除夜の早朝三時五十七分、静思精舎では拍子木を叩いて朝の礼拝の準備をしていた。ちょうどその時、台湾南部ではマグニチュード六・四の激しい地震が発生して、轟音と共にビルが崩壊し、百人以上がセメントの塊の中に閉じ込められた。楽しいはずの新春の団欒は瞬時にしてうち砕かれ、台湾は驚愕と沈痛な雰囲気に包まれ、四方から救援の人たちが続々と被災地へ集まった。
家族は身内の安否を気遣い焦慮の色を隠せず、救出に期待をかけ奇跡を願う心は潰れそうになっていた。時が流れるにしたがって犠牲者の数は増え、多くの人が辛いショックを受けていた。
證厳上人は沈痛な思いを隠せずに、「待ち焦がれている人たちは最も辛いものです。家族は瓦礫を掘ってできた空洞に一筋の期待をかけていますが、できることをすべてやっても救出できず、希望が薄れてもあきらめられないでしょう。信仰によって人は自由闊達な人生観を得られますが、当事者にとっては口で言うほど簡単なことではありません。仏法はこんな時無用ではありませんが、救援とは言葉ではなく、それは無縁大慈、同体大悲を体現した実際の行動です」と言われた。
当日の早朝四時から台南では、慈済ボランティアの動員を開始していた。彼らはまず温かい食事を提供した後、負傷者を見舞って、見舞金、生活必需品、毛布、福慧ベッド(多機能折畳式ベッド)、防寒用品を配付した。あるボランティアは被災地に入って救助隊員を労い、救助を待つ家族に温かく寄り添っていた。
慈済はただちに台湾各地から物資を調達し、またボランティアを百余りのルートに分けて、修繕に必要な物を提供していた。地震発生後の一週間は急難援助を行い、慈済は延べ一万人以上のボランティアを動員した。学校が始業する一日前にあたり、さらに被災地を片づける救援が必要だった。最も重大な損害を受けた玉井小学校に協力し、地域の学校と地域の人たちに長期にわたる支援も準備した。
支援に来ていた多くの民間団体には、非営利組織、専門のソーシャルワーカー、カウンセラーの人たちが交代で奉仕にきていた。炊事係では、飲食店を開いている人たちが食事を作り、農家は野菜を提供し、震災の苦しみを体験したことのあるミャンマーの僧侶はお経を唱えて死者の冥福を祈り、日本の人たちも街頭募金をして支援してくれた。そして寒空をものともせず、あまたの人たちは、連休を返上して救援にきていた。
慈済が催した「祈福会」には「同体大悲」の至誠があふれていた。ある消防隊員は「あらゆる方法と力を尽くしていました。しかし救いを求めている声が聞こえても発見できず、救えられなった時はどうすればいいのか分からずに心が苦しかった」と目を赤くして言った。しとしとと降る雨にも会場を離れる人はいなかった。
私たちの社会はもともとが互いに助け合う社会である。受難の人は優しいいたわりを得られる。余分に持っている物資は乏しい方に流れる。国土がいかにもろく危くても、柔軟な愛といたわりはそれを超越することができる。
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