいます」と慈済ボランティアの陳秋華が言った。

四十八歳のハリドは妻と子供たちの七人家族で、慈済がケアを始めたシリア人家族の最初のケースである。

二〇一二年、彼らは一家もろともヨルダンに逃れ、ザータリ難民キャンプに辿り着いた。しかし、息子が喘息を患い、砂埃が舞うキャンプに住めなくなり、伝を辿ってアンマンに移った。しかし、仕事を見つけるのは難しく、家賃や電気、水道代を負担するうちに生活は苦しくなるばかりで、外部からの援助に頼らなければならなくなった。

「私たちは四つの慈善団体を訪ね、八時間も列に並びましたが、何ももらえませんでした。その後、慈済から食べ物と五十ディナール(約四千円)配付され、その翌日に息子の喘息の薬を買いに行きました」とハリドは困っていた時に慈済が手を差し伸べてくれたことを回顧した。言葉の中には今でも感動が感じられた。

この四年間、慈済は毎月、彼らに補助金と買い物券、息子の喘息の薬を提供してきたが、国連難民高等弁務室(UNHCR)からも買い物券が配付され、倹約した生活ならば、何とか暮らせるようになった。

ボランティアが訪れたその日、彼らはシリア料理をふるまってくれた。麦ご飯とトマトサラダ、ヨーグルト、ミントティーで皆をもてなした。普段の生活がどんなに逼迫していても、彼らは頑に豊富な食べ物でボランティアをもてなした。

「拒否してはいけません。でないと、彼らが用意した食べ物を好まないと思ってしまいます。何でも食べなければいけません。彼らの心遣いなのですから」と陳秋華が同行したボランティアたちに注意を促した。

「六月六日からイスラム教のラマダンです。その一カ月後にラマダン明けを祝う時に、私たちを招待してくれました」。ハリド一家と親しく交流している慈済ボランティアのハナが通訳してくれた。

イスラム暦の第九カ月目がラマダンで、モスリムは一カ月間戒律を守った後、三日間続けてラマダン明けを祝う。「彼らは毎年、シリアの故郷でラマダンとラマダン明けを過ごすことを期待するのですが、既に故郷を離れて四年目です。希望はまだ叶っていません」とハナが溜め息まじりに言った。

慈済ボランティアは病室を一つひとつ回り、慈済の支援で手術が行われ、傷口の痛みがまだとれない中、子供たちを笑わせたり、家族を励ましたりした。
 

人口の十%が難民

 

ヨルダンは中東地域における平和な浄土と言える。近隣諸国のシリアやイラク、イスラエルが戦火の中にあるのと比べ、ヨルダンにはかなり多くのレバノンやシリア、イラク、パレスチナ、スーダンなどから来た人が住んでいるが、平和に共存している。

ヨルダンに四十二年間住んでいる台湾人の陳秋華は言う。「ヨルダンという国は非常に小さく、資源もあまりありません。でも、とても慈悲深く、門戸を開き、他国民を受け入れています。シリアで内戦が勃発する前、イスラエルとパレスチナが戦争した時、ヨルダンは数多くのパレスチナ難民を受け入れました」

五年来のシリア内戦は収束の兆しが見えないばかりか、激しさを増すばかりで、次から次に発生する難民は外に向っている。二〇一五年、百万人単位のシリア、イラク難民が生命の危険を冒して次々に海を渡ってバルカン半島に向かい、西欧への亡命を求めた。 国連難民高等弁務室の二〇一六年六月の統計によると、近隣諸国に逃れたシリア難民は四百八十万人を超え、その中の二百七十四万人がトルコ、そして、約百万人がレバノンにいる。

ヨルダンの人口は約六百五十万であるが、正式に登録されているシリア難民は六十五万人強で、登録していない難民の数が百万人を超えている。そのほどんどはシリア南部の町、ダラからの難民である。

ヨルダンとシリアの国境は三百七十五キロの長さに及び、ヨルダン政府はシリア内戦勃発後、国境沿いに八つの難民キャンプを建設した。二〇一一年の冬、慈済はヨルダン北部の国境沿いの町、マフラグで緊急物資の配付を行い、翌年九月には個別案件として「シリア難民支援」活動を始めた。シリア国境からわずか五キロの所にあるラムサ市で毛布と食糧、粉ミルク、衣類などを配付している。

現地ボランティアの他、陳秋華が指導しているテコンドー道場の学生とその父兄、各地から集まった慈済ボランティア及び「被災者雇用制度」活動に参加したことがあるシリア難民などが参加し、全員が力を併せて大規模な配付活動をこなしている。

言葉が通じなくても、ボランティアは子供が手術室に入るまで、笑顔と動作で子供やその家族に付き添った。
 

救済に頼って生活の柱とする

 

陳秋華によると、シリア難民支援を始めた頃、初めはヨルダン国内最大のザータリ難民キャンプに出入りできるよう方々に当たって微力を尽くそうとしたが、ボランティアの数が少なく、安全も考慮に入れて、しばらく行わないことにした。

後になって彼はハッと気づいた。「難民キャンプの外にも難民はいるのだ。その数はもっと多く、より多くの支援を必要としているのだ」と。多くの難民はより良い生活を求めて難民キャンプを離れ、アンマンやイルビド、マフラクなどにいる親戚や友人を頼ったり、自力で生活しようとする。中にはナザレなど国境沿いの町に住み、救済に頼って生活している人もいる。

アラビア語に精通し、常時、難民と中華系ボランティアの橋渡し役を務め、難民の境遇をよく知っているヨルダン人慈済ボランティアのアビールは、彼女自身の見方を話した。「難民の生活状況は全般的に悪く、食事は平均して一日に一・五食分しかありません。一人の食事が四分の一個のアラビアパンで、ジャムをつけてそれで終りというのを見かけたことがあります。大人は仕事探しに行ってもほとんど断られます。そのため、多くの子供が学校に行かず、仕事をしているのです」。事実、難民は仕方なく物乞いや売春で生活しているニュースをよく耳にする。

ボランティアはラムサのシリア難民と知り合って長い。二〇一二年から現地で緊急を要する難民家族への支援を始めた。「ラムサでは五十二世帯を世話しており、アンマンには二十三世帯あります。慈済は毎月、補助金と買い物券または物資を提供し、時には家庭訪問も行います」と陳秋華が説明した。

この七十五家族は百万単位の難民の中の氷山の一角である。「私たちはボランティアの数が足りないため、これだけの世帯の面倒を見るのが精一杯なのです。しかし、一旦付き添い始めたら、物資の配付だけでなく、着実に彼らの生活を改善したいのです」と陳秋華が言った。

お婆さんは手術後の孫娘を見て笑顔になり、困っていた時にボランティアが与えてくれたケアと恩情に感謝した。
 
生活が最も困難な時に頼れる存在だったボランティアは、彼らとは信仰も人種も異なるが、それが真心で奉仕してくれる「慈済」という団体であることを忘れることはないだろう。
 

難民キャンプ外の医療支援が停止人道支援は長引くと重荷になる

 

陳秋華は昨年、アンマンで毎月行われる物資配付活動の時、ケア世帯のアザールがサングラスをかけてこそこそと物資を受け取りに来たのを見かけた。話を聞くと、主人のサダムに殴られたとのことで、目の周りに痣ができていた。

二〇一二年、サダムはシリアで爆弾によって骨盤を損傷した。この三年間に七回手術を受けたが、いくつかの慈善団体は次々に離れて行き、治療を中止せざるを得なかった。

病床にふして長く、傷口が痛むと共に一家九人の将来が心配で、ある日、情緒が不安定になり、妻を殴ってしまった。

「サダムの傷を治すのが目先の急務でした。彼が健康になれば、一家全員のためになります。そこで去年十二月、改めて外科の専門医師に傷の状況と手術の可能性を聞きました」と陳秋華が言った。

手術後の回復は順調で、ボランティアがサダムを訪ねた時も傷口はかなり良くなっていた。半年ほどでサダムはベッドから起きて少し歩くことができるようになった。「サダム、もう二度と奥さんを殴ってはいけませんよ」と陳秋華が念を押した。「もうしません。慈済の支援に感謝しています」とサダムは笑って約束した。側にいた家族も皆、笑顔を見せた。

ヨルダンボランティアの難民ケアはいつも慈善と医療を同時進行させている。ケア世帯への付き添いの他、不定期に緊急医療案件も引き受けている。とくに二〇一四年十一月から国連はキャンプ以外の難民に対する医療補助を打ち切っており、治療費は一般のヨルダン人と同じになり、お金のない難民は病気にすらなれなくなった。

今年の六月まで、慈済はキャンプ外の難民九十九人に手術と入院を世話し、医療費全額を肩代わりした。その人たちの病状はさまざまで、先天的に欠陥のある子供の臓器の治療だったり、治療後に罹った重い疾患や戦争で重傷を負った難民が手術やリハビリを通して通常の生活に戻れるよう支援した。

「どうして個別案件ばかり引き受けるのですかとよく聞かれます。どうしてこの案件ではなく、あの案件なのですか?と。慈済は苦難に喘ぐ衆生と縁があって初めて、彼らを支援することができるのです、と私は答えています」と陳秋華が言った。

軽い怪我で済んだリバティーアーミーの若い兵士は傷が回復すると戦争に行くためにまたシリアに戻って行った。また、難産の妊婦を助けても早産した赤ん坊は三日で死んだ。「機会に巡り会えば、支援するのは当然です」と陳秋華が言った。

シリア内戦は延々と五年も続き、ヨルダンの新聞やテレビは同じようにその情勢を報じてはいるが、当初、ヨルダンで熱心に難民支援をしていた慈善団体は難民の数が増えるにつれ、団体の人手不足と経費が重荷となり、次第に離れていったり、縮小したりしている。

今年、慈済ボランティアはザータリ難民キャンプに出入りすることができるようになり、ヘルニアを患っていた五十七人の子供に手術を受けさせた。また、国連の要請で、ヨルダン、シリア国境付近に避難している難民の支援も行っている。これは他の慈善団体が離れてしまったりしたものを含め、誰も行っていない部分を補うものである。

 

亡命生活の中の些細な幸せ

 

慈済ボランティアの心からの誠意と善意による奉仕は、時間と共に蓄積され、難民に感動と影響を与えている。

イラク難民のハラは小児科医だ。慈済は彼女を「被災者雇用制度」活動で行う難民への簡易施療の仕事に招いた。それは彼女の生活を支援するだけではなかった。「一時、ヨルダンでの生活が困窮に陥った時、慈済は経済面で支援してくれましたが、一番重要なのは私の専門知識を発揮することができたことです。単に時間が過ぎて自信をなくすことを防ぐことができました。」

アブドゥール・マクスードは病気で助けを得られなかった時に慈済と出会い、手術を受けて順調に回復した。「私たちの宗教は異なりますが、ボランティアが私に慈済と證厳法師を紹介してくれた時、心から感激しました。あなたたちが私達一家の幸福を救ってくれたのです」。その後、彼は上人の写真を携帯電話に保存し、その時の縁と友情を心に留めた。

わずか八歳のハムザは慈済ボランティアから小額のお金を竹筒に貯めることで人助けする話を聞いて啓発された。彼は学校で病気になった同級生のために、六人の同級生から小額の募金を募り、病気の同級生を支援した。それを知った教師はびっくりして、どうしてそいういう方法を知ったのかとハムザに聞いた。「慈済が教えてくれたのです」と彼は答えた。

ボランティアが家庭訪問した時にその話を聞き、皆感動と共に賞賛した。「その子の家庭は半年間支援しただけですが、そのような影響を与えたのです。子供の心は実に純粋で清いものです」と鄭順吉が言った。

 

情熱と知恵を堅持する

 

ヨルダン王室で勤務する陳秋華は二十数年前に慈済に参加し、現地の貧しい人やベドウィン人の世話をしてきた。彼は日常的に非常に忙しいのだが、毎日夜中の十二時、すなわち台湾時間の午前五時に花蓮静思精舎とネットで繋ぎ、静思晨語「薰法香」(法の香りに浸る)の時間に上人の説法を聞く。

説法が終わって人々が寝静まっている時、少ないボランティアで多くの仕事で受ける大きなプレッシャーを乗り越えるため、難民ケアの方向と方法を思考する。「幸いにも仏法が私の心を落ち着かせ、静思することができるのです。さもなければノイローゼになっていたでしょう」と彼は笑いながら言った。

毎月、定期的に難民家族を経済面で支援し、不定期に医療案件を引き受け、医療と慈善を同時に並行させている。しかし、シリアの内戦はいつ止むとも知れず、誰にも分からない。どうやってこの長い期間に起きた経済面、教育面、生命などの犠牲と損失を取り戻すことができるのか?

「私たちの次のステップは教育です。シリアの未来はこの子たちにかっているのです」と陳秋華が言った。

難民家族の生活が徐々に改善されるのを見て、少しずつ心が晴れてきた。ボランティアが頑に長い間続けてきたケアと支援の意義が見出されつつある。
 
NO.236