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●毎日朝晩、陳漢鈞はプールでラップを重ねながら泳ぐ。体を鍛え、これから先はハンググライダーが風に乗り優雅にソフトランディングするが如く、自立した生活を続け晩年を迎えたいと考えている。 |
兄弟と日夜交代で介護してきた父親の最期を見送った。彼はその時、自分は「最後の枕元の孝行息子」だったことに安堵して肩の荷を下ろした。自身は「老後のために子を育てる」と言う古い考えは持っていない。一人で老後を迎えることについて、体は若い頃のように戦闘力が高くなくても、設定された航路に沿って、エンジンがないハンググライダーのように、のんびりと飛行し、ソフトランディングできることを望んでいる。
同じく病気の家族を持つ経験者として、重病者が外出するのはどれだけ大変なことか、どのように在宅介護するかを、彼はよく知っていた。当時、その父親の散髪をするようになったのも一種の縁だと感じていた。
父親が床屋にいく時、陳漢鈞はタクシーを呼ぶ。床屋までは車で十数分で着く。当時の車イスは大きく、後ろのトランクに積み込む時、注意しないとすぐに車体に傷を付けてしまう。「百元も儲かっていないのに、車まで傷つけられたらたまらないよ」と運転手に嫌味を言われたこともあり、どうしようもなかった。何度かそうしたことがあってから陳漢鈞は散髪セットを買うことにした。誰かに教わったわけではなく、自習してマスターした。出来るだけ、綺麗に揃えればいいと思った。それから自然と二人の息子の散髪も彼が担当するようになった。
「理髪免許を取ったことは運転免許を取ったのと同じです。路上運転はやはり怖いです!かなりの実務経験を積まないといけません」陳漢鈞は仕事でも計画的に順序よくすることで知られている。彼は慈済大学(以下「慈大」と略す)の近くに中規模の床屋を見付けて、そこで見習いをしようと思った。
いきなり店に入っていくのは気が引けたので、彼は店先で中の様子を伺いながら、何度も行き来した末、勇気を出して自己紹介をした。オーナーの奥さんに来意を説明しようとしたことろ、丁度毎朝の水泳仲間が通りかかり、「この人は真自面な人ですよ」と保証してくれたので、とりあえず彼に順番待ちのふりをして散髪の実技を見学することを許してくれた。彼はお客さんが帰ってから色々と質問をした。とても真面目な態度だった。
理髪を勉強した同期のクラスメートは相次いで自分の店を持つようになったが陳漢鈞だけは持っていない。「実は店を三軒を持っているようなものなのです。自宅のリビング兼床屋、慈大、そして慈大の社会人文学部にも散髪セットを置いています。何時でも切ってあげられます」。
彼は「熟年転職」で得た技能を無駄にしたくなかった。予約者は友人、同僚、彼らの病気になった家族、親戚など様々である。慈大のプールでライフガードをしている彼は学生の間で「陳爺」と呼ばれ、口コミで男、女学生達に広まっている。花蓮に就職した卒業生はいまでも彼と「髪」の縁は続いている。
リビングの壁のカレンダーには予約者の名前と時間がしっかりと書かれている。常連は百人を超える。散髪の渋滞がないように時には一日二、三人の無料散髪を入れたり、時には病人や身体障害者の散髪の出前にも出かける。そのついでにそこで彼らの子供や孫の髪まで切ってしまう。その他、老人ホームから依頼があれば無料の散髪に出かけるのだった。
一度、外に出られない九十四歳の人の髪を切ったことがある。「このような長寿の人の髪を切れるのはとても幸せなことです」と彼が言った。
広く良縁を結んだため、彼は慈大で定年になっても古い仲間との付き合いが続いているだけでなく、新しく出会った人ともすぐ友達になれるので、家の中はいつも友人で賑わっている。散髪をしに来た人もいれば、彼の手作り餃子やターピン(中華風おやき)を食べに来た人もいる。
「外のバスケットに入っているのは、全部お裾分けです」陳漢鈞は日頃から色々な人のお返しがあるので、独居しているが孤独を感じない。
己で老後の道を敷く
中年で奥さんを亡くし、独居して七十歳になった頃の陳漢鈞は、自分の人生が父親と同じようになるのではないかと嘆いていた。
五十三歳で慈大に就職し、プールのライフガードを六十五歳の定年まで勤めあげた。その後、近所の中学校でライフガードとして再就職し、今日に至っている。いつも赤いユニフォームに身を包む陳漢鈞は、常に笑顔でいるので親しみを感じさせ、見るからに元気そうだ。
十七年前、慈大に就職したばかりの時、奥さんの五十歳の誕生日をかつて勤めていたホテルでお祝いをした。その二日後、彼女が交通事故で亡くなるなどとは思いもしなかった。
告別式を終え、息子が台北に戻る前に陳漢鈞は息子を写真館に連れて行った。「生前、お母さんに家族写真を撮ろうと言ったのだが、何を撮るのと言われるだけだった。今となっては彼女は永遠の欠員だよ」。
奥さんに先立たれ、息子達がそれぞれの職場に戻った後、家には両親と奥さんの遺影しかなかったので、親子の写真を自分の生活空間であるリビングルームに飾った。いつ見ても心の底から喜びが湧いてくる。父親と同様、自分は今、男やもめになって独居生活をしているが、父親の介護を通して陳漢鈞が決心したのは父とは全く違う老後生活を送ることだった。
作家の張曼娟は高齢になって両親を介護することは自分の老後の「予習」であると語っていたが、しかし、如何なる状況に遭遇するかは予測し難い。陳漢鈞は作家のような感性と想像力は持っていないが、彼の生活は現実的だ。
父親の病因を検証し、病気になった原因は肉食で野菜が少く味の濃いことと、ナトリウムの摂取量が高すぎたことにあると考えた。「以前は料理に沢山塩を使っていましたが、今はその習慣を変えました」。また父親は若い頃毎日タバコを二、三箱吸っていたが、脳卒中の後、タバコが吸えなくなり、息子の体に染み付いたタバコの匂いを嗅ぐと堪らなくなるほど吸いたくなると言っていたので、「お父さんが吸えないから私もすぐにタバコを辞めました」。そのほか長年プールの仕事で毎日朝晩数百メートルを泳ぎ、常に運動していることも、風邪一つひかずに健康を維持できている原因だと思っている。
六年前のこと、慈大から家に帰る途中、自転車に乗っていたところをオートバイにぶつけられた。翌朝起きたら、両足に痺れを感じ、平泳ぎをする時に両足に力が入らなかったので整形外科の先生に診てもらうと脊椎が脱臼していた。手術を受けて八本の釘で固定する羽目になった。
その年の三月に手術を受け、息子は四月の清明の連休まで付き添ってくれた。兄弟力を合わせて、ベッドを一階のリビングに運び、トイレにも手すりを付けてくれた。彼はまた妹に薬の取り換えなどで暫くの間家にいてくれるよう頼んだ。医者が水泳はリハビリに良いと勧めてくれたので、まもなくプールサイドでライフガードとして復帰した。
「息子はみな都市で働いています。少なくとも落としものを自分で拾えるように、自分の面倒は自分で見たいのです。人に頼らなくてよい生活はいいものですよ」と陳漢鈞は朗らかに笑った。
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●お裾分けで食材をもらい、陳漢鈞は三食自炊している。質素な食事は油と塩分を減らし、健康食に徹している。 |
安全で穏やかな着地
毎朝水泳の古い仲間が集まり健康維持のために体力を鍛えている。よくない生活習慣を止め、自立こそが最高の養生の道だと励まし合っている。
陳漢鈞は自宅近くにある中学校にできたコミュニティ・カレッジのマジック講座に申し込んだ。簡単な道具で友達に手品を見せ、喜んでもらっている。彼は時々孫の顔を見るために台北に行く。六歳になる孫の前では「凄いお爺ちゃん」である。
開業するつもりはないが、彼は散髪の腕も上げようと続けている。町に百元床屋や小さな店ができているので、彼が通る度に外から見ていると「おじさん、散髪をしますか」と店のスタッフが顔を出して声をかけた。すると彼はにこやかに親指を立てて「いいね」のサインを出した。コミュニティ・カレッジでは電動シェーバーを使う散髪の進級クラスに申し込んだ。
年をとっても学び続け、新しいことに好奇心を持てば、一つのことに執着したり自己満足したりしなくなるから、自ずと若い心が保てるのだそうだ。「年をとって動けなくなったら、誰か面倒を見てくれますか」このような問いに対して、陳漢鈞は考えることもなく、すかさず「老人らしく老人ホームに行きます」と答えた。
「樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず。豊かなお供えよりも、質素な養いの方がいいのです」と陳漢鈞は簡単に自分の持つ価値感を述べた。「最後の枕元の孝行息子」と自称するように、彼は社会の変化を素直に受け入れ、古くから「子供を育てるのは老後のため」という概念を棄てたのである。
彼は息子達が仕事と家庭のことに専念することを望んでいる。一人の老後について、彼の態度は積極的で楽天的だ。老いると若い頃のような闘志はないが、エンジンのないハンググライダーのように風に乗ってのんびり飛びたいものだと思っているそうだ。
「人によっては、定年になると体が一気に弱ってしまったり、重い病いで寝たきりになったり、ひどい場合は二、三カ月で亡くなったりします」。彼は右の掌を頭よりも高くあげて、右から左、上から下へと綺麗な放物線を描きながら老後の状態についての期待を語った。
「私はゆっくり滑降し、できれば息子の羽が生え揃うまで、少しでも長く飛び続けたいのです」。陳漢鈞は健康的な信念と行動に支えられているので、晩年はハンググライダーのように、きっと既定の航路に乗って安全で穏やか且つ安らかに最期を迎えられることだろう。
「人は誰でも年をとり、いつかは倒れる日がやって来ます」。老、病、死に関する煩悩は既に始まっているが、これから先はもう一つの悟りの道が待っている。
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●慈大から定年しても、熱い情熱と爽やかな性格を持つ陳漢鈞は今でも赤いユニフォームに身を包み、自宅の近所にある学校のプールで大好きなライフガードの仕事を続けている。 |
(慈済月刊六二七期より)
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