サイクロン・イダイがジンバブエの東部を襲い、甚大な被害を被ったチマニマニ郡は村ごと押し流され、地形がすっかり変わってしまった。住む家を無くした村人は避難所に避難し、政府やNGOから生活物資を受け取って生活している。彼らが災害の後にできた川を渡り故郷に戻った時、帰る「家」はどこにあったのか、もはや跡形もなかった。
モザンビークと国土を隣接し、アフリカ内陸に位置しているジンバブエは三月十五日から十七日まで、サイクロン・イダイに襲われた。たった二十四時間の間に六百ミリの集中豪雨が降り、土石流を引き起こした。東部のマニカランドが最も甚大な被害を受けた。中でも国境に近いチマニマニ郡は全域の九割以上が壊滅した。
東部へ続く主要道路や橋は崩壊していたため、慈済ボランティアの朱金財と現地ボランティアは、災害の翌週に首都であるハラレから現地のガイドに案内され、凸凹のできた山道を大きく迂回してマニカランドの被災地を視察すると共にトラックに食パンと浄水剤を満載して向かった。チマニマニ郡までは以前なら五時間ほどの道のりだったが、被災後は十時間以上かかった。途中で何度も通行止めに遭遇したボランティア達は水・電気のない軍のキャンプのはずれに野宿し、翌日やっとチマニマニ郡にたどり着いた。
途中いくつもの部落を通り過ぎ、幸いにして生き延びた住民に話しを聞くと豪雨があった夜は洪水が四方八方から押し寄せ、根こそぎ倒れた大木が流れきて、水が引いた後は一面、泥沼になっていたそうだ。被災後の一周間、現地ではヘリコプターによる限られた物資の供給しか行うことができなかった。山の中なので、日中の気温は摂氏二十度台だが、夜になると摂氏十度以下に下がる場所である。
被災地では断水と停電が続き、人々は道路脇の水溜りから水を汲んで使っていた。ボランティアはまず浄水剤を配った。平均して百五十CCで一リットルの原水を浄化できる。最初の視察により避難所と災害の状況を把握し、住民が食糧、浄水剤、エコ毛布などの生活物資を必要としていることが分かったため、早速配付準備に取り掛かった。
|
●チマニマニ郡にある数カ所の村は土石流に呑まれ、残骸だらけだった。ボランティアは住民の家まで付き添った。土石流に遭った自宅から辛うじて写真を見つけたが、もう家は無い。
|
ガソリンを急いで探す必要がある
ボランティアは支援物資を調達する為にハラレに戻ったが、同時に燃料不足の問題を克服する必要があった。外貨不足、経済不振など様々な理由から市街地域ではガソリンを入れるのに四時間も列に並ばなくてはならないからだ。これによってひどい渋滞も起きていた。
ジンバブエでガソリンを入手するのは簡単なことではない。しかし朱金財は長年に亘って貧困家庭の訪問を行っているので、それには慣れている。しかし、被災地に支援物資を輸送するトラックは三台もあるので、ボランティアは日々ガソリンが残っているスタンドを探し回り、前もって列に並んでガソリンを買わなければならなかった。「一番長い時で六、七時間待ちましたが、幸い買えました。数時間待ってもうすぐ自分の番なのにガソリンがなくなってしまい、被災地に行くことができなくなったこともありました」。支援のために奔走している朱金財は 嗚咽を禁じ得ず、「慈済人は現場まで行くと全く違う気持ちになります。被災地ではとても支援を必要としています」と言った。
慈済が長年寄り添ってきたコミュニティであるイースト・ビューの住民達も支援の呼びかけに応じた。ボランティアが集会所に到着する前から、多くの人影が見えた。その日は八百人あまりが集まり、人々はできる限り服や小遣いを寄付し、被災地に送る為に慈済に託した。
七十八才のアグネスさんは一人暮らしで仕事をしていないが、ジンバブエ・ドルで三十セント(日本円で十銭弱)を寄付した。これは彼女の蓄えのほとんど全部だった。「私はサイクロン・イダイによる死傷の状況をニュースで知り、悲しくて涙がとまりませんでした。彼らを祝福したいと思っていたのです」。
首都近郊のジャカエレア地区は多くの貧困家庭が地方から集まって住んでいる場所だったが、彼らは相次いで家から最も価値ある物資を寄付した。「服と靴は被災地の住民が今最も必要としていて、私たちにも寄付できるものです」。
|
●チマニマニ郡全域がひどい被災を受けた。慈済ボランティアは浄水剤、主食となるコーンミール、おから、食用油などを7つの避難所に避難した住民に配布した。 |
傷付いた人達が互いに慰め合う
東部の山脈間の高地に位置するチマニマニには風災が過ぎた後も洪水によって流されてきた石と泥が一面に積もり、山肌には赤土が露出し、道路が寸断されていた。三週間経った今でも地方政府は依然としてインフラ関連の修復に力を注ぐだけで、生活関連の援助は殆ど行われていない。
国際救助隊と救助犬は遭難者の遺体を探し続けた。山の麓にあるコパ部落では行政センターと百棟以上の建物が土石流に流され、数百人が行方不明者になっていた。地形の変化によってできた小川の流れは激しく、住民達は政府が支給する生活物資を受け取る為に、注意しながら橋を渡っていた。
ジンバブエの慈済ボランティアは四月五日と十三日の二回にわたって大規模な配布活動を行った。現地の人達に主食のおからを支給したり、七つの避難所で炊き出しをしたり、夜間の寒気を防止するためのエコ毛布を支給したりした。被災した四百世帯は食用油、塩、キビ砂糖、トウモロコシ粉、衣類を受け取り、住民達の喜びの拍手と歌い声は止まるところを知らなかった。
コンガ村では百世帯近くが土石流に流され、家屋が半壊した千名あまりの住民が四つの避難所に身を置いていた。「他の団体は物を置いていくだけで、直ぐこの場を去りました」「皆さんは物資を届けてくれただけではなく、我々のために祈ってくれました。皆さんの支援に感動し、初めて人情の温かさかさをしみじみと感じました」とマックンタ婦人が慈済ボランティアに話した。
感動があり信頼が生まれ、マックンタ婦人はボランティアを彼女の家があった場所に案内した。「我が家は三部屋あり、ここから先は庭で、鶏を飼っていました。向こうは私の厨房でした」と彼女は目の前の黄色い土砂の方を指しながら語った。
サイクロンの夜、土砂が家の中まで流れ込んだ。主人と二人の娘は怪我したが、一家は運良く逃げられた。今は教会に避難している。サイクロンで全てを無くした彼女はあてもなく歩きまわり、遠い川に洗濯をしに行ったり、支援物資を受け取る為待合所に行ったりしているが、混み合う教会にはいたくないと言う。そういう状況は避難所でよく見られる。
慈済の支援
●南アフリカの内陸に位置するジンバブエはハイパーインフレーションで知られ、経済、教育、公共衛生の事情は年々悪くなる一方で、失業率は9割を上回っている。
●慈済は2007年に初めてジンバブエで配布活動を行い、台湾籍のビジネスマン朱金財はジンバブエの困難な政治と経済事情の中、慈善救済と児童教育に力を注いできた。2014年に初めて、現地の台湾人として慈済委員の認証を受けた。
●2019年のサイクロン・イダイは27万人の被災者を出し、東部の被災地では9割以上の道路が破壊された。首都ハラレの慈済ボランティアはマレーシアからのボランティアの協力を得て、甚大な被害を受けたマニカランドを視察し、生活物資、エコ毛布、浄水剤をのべ3725世帯に配付した。
|
支援がなかなか届かなかった一家だったが、慈済ボランティアが温かく接すると微笑を返してくれた。下の娘もボランティアの持って来た服を着て、将来に希望が持てるようになったと言った。
今回の救援チームの中には現地ボランティアであるジェーンがいた。彼女はチマニマニ郡の出身で、このサイクロンで家族四人を無くした。「家族は嵐が収まったと思っていました。しかし胸の高さまで水位が上がっていたことは予想外でした」。故郷に戻ってもジェーンは心の痛みを隠せない様子だった。両親と兄姉が依然として行方不明なのである。
石の前に一人の女性が立っているのを見かけたジェーンは近づき、「私の兄はピココ地区におり、洪水に流されました」「私達は悲しむことをやめ、全てを天に任せましょう!泣かないで、泣かないで、私達は神を信じましょう。全て良くなりますよ」と泣きながら言った。お互い悲しみのはけ口を見つけたように、家族六人を無くしたその女性はジェーンをきつく抱きしめた。ジェーンは小愛を大愛に変え、ボランティア達と一緒にもっと多くの人を助けることを約束した。
|
●ジンバブエの人々は台風被害のひどさを知ると、首都ハラレ郊外に住む貧困窮被災地に送りたいとボランティアに託した。(撮影・楊景卉) |
(慈済月刊六三〇期より)
|