|
●ベイラ市郊外では多くの道路が損壊して交通が寸断され、物資の輸送に影響が出ている。 |
慈済ボランティアである私は災害支援に参加するために、南アフリカからモザンビークへ向かった。国際慈善組織や支援チームと傷跡が生々しいベイラ市で合流した。孤立した村や寸断された道路、そして、飲料水を待ち望む住民たちを見て、私たちは力を合わせて最も援助を必要とする場所に支援の手を差し伸べた。
サイクロン「イダイ」がアフリカを襲ったその一週間、私は毎日出勤途中に被災状況のニュースを聞いていたが、死傷者は日増しに増えていった。国際救援組織が続々と大きな被害を受けたモザンビーク中部の大都市ベイラに向かっていた。慈済ボランティアとして、被災者のために自分は何ができるだろうかと考えた。
|
●重被災地では充分な物資が手に入らず、トラックの調達も困難だった。1200キロ離れたマプト市の「慈済の家」が支援物資の集積地となり、現地ボランティアが生活物資パックとトウモロコシ粉をリレー式にトラックに積み、中部の被災地に運んだ。
|
一九九三年、私は両親と共に南アフリカに移住し、ヨハネスブルグで就学、就職し、既にそこに暮らして二十六年目になる。近隣のアフリカ南部の国々と比べ、南アフリカには豊かな大自然と発達した近代国家の双方があった。しかし、人々の貧富の格差が大きく、教育水準が低かったため、窃盗や強盗が多発し、日々の生活は戦々恐々としており、いつ襲われるかとビクビクしていた。
そのような状況下でも、南アフリカの華人ボランティアは貧困者を支援し、富裕な人を教育する活動を続け、農村で慰問をしたり、物資の配付を行っている。かつて幾度も貧民区の火災や豪雨後の水害の支援活動に参加したが、アフリカ南部では旱魃以外、大きな自然災害はあまり起きたことがないと記憶している。
インターネットでベイラの被災状況を調べていると、私が住んでいたヨハネスブルグから千三百キロほどしか離れておらず、車で行ける距離であり、飛行機でも僅か一時間半で到達できることが分かった。私は直ぐにモザンビークの蔡岱霖師姐に連絡を取ったところ、ベイラには慈済ボランティアがいないため、首都マプトの慈済ボランティアが幾つかのチームに分かれて遥か遠くのベイラに救援活動に向かっていることを知った。蔡岱霖師姐は、「被災後、現地の水源地が汚染され、何よりも必要としているのは浄水薬です」と強調した。
ヨハネスブルグのボランティアは一日で一万本の浄水薬を集めたが、ベイラへ輸送するのに少なくとも三日掛かる。私は浄水薬の一部を携えてベイラで慈済ボランティアと合流することにした。幸運にも翌日の始発便の航空券の最後の座席を手に入れることができた。そして急いで病院に行き、コレラ、マラリア、破傷風、インフルエンザ、B型肝炎など、七種のワクチンを接種したり服用した。
三月二十九日、ベイラ行きの始発便は乗客の半分が各国の救援人員で、それぞれ所属組織の制服を着ており、私も慈済の制服を身に着けていた。私のスーツケースの三分の二は浄水薬三百本に占領されていた。搭乗後、機内の座席が半分しか埋まっていないことに気付いた。実はその時期に被災地へ向かう飛行機は支援物資輸送の任務も兼ねていたため、座席数の半分しか販売していなかったのだ。
|
●ベイラ市西南方にあるプンウェ河が氾濫し、沿岸は大きな被害を受けた。ブジでは被災後3週間たっても依然交通が寸断されたままで、支援物資はなかなか到達できなかった。(撮影・楊俊亭) |
現地ボランティアは慈済災害支援の強み
私は今回初めてモザンビークを訪れた。飛行機が高度を下げると、窓外のベイラ市の様子が目に映った。プンウェ河両岸には洪水の痕跡が見て取れた。街の至るところが被害を被り、背の高い椰子の木も大きな木も、全て同じ方向に倒れており、「イダイ」が上陸した時の風力十六という風速の凄まじい威力を感じさせた。
三月の南半球は夏で、モザンビークの蒸し暑い天気は台湾の真夏のようだった。空港を出て、蔡岱霖師姐の車でこの港湾都市を走っていると、私が子どもの頃に見た後進国のアフリカの諸国そのものであった。
舗装されてない道路は凸凹で、汚い古い街道に人と車が入り乱れ、大部分の家屋の多くは屋根がなく、電信柱は倒れ、道路は砂で蔽われていた。水が引いた後、世紀の大災害に遭ったベイラ市には重い空気が漂っているに違いないと思っていたが、意外にも市街地は静かで、人々は楽天的に現実を受け入れ、復旧に力を入れていた。
毎朝九時、ベイラ空港の緊急援助指揮センターで、国連の職員による災害の近況報告と各NGOの報告が三十分間行われた。それによって世界各国の慈善支援団体が互いに配付や調査の時に会場と情報を共有し、物資を最も必要な場所へ届けられるよう討論することができた。
|
●NGO組織がテントを被災者に提供。新たな生活を始めるため、わずかな財産とテントをまとめて女性は避難所を去って帰って行った。 |
少なからぬ人が慈済の制服を見て、台湾の慈善団体だと知り、日々の会議に招いてくれた。会議を通して国際組織との協力の重要性を知ると共に、慈済がモザンビークに現地ボランティアを有していることは、他の団体よりも被災地に深く関わって支援を最も必要としている人々に直ちに食糧と生活物資を届けられるという強みであることも分かった。
三月下旬、慈済ボランティアのベイラでの第一段階の仕事は手分けして被害調査と配付物資の準備で、小規模の配付活動をすることだった。しかし、被災後、水や電気、通信設備が大きく損壊し、電話やインターネットがほとんど使えないなど、多くの困難にぶつかった。ベイラ市以西では多くの場所で水がまだ引いておらず、重被災地のブジ等では交通が中断していた。
被災後、ベイラ市では物価が二倍以上に高騰したが、市街地の商店には商品がなく、お金があっても食糧を手に入れることができなかった。そこで慈済は必要な支援物資を千二百キロ離れた首都マプトで購入して袋詰めし、トラックで二十九時間かけてベイラへ運んだ。それでも物資の価格はベイラ現地で買うよりも安かった。
|
●「イダイ」は上陸後、勢力が衰えたとはいえ、風速はなお風力16に達し、巨木をなぎ倒した。農村の粗末な家屋は倒壊を免れなかった。 |
|
●ティカ村の男性ドミゴは被災後、一時屋根のない教会に避難していたが、今は少なくとも雨風をしのげるテントがあることに感謝している。 |
孤立した村に到達した最初の食糧
現地ボランティアは災害調査でマニカ州ドンベ区を訪れた。河畔の小集落であるムチャイ村は「イダイ」により河が氾濫し、全ての家屋が流されて百十九人が亡くなった。村は孤島のようになり、外部との交通は水路に頼るしかなかった。
三月三十日、村民が舟を漕いで慈済ボランティアが運んできた白米を受け取りにきた。それは被災後初めて受け取った物資だと酋長が感激した様子で話した。丸木舟に積んだ十五袋の白米は村の今後三週間分の食糧となるのだろう。
ベイラ地区での慈済最初の物資の配付活動は郊外のドンド難民キャンプで行われた。そこには百五十のテントがあり、四百世帯余り、二千九百人が避難しており、被災後二週間の間、一世帯当たり一日にすりつぶした豆二碗を支給されていただけだった。
モザンビークの現地ボランティアは前日に家庭訪問を終え、名簿も集めていた。物資配付当日、軍人が秩序維持に当たる中で、世帯の名前を読み上げて確認し、白米と青いバケツに詰めた塩、豆、油、清掃用具、浄水薬、蚊帳等を手渡した。生活物資パックは一家五人が一カ月使用できる量である。
物資の配付は午後二時過ぎに始まり、厳しい日差しの下に行われた。現地ボランティアは配付する前、バケツとコップを持って人々に水を提供した。被災地では清潔な水源が欠乏しており、ボランティアの提供する冷たい飲み水は人々をことのほか喜ばせた。我先にと水を飲む様子に人々の水への渇望が見て取れ、心が痛んだ。
|
●4月初旬、慈済が大規模な物資の配付を行い、ンハマタタンダのテント区に住む高齢者や子どものいる家庭に緊急生活物資を支給した。ラメゴ村の400世帯が笑顔で物資配付地点に集まり、受取を待っていた。 |
本を乾かす子ども、「学校に行きたい」
配付活動を終えて帰り道、ボランティアは酷く損壊した小学校を見かけた。ムジンガネにあるこのジュリアスニエレレ小学校は校舎がボロボロになり、机や椅子が木の上に引っかかっていた。大きな木が倒れ、あたり一面に屋根瓦や教科書、ノートが散らばっていた。
瓦礫の上に座っていたマリオは小学三年生で、不安な眼差しをしていた。二週間前のサイクロンで家が倒壊したので、現在は祖母と住んでおり、学校も倒壊し、机や椅子は水没したと話してくれた。
「算数が一番好き、将来は看護師になって人々を助けたい」。マリオは私たちを彼の教室へ案内し、何もない場所を指してここが自分の席だと言った。
ボランティアが学校に何をしに来たのか尋ねると、「学校に行きたいんだ。サイクロンの後は悲しいことばかり、学校が懐かしい…」と言った。
ディノフォイ師兄はそれを聞いて心を痛めていた。モザンビーク辺境の漁港に生まれた彼は子どもの頃家が貧しく、故郷の友人の最大の望みはお金を貯めて自転車を買うことだった。彼は自分が教育を受け、人生を変えることができたことに感謝していたが、目の前のこの子はどうすればよいのか。
子どもたちは大切に教科書を拾い集め、太陽の下に乾していた。学校の壁には「O Seu Futuro Melhor Comeca Aqui!(輝かしい未来はここから始まる)」というポルトガル語の標語が書かれてあった。しかし、黒板が掛けられた壁しか残っていない教室もあった。
三月末、モザンビーク国家救援センターと国連の記録によると、三千以上の教室が被災し、五万棟近くの家屋が全壊したとあった。食糧や薬以外に、被災者と子どもたちの将来にも思いを馳せなければならない。
|
●生活物資を持ち帰るンハマタタンダ村の村民を手伝う慈済ボランティア。慈済は4月末までに緊急災害支援として1万世帯に生活物資を届ける計画である。 |
(慈済月刊六三〇期より)
|