プロフィール:1954年生まれ。1995年慈済委員の認証。
訪問ケア経歴:25年
訪問ケアの秘訣:家庭訪問はまた、社会の悲劇を防ぐことを願うことでもある。私たちが全力を尽くして、それでも起こってしまったなら、それは因縁というほかない。もし全力を尽くさなかったなら、きっと後悔する。
海を臨む台中市清水区、夏には湿った海風が吹き寄せ、冬には東北の季節風が肌を刺す。人が住むのに適した町ではなさそうだが、しかし土地は肥沃で水質も良く、清朝の時代から開墾が行われ、米の集散地となり商業も発展、日本統治時代には相当な賑わいを見せた。
しかし都市の発展とともに清水区の繁栄は衰え、農業を主とする田舎町となった。一九五四年、この町に一人の女の赤ちゃんが生まれた。家族は女の子が大人しく、人と争わず平和に育ってほしいと願い、密と名づけた。
長女だった楊密は、子どもの頃から物分りがよく、小学校を卒業する時には成績優秀だったため、クラス担任の教師から中学校を受験するよう強く勧められた。しかし彼女は父親が自分の学費のために苦労するのを見るに忍びなく、教師の勧めに従って受験に行くには行ったが、しかし考えはすでに決まっていた。「帰って来ると父にやはり中学には行かない、と言いました。言い終わってふり向くと、涙がこぼれてしまいましたけどね」
楊密は進学をあきらめ、家計を助けるため、台北の親戚の経営するパン屋で働き始めた。近くに学校があったため、パン屋は大変に繁盛しており、彼女はレジ打ちのほか、コーヒーを淹れたり、コップを洗ったりと、眼が回るほど忙しかった。しかし人生の不公平も目の当たりにすることになった。裕福な家庭の子どもの朝ごはんはサンドイッチにコーヒー、一方貧困家庭の子どもは、一つ一元の食パンで三度の食事に当てていた。「将来もし余裕ができたら、きっと助けを必要としている人を助けよう」、彼女はよくこんな風に考えた。
販売業で活躍
パン屋に勤めていた六年間、楊密は祝日や病気で熱のある時でさえほとんど休まず懸命に働いた。給料は安定していたものの、しかし彼女はよく、「私の人生ってこんなものでしかないのかしら」と自問した。自分の人生のさらなる可能性を見つけ出したいと、楊密はパン屋を辞め、友人の紹介で当時台湾に一つしかなかったスーパーマーケットに就職した。
「当時仕事を探すには保証人が必要でしたので、以前働いていたパン屋のメーカーに保証人になってもらいました」。望みどおり職を得ると、楊密は着実に基礎から学んでいった。すると一カ月後、思いがけずオーナーから幹部になってほしいとの申し出があった。小学校しか出ておらず、会計を学んだこともなければ事務もできなかった楊密は、驚いて、「無理です。私はまだ何もできません」と断った。しかしオーナーはそれでも人事異動を言い渡した。楊密は否も応もなく、ルームメイトにソロバン、記帳を習い、商品名を覚えやすいようにと英語を丸暗記した。
故郷の弟は師範学校と台北工専の推薦入学の資格を獲得したが、父が生活費を節約でき、また安定した教職につけるという理由から師範学校に進むよう望んだのに対し、弟の興味は工科に向いていた。楊密は自分が進学をあきらめた当時の心情を思い出し、家族と相談して、自分が生活費を負担して弟を台北で就学させることにした。このため楊密は、弟が台北工専を卒業するまでスーパーに勤め続け、弟が卒業すると退社して台中へ戻った。
十四歳で故郷を離れた楊密が、再び清水区に戻ってきた時には二十四歳になっていた。彼女はすぐにデパートの専門店での仕事を見つけたが、台北の元の雇用主が、勤務態度の真面目な彼女に戻って来てほしいと何度も清水までやって来た。一方新しい雇用主は、こんなに良い従業員に逃げられては大変だと、新店舗を開設して楊密にその管理を任せた。
新婚時代、心は茫然
生活のためあくせく働いていた楊密は、自分の結婚のことなど考えたことはなかった。台北で働いている時、始終誰かに言い寄られたり、誰かを紹介されたりしたが、彼女は全部断ってしまった。ただ小学校時代の同級生の卓清龍だけが、どこで彼女の足跡を探り出したのか知らないが、たびたび台北にやって来ては遊びに誘い、楊密が清水に戻ってからは、その誘いは一層頻繁になった。
「私は一度も誘いに応じたことはありませんでした。ただ一度だけ、彼がもう家の前まで来ていて、このままずっと待たれても困ると思って、一緒に夕食に行っただけなんです。でもその後、父にどんなに説明しても、卓清龍と正式に交際していると思われてしまいました。保守的な時代でしたから、噂はとっくに隣近所にも知れ渡ってしまいました」。楊密はこう話す。
卓家の家族が来て縁談を申し込み、二人はこうして結婚した。結婚後楊密は仕事を辞め、病気がちの姑の面倒を見た。大人しい彼女はよく家の中でミシンを踏んで内職をし、いくばくかの生活費を稼いだ。
楊密が大家族の生活に慣れる前から、夫はよく友人と飲み歩き、酔っ払って帰って来るのは真夜中だった。「どんなに理由を聞いても、夫は答えないんです」。楊密は悩みを打ち明けられる人もなく、誰かに答えを教えてほしいと身重の体であちこち占いに行った。「一体私のどこがいけないのでしょうか」、こう問いかけても得られる答えはいつも「不運」というものだった。
心の重しが外れず、妊娠後期、体重が四十八キロにまで減った。実家の父はそんな娘の様子に心を痛め、彼ら夫婦に夫の実家を離れ、生活環境を変えたほうがよいとアドバイスした。楊密は姑を新家庭に引き取り面倒を見、生活はようやく安定し始めた。
倹約して良いことをする
ある日、楊密は新聞で慈済功徳会の記事を読んだ。創始者の法師は彼女と同じ清水区出身、慈善事業に挺身しているという。彼女が夫に自分たちも寄付をして人助けをできないかと尋ねると、夫は「自分たちも満足に食べられていないのに、他人のことなど構っていられないよ」と答えた。
しかし楊密は、多少倹約すれば、自分たちの生活はまだ何とかなる、倹約したお金で人助けができる、と思った。そこで彼女は電話で慈済とコンタクトを取り、こうして慈済ボランティアが毎月寄付を集めに来るようになった。
当時、末っ子が小学生で、楊密は何人かの保護者とママさんボランティアチームを組み、学校でのボランティア活動を行った。保護者たちは楊密が「慈済」について話すのを聞くと、やはり人助けの善心が起こり、楊密と共に毎月寄付するようになった。
やがて楊密は、寄付金を集めに来ていた慈済委員から一冊の募金ノートを渡され、正式に募金を担当するようになった。その後まもなく家庭訪問にも参加するようになり、台中のベテランボランティア張雲蘭と一緒に、貧困家庭をあちこち訪ね回り、最も遠いところでは雲林まで行ったこともある。
貧困家庭訪問のボランティアの誘いを、楊密は一度も断ったことがない。公共交通機関を利用して集合地点の豊原まで行き、帰りも自分で公共交通機関で帰って来た。一九九五年、四十一歳の彼女は、慈済委員の認証を受けた。
家庭訪問と学校でのママさんボランティアを続けることで、楊密は助けを必要としている人への敏感な感覚が養われ、たびたび学校で配慮の必要な子どもを見つけ出した。ある時、朝ご飯を食べている一人の子どもの顔色が優れないのを見かけ、事情を尋ね、その子が困難な状況にあるひとり親家庭の子どもであることを知り、すぐに学校の教師に連絡して家庭訪問してもらった。
楊密が家に帰り、夫にこのことを話すと、不意に夫は泣き出し、「昔、僕にも君のような母親がそばにいたなら、辛いことを全部心に溜め込むこともなかったのに」と言った。
当時結婚してすでに十年がたっていたが、初めて夫の心のしこりについて知ったと楊密は言う。実はかつて、何の原因からか、舅が夫に対しかんしゃくを起こし、天秤棒で打ち据え、夫が鶏小屋に逃げ隠れても追いかけて来て打ち続けたことがあった。病弱だった姑も夫を守ることができず、これをきっかけに夫は心の扉を閉ざし、二度と自分の思いを口に出すことはなくなったのだ。
別れの苦しみ、共感する心
だんだんと夫の卓清龍は楊密がボランティアをするのに賛成するようになった。ある時、夫婦で子どもを連れて委員交流会に参加した際、證厳上人がこう開示した。「血の通った私たちが、どうして四柱推命などに縛られなければならないのですか」
それを聞いて楊密は、自分が背負ってきた「不運」という重荷に思い至り、涙があふれた。車に乗るや彼女はすぐ夫にこう言った。「今日で重荷は捨ててしまうわ。これまで背負ってきて本当に疲れた」
二〇〇九年、楊密は夫の歩く姿勢に異変があることに気づいた。どこか悪いのかと尋ねたが、どこも悪くないという答えだった。その後のある晩、楊密が子どもたちと居間でくつろいでいると、夫が下りて来て動悸がして気分が悪い、と言い出した。楊密が夫を救急センターに連れて行くと、MRIで脳腫瘍が見つかった。
入院して検査すると、肺腺がんが脳に転移したものだと判明し、医師は余命約半年と告げた。当時楊密は既に長年家庭訪問に携わっており、過去の経験から病人の心を安定させてこそスムーズに治療ができることを知っていた。そこで彼女は長い時間をかけて夫の恐怖心を静め、良い心を持ってこそ手術がうまくいく、と励ました。夫も徐々に以前の荒っぽい性格が直り、心静かに療養するようになった。
「その後、夫は自分から医師や看護師のケアに感謝するため、謝恩会を開きたいと言い出しました。夫は謝恩会の日取りを六月六日に決め、自分の生前告別式も兼ねることにしました」。卓清龍はこのイベントの打ち合わせにすべて参加したが、謝恩会の直前、楊密に家に帰りたいと言った。
「別れの時が来たのだと分かりましたが、心はやはり痛みました」。楊密は夫の心を乱したくなかったので、たびたび車の中で隠れて泣いた。三日後、卓清龍は眠るように安らかにこの世を去り、献体をするという大願も果たした。
夫の死後、楊密は夫の心の安らぎを願った当時の思いを忘れず、引き続き何人もの死期の迫った患者に寄り添った。患者が安らかに逝くのに寄り添ってこそ、家族もその後の日々を安らかに過ごせることを彼女は知っていた。
Q&A 社会の悲劇を防ぐ
◎口述・楊密 整理・邱如蓮
問:人助けをする時には、どうしてもその人がより良くなってほしいと願ってしまいます。何か良い方法がありますか。
答:家庭訪問をする時には因縁を考えなければなりませんし、それぞれにふさわしい導き方も考えなければなりません。万能の方法などなく、すぐに成果が現れることを期待してもいけません。時間をかけて相手の性格や来歴を理解してこそ、その人の状況に応じて導くことができるのです。また私たち自身も正しい方向を見極め、よく考えてから行動するようにしなくてはなりません。
阿軍は小学校の頃から盗みを繰り返し、たびたび警察に補導されていました。警察から連絡があるたび、私が身元保証人となって引き取りました。阿軍は実は不幸な子なのです。小さい頃から父の同居人から、その人の手が習慣性脱臼になるほどのひどい暴力を受けていました。しまいには阿軍は、誰かがそばに近寄るだけで、反射的に身構えるようになってしまいました。
阿軍との付き合いは何年にもなります。彼が家に帰ってこないので、辺りを探し回ったこともあります。その時あの子は「おばさん、すごいねぇ。僕がどこに隠れても、見つけ出すんだね」なんて言いました。阿軍はその後も何度も補導されたので、最後に私は言いました。「もし私と約束したことを守れないなら、おばさんはもう助けに来ないからね」。そして阿軍が再度補導された時、私は心を鬼にして、彼を引き取りませんでした。
本当に少年院に入れられると知って、警察に連れられて出てきた彼は泣きじゃくっていました。私は警察の人に少し彼と話をさせてほしいと言い、彼にこう言いました。「安心して中で勉強しなさい。おばさんは約束は守ります。きっと面会に行きますよ」。阿軍は誠正高校(矯正学校)で学ぶことになり、何はともあれ規律ある生活を送るようになりました。私と会う時、私が抱きしめようとするのを嫌がらなくなったのも、大きな進歩です。
私は一つ一つの決定をする前、先によく考えてから行動に移すようにしています。心が「定」まってこそ、慈悲心が同情に引っ張られてしまうこともありません。上人がよくおっしゃるように、慈悲には智慧が必要で、互いに補い合ってこそ本当に相手を助けられるのです。
問:苦しみには色々なものがあります。心理上、身体上の苦しみで、支援によって困難な状況を脱することができるものもありますが、解決できない病苦もあります。重病患者の家族をどのように支援すればよいでしょうか?
答:家族に病人がいた場合、苦しいのは病人だけでなく、家族もまた苦しいのです。私たちは家族に慈済という後ろ盾のあることを知らせ、家族が安心して病人に付き添えるよう支援します。
美君は卒業して働き出したばかりの時、ひき逃げ交通事故に遭い、遷延性意識障害を起こしました。美君の母親は娘にずっと付き添うため、ビーチチェアを病床のそばに持って来て寝ていました。年月が重なると腰や背に負担がかかり、背も曲がってしまいました。それに気づくと私たちは、お母さんが多少でもよく休めるよう、すぐに折り畳みベッドを持って行きました。
時には王佳玲師姉を誘って一緒に家庭訪問を行うこともあります。彼女は看護師の資格があり、看護上のより良い知識を提供できますし、患者家族が自信を持つことにもつながります。
遷延性意識障害の患者はただ身体が動かないだけ、心は正常なのだと私は思います。言葉に出すことはできなくても、美君も両親を心配しているはずです。「慈済人がやって来ましたよ。家のことは私たちがお手伝いしますから、心配いりませんよ」、私はよく彼女の耳元でそっとこうささやきます。彼女がこの社会の温もりを感じてくれればとも願っています。
|