自分一人では力不足だと思わず
尽力して奉仕し
他人にも奉仕を勧めることである
人々の善の力が合わされば
艱難なこの世に
平坦な道を敷くことができる
今年の四月三十日は、旧暦の三月二十四日にあたり、慈済が創立してから満五十年目になります。そして五月一日から、新たに五十一年目に向かって邁進してまいります。世界中にいる慈済人は、一団また一団と静思精舎へ帰ってきて、隊伍を組み、念仏を唱えながら三歩歩いて跪き一礼する荘厳な朝山(お参り)をしています。たとえ風雨の中であっても慇懃に一歩一歩、精舎まで天下の平安を祈りながら前進しています。
五十年来慈済人は、清浄と真心をもって奉仕してきました。艱難な試練にあっても堅い菩薩の情を抱いて、愛を広く世界に及ぼしてきました。
今の世の中に目を向けると、天災が頻繁に起こっており、仏陀の言われた「この世は無常、国土は脆く危うい」が実証されています。私たちはさらに口では良い話を、身では良いことを行い、心では良いことを思って、天地間に善の循環ができるように発心立願することです。
人の心は大地の生態に影響します。人心の調和とは、人と人との間で互いに信じ融合し、愛の倫理道徳を建立して励まし合うことです。そうであってこそ社会は平和になり、天地間の気候が順調になれば災難が少なくなります。
煩悩に覆われると
無明は重くなる
酔いと愚昧に
真実は見極められない
迷いの人生は無量の業を造る
《法華経.五百弟子受記品》の中に記載されている五百比丘受記後に、以前に仏法を信じていても、完全に仏心を体得できなかったことに懺悔し、ただ己の生死のみを思い、信心、気力と勇気がなかったため、衆生に済度することができなかったとあります。
「例えばある人が、親友の家で酔いつぶれ寝てしまった時、親友は官職があって出かけなければならないので、価値のある宝石を寝ている親友の懐に入れて出かけました。酔いから覚めるとそんなことも知らずに出かけ、他国へたどり着きましたが、衣食のため非常な努力をしていても、所得は少なく生活するに足りませんでした」
五百比丘の中で例えていることとは、貧しい人が親友の家へ行って酔いつぶれ、親友は落ちぶれた友を見て、その懐に宝石を入れました。この宝石は貧しい人にとって使い果たせないほど貴重な物ですが、彼は露知らず、貧しい流浪の生活を続けていました。
仏教はこの例えをもって、善とはただ自分だけの善であってはならないと教えているのです。心、仏、衆生の三つに区別はありません。人々の身にはみな貴い宝、すなわち真如の宝が具わっているということです。しかしながら重ね重ねの煩悩に覆われていると、悟ることができずに、無明の酒に酔い潰れ、夢遊病のように生涯をぼんやりと過ごしてしまいます。酔い潰れた人生は真偽が見分けられず、酒、色、財、気、名利、地位を最も重要視し、絶えず追い求めて身、口、意の業を造ってしまいます。
古より人類は山を掘っては鉱石を採掘し、加工して高価な宝石とします。宝石は人に虚栄心、身分を見せびらかし、その心は空虚な満足感に過ぎません。心の中に貪、瞋、意が常にあると自在になれず、五里霧中の中で業を造ってしまいます。
人生でもしも自分の身だけ考えていると、どんなに多くの物を持っていても満足できず永遠に追い求めることは辛いものです。短い人生においては、広い愛の心をもって、大願を立てて人々に奉仕すると、無量の法悦が得られ、心霊は永遠に満たされます。
仏陀の《四十二章経》の中で「賭人施道、助之歓喜、得福甚大」とあります。弟子が「この福は尽きますか?」と聞きました。そして、「また他人に善行を勧めたら自分の功徳は少なくなりますか?」と。仏陀はそれを蝋燭に喩えて、一本の蝋燭で千本もの蝋燭に次々に点火しても自分の蝋燭の光りは矢張り明るいものだと説明されました。
布施や法を伝える福の報いもこの通りで、仏法を信じる者だけがその懐にある宝珠でその身を照らすのでなく、そのあかりは暗闇の隅々まで照らさなければなりません。人々が法の明理を得て、互いに照らし合うと、この世に大きな光りを放つことができます。
人には奉仕の能力が具わっています。「私にはそんな力などないのに、どうして人の手助けができるの?」と思わずに、持っている力で奉仕し、さらに他人に奉仕を勧めるのです。人々の善の力を集めて、苦難の世に菩提の大愛、悟りの道を敷きましょう。そうすれば福徳は無量無辺に得られます。
無常の人生の中で夢幻は泡の如く
露の如き電の如く雲煙と散りゆく
その身は所有権はなく使用権のみ
仏典の中にあるお話です。
ある国の王が可愛い王女のために美しい花園を造りました。王女は高台に立って花園を眺めている時、水の流れに太陽があたって七色の美しい水玉になっているのを見て大変喜んで、父王にあの美しい玉が欲しいとねだりました。
王はそんなことはできないと知りながらも、可愛い娘のために、七日以内に七色の水玉を取ってくるように命令しました。大臣はお触れを出し、七色の水玉を取る人を募りました。
あるよそからきた賢者が、人々ができもしないお触れに悩んでいるのを見て、私が王女の要求を叶えてあげましょうと言いました。そして王宮へ行って王女に網を差し上げ、ご自分で一番美しいと思う水玉を掬い上げるようお勧めしました。賢者は「水は高い所から流れる時に七色の泡を形成します。もしも王女様が、これが水か玉か分かりましたら、私も取ることができます」
王女は網で水玉を掬い上げますがすぐに壊れました。何度も掬っているうち、水ということが分かりました。賢者は「人生も絶えず流れる水が水玉を形成するように、幻と化す無常なものです」と言いました。
王女はそれを聞いて悟り、それから賢者を師と仰いで、後に国を司る賢明な王女になりました。
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人生は露か電気のように真であるかどうかと思う必要はありません。世の中のすべてのことは目の前から過ぎ去ると雲か煙と消え、自分の体さえもただ使用権があるのみで所有権はありません。人生の中では自分の一念をよく護ることです。もしも迷えば、酒に酔ったように是非も見分けられずに悪業を造って不安な人生を送ることになります。
一念の偏りは、この世に禍をもたらします。一念が善に向くとこの世に造福しますから度量を大きく持って、是非の分別を明らかにし、正しいことは真面目にやればいいのです。
慈悲心を以て
万物をいたわり惜しみ
善念を啓発して
善の力を発揮し
大愛を広く広げて
造福を無量に
この四月、世界のあちこちで地震が頻繁に発生しました。ミャンマーに次いでアフガニスタンの後、環太平洋地域では日本、エクアドルとトンガ王国で続けざまに地震が発生していました。中でも日本の熊本と南米のエクアドルは浅層地震で深刻な災害でした。
頻繁に伝わってくる強い地震の消息に心配させられます。しかし心配しても何の役にも立たず、懺悔が必要です。人類の無明によって土地が絶えず開発のために破壊され、地球は傷つき、さらに地質を脆弱にさせ振動に耐えられなくなっています。その大地をいたわり護らねばなりません。
慈済は二十年前から環境保全を推進してきました。歳月は人々を老いに押しやり、多くのボランティアは中年から老年に至っても、無私の愛を以て大地が平安になるよう守っています。老いにしたがって身体の退化は免れられませんが、たとえ腰が曲がっても、資源を再利用しわずかでも大地を破壊から守ろうという単純な心を堅持しています。
極端な変遷気候は人類の生存を威嚇しています。科学者は二○二五年、すなわち九年後には、世界の八十億人口の中、十八億の人が水不足の危機に襲われると予測しています。
今年猛威をふるったエルニーニョ現象で、いくつかの国々が干ばつのため食糧不足で生存危機に陥り、アフリカのマダガスカルでは百十四万人が飢餓の苦しみに遭っています。
私たちは幸いにも豊かな国で安定した生活を送っていますが、古人が「晴天には雨天に備えて食糧を蓄える」と言っているように、福を大切にして大地の資源を守らねばなりません。
昨年の七月から八月にかけてミャンマーで水害が発生し、収穫前の稲が水に流されてしまいました。この人たちは種籾を他人から借りて田植えをし、収穫した後に返すということでした。ですが、この災難で返すことができなくなったばかりか、日々食するお米にも事欠き、さらに今度の種籾はどうなるのでしょう?
貧農たちの災難を救うため、ミャンマーの慈済ボランティアは種籾の配付を始めました。予定では五月までに一万人の農民に行き渡ります。配付の時慈済人は農民たちの中に入って「善の種をまきましょう」と愛の心を啓発していました。
ヤンゴンのタイチー郡、レーナーゴン村の農民、ウ・ゼン・ディンは昨年慈済から種をもらった時、慈済の「竹筒歳月」の縁起とは、小銭を集めて大善を行っていることを知りました。そして五十年来慈善の足跡は九十あまりの国々に及んでいることも。彼はその精神を学ぶことに決めて、毎食のご飯を炊く時、一握りの米を甕に入れて「貯金」し、貧しい人を助けています。
ウ・ゼン・ディンは慈済のボランティアになる志を立て、訓練に参加して暇があると家々に「米貯金」を奨励しています。戸も家具もない貧しい夫婦は日雇い暮らしですが、ウ・ゼン・ディンから竹筒をもらって、自分より貧しい人を助けたいと言いました。
「一粒の米も一籠に、一滴の水が大河になる」。この例えの通り、一回目の 「米貯金」では九十六キロの米が集まり、百五十六人に一日の必要量を提供することができました。
これが愛のエネルギーです。この愛の力は、助けを受ける人から言えば社会大衆の関心を得て苦痛が和らぎましたが、助ける側の人は、心に愛が満ちて豊かになり、煩悩も少なくなって無量の法悦が得られたと言います。
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《出曜経》に記載されている仏陀が摩竭陀国におられた時のお話しです‘
猟師たちが森の中で罠をしかけていました。ある日一匹の鹿が罠にかかり、猟師たちは遠くから聞こえてくる鳴き声を聞いて、争って罠にかかった鹿を探しました。しかし、あまりにも多く罠をしかけたため、自分たちがはまって、鹿を探せられないばかりか命を落とす者や重傷を負う者が出ました。
一人の猟師は傷の痛みをこらえ精舎へ行って、仏にこれから一切衆生を殺傷しませんと懺悔をしました。仏の偈語は「猶如自造箭、還自傷其身。内箭亦如是、愛箭傷衆生。(自分の造った箭で自分を傷つけ、内なる箭もまたは衆生に傷を負わせる)」とあります。
人生の苦難は、自分の心の貪瞋痴によります。欲念はこの箭のように、自分が造った落とし穴にはまって、衆生を傷つけるだけでなく自分も傷つくということです。
ただ自分だけの利益を求めていると、落とし穴に踏み込むことは免れられません。無明の流転は真夜中の暗闇のように前方がはっきりと見えず、知らず知らずのうちに深く沈み込んで、実に危険です。
平和で穏やかな社会は人心の浄化によります。しかし人心の浄化を口で言うのは容易なことでしょうか。仏陀は《法華経》の中で人々は、自分だけの独善を行うのでなく、人々の中に入って愛を発揮するよう励まされております。
皆さんが発心立願し、広い心で愛を以て、厳しいこの世に平らな道に敷くように願い、また精進を期待しています。
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