大学時代「慈済青年社」に入り、いつまでも初心を貫いていくと発願した。卒業後就職しても昔の誓いは依然として続いているだろうか?「子供のような純粋な心は変わるのでしょうか」と證厳法師はかつて憂慮したことがある。だが成功大学「慈済青年社」部長だった陳冠廷と林国祥は、この約束を忘れずに、慈誠(男性委員)の養成訓練に参加して認証を授かり、「あなたの子供が只今戻ってきました」と證厳法師に報告した。
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陳冠廷(右二)
1990年生まれ、出身は高雄、現在は台湾の成功大学大学院で電子機械の博士課程を専攻している。
2019年慈誠の資格を取得し、法号は誠峰と言う。
林國祥(左二)
1992年生まれ、出身は台中、台南郵便局の窓口業務を務めている。
2019年慈誠の資格を取得し、法号は誠岳と言う。
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「君が国祥君ですか」「いいえ、違います。彼が国祥で、私は冠廷です」このようなやりとりが国祥と冠廷の周りでよく起こる。二人とも若くやせてハンサムで背が高く、共に成功大学の「慈済青年社」の一員で、しかも部長経験者という共通点があるからだ。「栄民の家(身寄りのない国民党軍の退役軍人の住む所)」、「弱者家庭の学童保育」、「地域住民の親子勉強会」、「骨髄寄贈志願登録の宣伝」などのボランティア活動には必ずと言っていいほど彼らの姿があった。
冠廷はこう言った、「慈済青年社が私の人生を変えてくれました。大学一年生の時、単にこの部活はなんて温かく愛に満ちているグループなのだろうと思っていました。その時の私は、手のひらを下に向けようと言う意味が分からず、ボランティア活動にも参加せず、先輩やボランティアからの愛を受けるばかりでした。見知らぬ人に自分の愛を無条件で奉仕できるのはなぜなのか、なかなか納得がいきませんでした」。
「その後のある日、栄民の家に行き寄り添いケアをしたことがきっかけで、奉仕した後の喜びがやっと理解できました。痩せて弱弱しいお爺ちゃんに向かって、両手を握りしめ、目を合わせた途端に温もりが伝わり、二人とも思わず目に涙が滲んできました。このような解釈のできない感動こそが寄り添いの力ではないかと思いました」。
冠廷は控えめな性格の男性で、あまり感情を表さない性格柄だが、大学三年生の時に慈済青年社の部長を引き受け、そして「弱者家庭の学童保育」を立ち上げた。彼は慈済青年社の部員を集めて、自分たちの時間と知識を使って精神的にも物質的にも不足している弱者家庭の子供たちを支援した。初めは五人の子供を九人の大学生で見ていたが、六年目の現在は三十人の子供を四十五人の大学生がケアしている。
彼は次のように分かち合った、「ある日のことでした。指導が終わり、ある子供を家に送った時、その家族の人が体調を悪くしていることに気付き、早速ボランティアたちに知らせ、病院に連れて行くことにしました。二回目の脳卒中でしたが、幸いに命は取り留めました。その人は病気が回復し、今は慈済環境保全センターで回収分類の仕事に投入しています」。
冠廷は何回も台湾の慈済青年社と一緒にマレーシアに行って人文交流に参加し、地元の子供と触れ合う時間を持った。そして、自分は愛のある慈済に導かれたこと、同時にこの愛を広げて行かなければならないことを深く悟ったのだった。
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●陳冠廷(右)2018年「世界慈済大学生の国際交流」でマレーシアグループに参加し、クアラルンプールの難民学校で子供たちに授業を行った。
(撮影・張小娟)
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無常は人を迅速に成長させる
慈済青年社(大学のサークル)に入ったことで冠廷は仏法に触れるようになった。「世の中で遮ることのできない二つのことは、時間と無常です」と證厳法師のお諭しに若い彼は深く感じ入った。二○一三年、彼が花蓮に帰って慈済青年ボランティアに参加した時、無常の風が彼の身に吹き付けた。「それは取りたくない電話でした。何回もかかってきてやっと出た時、受話器の向こうから弱々しく悲しい声がしたのです。お父さんが突然家で亡くなったから早く帰ってきなさいと母が泣きながら言ったのです。その時私はすぐには信じられず、今にも天が崩れてきそうな恐怖を覚えました」。
冠廷は自分に言い聞かせた、「自分は長男なのだから、いつまでも悲しんでいるわけにはいかない。早く成長して父の代わりに家庭の責任を担い、しっかり母と妹を支えていかなければならない。博士課程の学位も予定通りに修得しよう。逃げずに前に向かって進まなくてはならない。前へ進むことが唯一の道だ」。
今まで、ボランティアをすることは既に彼の生活の中心になっていたが、突然父親が亡くなったことでより深く考えるようになった。自分の体には所有権はなく、使用権があるのみなのだ。この世を去る時は、何も持っていくことはできないのだから。それよりも限りのある人生を有効に使い、もっと社会に有益なことをすることだ。だから卒業後は優れた先生になり、慈誠になるための見習や養成講座に参加しようと決意した。
役割を担うのは学習の始まりだと冠廷はいつも思っていた。慈済青年社に入ってからも進んで引き受け、楽しんで周りの人と取り組み、特訓を受けて更に役割を担い、自分を変えようとした。役割を担うと自分の能力不足が見えてくる。前向きな考えでこの不足に対応し、この不足を成長のチャンスに変えられるのだと彼は信じている。
ある時、勉強会を担当していたボランティアが急用で出席できなくなり、冠廷に代理してもらえないかと聞かれたことがある。準備時間は二週間しかなく、彼は迷った。今までこのような役割を引き受けたことは一度もなかったので自分にできるだろうかと考えたが、それでも心の中で挑戦してみようと思った。
冠廷は落ち着いて「自分を見くびってはいけない、人間には無限の潜在能力があるのだ」という静思語を思い出した。「何事も初めからできるわけではない。学んで、繰り返し練習し、実際にやってみて自分の経験となるのだ」。それは冠廷が選択を迫られる時、自分に自信を持つように言い聞かせるための励ましの言葉である。
その勉強会で、冠廷は「父母恩重難報経」という恩返しの文章を皆と分かち合った。親不孝者が地獄に落ちていくという内容である。地獄という場所は実際には目に見えないが、自分の父がこの世を去った時、遠いところにいた冠廷は、父の側にいてあげられなかったことからくる辛さ、苦しみを覚え、まるで地獄に落ちたような気がした。
證厳法師はいつもおっしゃっている。両親に恩返しするには、物を供養するほか、両親が授けてくれた体で善行するのも恩返しの一つの方法だと。彼は慈済青年社のボランティア活動に参加するという実際の行動の中で父への恩返しをしている。
父がこの世を去った後、冠廷は週末になると、はほとんど家に帰って母と過ごしている。急に頼りになる人を失った母は、情緒が不安定になってイライラしやすく、家の人に当り散らすようになっていたからだ。冠廷は母の悲しみをただ聞いて受け入れ、自分の悲しみに耐え、彼が頼れることを母に信じてもらおうとした。そのようにして彼が寄り添ったおかげで母はうつ病から立ち直った。
「心すれば上手になれる」彼は仏法解釈の専門家ではないが、今回の準備に少し時間をかけて、上手に説明し、参加者に分かりやすくなるよう工夫した。更に證厳法師からの「因縁観」という開示を「業識倉庫」に例え、パワーポイントを使って動画で表し、分かりやすく仏法を理解してもらえるようにした。
冠廷はこう言った。慈誠となったからには證厳法師の一代目の弟子として常に仏法の中に身を置き、法で心を整えて、自分の悪習に気を付け、仏法を伝承していくつもりであると。
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●2019年1月3日陳冠廷は台南支部で慈誠の徽章を授かる前に、静思精舎の出家尼僧から胸花を付けてもらった。(撮影・陳貞桃) |
歩んできた道で差し伸べてくれた
数え切れない手
ボランティアの道中で出会った国祥のことを、冠廷は良き友だと思っている。互いに證厳法師の開示を分かち合っているからだ。国祥も長男であり、高校を卒業後、台中の家族を離れ、台南の成功大学に進んだ。初めて故郷から離れた時、自分でいくつか目標を立てた。その中の一つが社会奉仕団体に入って社会のために少しでも力を尽くすことだった。自分の父がかつて「人の成功とは、どれほどの財産を持つことではなく、どれほど人の役に立つかだ」と教えてくれたからだ。
国祥は親族年長者の信仰に従い、あらゆる祭日に線香が欠かせないだけでなく、お正月や節句のたびにお供え物としての魚や肉などを用意するのを常にしてきた。慈済青年社に入ってからは一切の衆生は平等であり、因果応報などの道理があることを次第に理解するようになった。また菜食を始め、暮らしの中でも環境保全に注意すべきことに気が付くようになった。
国祥は冠廷から慈済青年社の部長の役割を引き継ぎ、全ての活動も続けて推進していった。彼は卒業後まもなく郵便局の試験をパスした。「筆記試験の点数は合格ぎりぎりでしたが、履歴書に慈済青年社で色々なボランティア活動に参加したことを書いていたので、口頭試験の試験官に何度も関連活動を尋ねられました」彼は口頭試験で意外にも高い点数を得て採用されたのである。彼は慈済青年社に感謝している。そこでは色々なことが学ぶことができ、そのお陰で希望した職業に就くことができたからだ。
国祥は兵役の義務を終えた後すぐ就職した。二年後のある日、花蓮に戻って先輩に会いに行った。先輩は彼にこう言った。「君は変わったね。慈済青年社の時の国祥ではない。君の情熱と温もりが見られなくなった」と言われて茫然としてしまった。
国祥自身はずっと心を込めて生きてきたつもりだった。兵役の日々も真面目に勤め、他人と争わないよう、人に好かれるようにしてきたが、いつの間にか世間の風潮に流されてしまったのだろうか、彼はそのことに全く気が付いていなかなった。慈済クリーム(慈済人は人と打ち解けやすい表情を心掛けることの喩え)も依然として付けているが、それは仮面の微笑みを装って自分を保護するためであり、自分の心と外の世界の間に見えない壁を作り上げてしまったかのようだった。
国祥はかつて慈済青年社の活動で聞いた證厳法師のお諭しを思い出した。「子供のような純粋な心は変わるのでしょうか」と。僅か一年半、慈済青年社または慈済と離れたことでこのように大きな変化があるとは思ってもいなかった。
台南に戻った国祥は、昔の自分を取り戻そうと決意した。仕事が終わってから、静思太鼓チームに参加し始め、再び以前よく知っていた慈済の環境に戻った。「歩んできた道では数え切れないほどの手に支えられ、前に進めるよういつもそっと私の背中を押してくれたり、まるで灯りを点すように拍手や励ましをくれました。多くの善縁とボランティアたちの寄り添いに、私の心は柔軟に明るくなり優しく照らされてきました」。
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●2018年の地域年末祝福会で林国祥は司会を担当し、仏法を伝承できる人になろうと心に決めた。(写真提供・林香秀) |
一生後悔しないこと
就職して最初の年に、国祥は順調に慈済青年社参加当時の初心を取り戻したが、退勤後の生活は依然虚しかった。見習い訓練に参加したかったが、社会人一年生の若輩者では慈済の活動が担えないのではないかという心配があったので取りやめた。
二○一八年の初めに、「若いうち、両親の体がまだ健康な時に、自分が本当にしたいことをしろ。人生で後悔しないように」というある親友からの言葉で彼は目が覚めた。
自分の一生は職業、家業、志業を拠り所としよう。前の二つはまだ模索しているが、「慈済は私の今生の志業であり、證厳法師は今生の慧命の導師である」と国祥は信じている。慈済で色々な人の心に響く生き方を聞いたが、まさか自分がある日、地域の勉強会で自分の話を語り、それを聞いてもらうとは思ってもいなかった。自分の人生には波濤のうねりや険しい道は少なかったが、真実の生命の証には違いないのだ。
「考えすぎると失敗しますが、やればやるほど成功します」慈済青年社の阿板先輩とフェイスブックでそのことを分かち合った。国祥はこの一年間の養成訓練を振りかえってみれば、確かにそうだったと思っている。
この一年間の養成訓練の中で特に感銘を受けたのは訪問ケアと医療ボランティアだった。「病院の入り口に立ってボランティアをしている時に多くの人の出入りを見ました。豪華な車でも、バスか徒歩で来ても、一旦病院に入れば皆、生老病死に直面します。病の痛みからの離脱と生命の延続を求めることは皆同じです」と彼は言った。
慈済青年社にいた時もボランティアたちと訪問ケア先の清掃をしたことはあったが、実際にケアをしたことはなかった。今ケアを学び始め、彼らが何を必要としているか深く考えるようになった。最も大変なのは当事者との対話で、思いやりのある言い方と考え方をして證厳法師の法をもって相手を慰めるよう努めている。
国祥は地域の勉強会で「父母恩重難報経」の中に出てくる懐胎の部分を皆と分かち合って共鳴を得た。そして二○一八年の地域歳末祝福会の司会も担当した。そこで更に悟ったのは、どこにいても本分をしっかり守って、仏法を心がけるだけでなく実践するということだった。また仏法の解釈にもっと力を入れ、伝承できる人になりたいと自分に言い聞かせた。
二○一九年一月、国祥と冠廷は、慈誠の認証を受けて静思弟子となり、両親から授かった体を善用して人に役立つことを発願した。国祥の胸には「仏心師志」という徽章が付けられている。「證厳法師、あなたの子供が帰ってきました、大きくなりましたよ」と国祥は心の中で語りかけた。
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●林国祥は(右1)慈済青年社で聞いた證厳法師の「子供のような純粋な心は変わるのでしょうか」というお諭しを思い出し、再びボランティアに戻ることを決意し、今年の始めに慈誠の資格を取った。(撮影・蔡明典) |
(慈済月刊六二八期より)
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