慈濟傳播人文志業基金會
環境移民を支援する
靖遠県雙龍郷は遠く離れた辺鄙な村で、一組の夫婦が洞窟に住んでいるが、この村には3世帯が洞窟に住んでいる。洞窟は冬は暖かく夏は涼しいが、わずかな畑の収穫では食べて行けず、ほとんどの人は山を下りている。

 

 

黄河上流が流れる甘肅省。前世紀にはこの黄土の地は豊かな水草に覆われ、誰もが安泰した生活を送っていた。しかし、気候異常が日増しに深刻になり、住民は農耕で収穫を得ることができなくなった。地質が特異な上に土砂が大量に流され、農民は砂嵐と干ばつに抵抗できず、何世代にも渡って貧しいままである。環境の悪化は想像を超えるもので、春の砂嵐は砂塵を遠く千キロ離れた台湾にまで飛ばす。

多くの慈善団体が甘肅省の住民と共に干ばつに対抗してきた。慈済は十八年間、貯水槽の建設から生態系の保護、そして村単位での移転を支援してきた。住民は水のない生活の苦しみを経験してきたが、痛みを忍んで故郷を離れた。山を封鎖して植樹し、大地に休息を与えて故郷を蘇らせようとしている。

 

水は素晴しいものであると

同時に怖いもの

 

世界銀行元副総裁イスマイル・セラジェルディンは一九九五年にこう語っている。二十世紀は石油が戦争の原因になったが、二十一世紀は水が戦争の原因になるだろう、と。人間は石油がなくても生存はできるかもしれないが、食糧を生産する水がなければ、生存は容易ではなく、これが黄土高原の人々が直面している問題である。

甘肅省の四分の一が黄土高原で、甘肅省蘭州市から車で二時間もかかる靖遠県は、黄河流域を除けばほとんどが黄土の高原で、海抜千メートルから三千メートルの高さにある。何千何万という溝が形成されているが、年間の平均降雨量はわずか二百四十ミリで、蒸発量は千三百ミリに達する。台湾の年間平均降雨量二千五百ミリと比較すると、わずか十分の一にも満たない。

黄土高原は世界で最も土壌流出の激しい場所で、生態環境も最も脆弱である。ここを流れる黄河は世界で最も土砂を多く含む河川になり、年間平均して十六億トンもの土砂を運ぶ。上流の透き通った水はここを通ると、その名の通り黄河になってしまう。これほどひどく土砂が流出する主因はやはり地質の特性であるが、その上これまで規制されてこなかった開墾や伐採のせいで、このゴビ砂漠から飛んできた砂は植物の覆いをなくしてしまった。

砂浜に水を流す様子を想像してみると分かるが、砂には簡単に水が流れる経路ができ、一滴もなくなるまで水は砂に沁み込んでしまう。これが黄土高原の状態で、やっと農民が望む雨が降っても、水はあっという間に地面から消えてしまう。雨脚が激しい時は、水は鋭い剣のように一気に斜面を切り裂いて流れ落ち、何万もの溝のある風景を作り出す。

「水を思い、語り、呼び、夢に見る」ことは農民一人ひとりの心からの願いだが、雨が降ったら、素早く谷から逃げるか、高所に向かって上り、雨が止んでから谷に戻ったらよい、と現地の人は注意するようにしている。それはこれまでに何回も不幸な事故が起きているからで、人も車も土砂に埋まって行方不明になるからだ。ある日、雙龍郷に行く途中、深い谷のような溝を目にした。そこはかつて村と村を結ぶ道路だったとは信じ難かったが、雨水はここでは諸刃の剣になることを否が応でも信じないわけにはいかなかった。

 

貯水で干ばつに対抗し

村を移転する

 

一九九八年、慈済基金会は中華慈善総会の提案に基づき、初めて甘肅省を視察した。ボランティアとして参加した張文郎によると、当時、王端正副総執行長、莊振基、鄒永升、許秀綿、林櫻琴ら六人と甘肅へ一週間視察した時、通渭縣と會寧県の住民から、一生に三回しか風呂に入らないことを聞いた。生まれた時、結婚する時、死んだ時である。一同は大きなショックを受けると共に、それほど水に不足している所があるのだろうかと思った。

生活のため、各家庭からは少なくとも一人が数時間かけて水を汲みに行かなければならない。そして、干ばつがひどくなるにつれ、湧き水はどんどん少なくなり、より遠くへ行かなければならなくなった。しかし、貯水槽を作るには六百元もかかり、村人には負担しきれなかった。

視察団が帰国して報告した後、貯水槽の支援建設を開始した。證厳法師は現地の状況を尊重すると共に、品質を重視するよう指示した。そこで、チームは始めから伝統的な土の水槽を除外し、コンクリート製の水槽を考慮した。菱型、楕円形、花瓶型、球状など数種類の水槽から施工の難易度や適応性、効率などを考え、結果的に球状に決定した。

一つの貯水槽を作るのに一万六千円ほどかかるが、貧しい農民が水を汲む運命から抜け出させることができるのだ。この十一年間に慈済は甘肅省の六つの県で、合計一万九千個余りの貯水槽を建設した。

靖遠県は一九九一年から六年続けて大干ばつに見舞われ、年を追う毎に雨が少なくなり、山の上の住民は生存するための水にも事欠くようになった。靖遠県政府は慈済プロジェクトオフィスを設け、水利局からも専門人員が駐在し、慈済が靖遠県で進める抗干ばつ計画と慈善活動を支援した。

「貯水槽ができても、雨が降らなければ徒労に終わってしまいます」と慈済プロジェクトオフィスの顧秉柏が言った。この十年間、干ばつは日増しにひどくなり、貯水槽はかつて山の上の住民の水の問題を解決したが、気候の変動が激しくなるにつれ、町でも干ばつの影響を感じ取るようになった。

政府は「黄河灌漑工事」を進めている。それはポンプとパイプ式用水路で黄河の水を海抜の低い高原地帯に送り、農業用と生活用に提供する計画である。高海抜に住む農民で、経済力のある人は既に下山して新興農業地区で生活している。残ったのは極度に貧しい人や障害者で、政府の救済に頼るしかないが、根本的な解決にはならず、村を移転するしか残された道はない。

何度も討論した結果、慈済は劉川郷来窯村を第一期の移転村に選定し、二〇〇八年三月に村の建設が始まった。海抜二千メートル以上の若笠郷山間の二百十世帯の貧困者は山を下り、その時から新しい生活が始まった。

一回目の成功事例に基づき、慈済と靖遠県政府は二〇一三年に第二期の移転計画を打ち出した。二〇一五年九月に工事が完了し、三百世帯が五合郷白塔慈済村で新年を迎えると共に新たな人生を歩み出した。

 

天気に左右される人生

 

今年一月七日、台湾、青海、重慶、四川、陝西などから六十数人の慈済ボランティアが靖遠県東升郷に到着し、現地ボランティアや新住民と共に三百九十五世帯を対象に、冬季の物資配付活動を行った。

東升郷は慈済が靖遠県で冬季配付活動を行った八カ所目の町である。二〇一一年の双龍郷、石門郷に始まり、続いて若笠郷、大蘆郷、高湾郷、五合郷、靖安郷,そして今年の東升郷の合計で約七千世帯、二万四千人に物資の配付を行ってきた。

慈済プロジェクトオフィスの王益主任はこう語った。靖遠県の人口は約四十八万人で、農業人口は四十二万人である。そのうちの十四万人は天気に左右される山上での生活をしており、長年の努力を経てもいまだに七万人が極貧の生活を送っている。

東升村自治会の包偉主任によると、東升村から三十人余りが下山して物資を受け取りに行ったが、全て「五保戸」といわれる生活保護者や障害者、または病気で貧しい家庭である。彼は慈済が絶えず支援に来てくれることにとても感謝している。村で貯水槽を建設してくれたほか、貧困家庭の子供に学習用品や綿の上着、肌着、布団、生活用品、米などを支給してくれたため、村人が安心して厳しい冬を越すことができたと話す。

私とカメラマンは冬季配付活動の隊列に随行して東升郷の村人を訪問した。一時間近く車に揺られ、馱西村に着いた。そこはまるで廃墟のように薄暗く、崩れかけた土塀や錠が掛った扉など、大部分の人は既に引っ越していて、数戸だけが村に留まっていた。

そこの土は今でも鮮明に覚えている。歩く時、軽く足を下ろしても、砂がいっぱい舞い上がり、泥んこになった水牛が海に入るかのような恰好になってしまう。どうやって足を下ろしたらいいのか分らなかった。慈済プロジェクトオフィスの職員によれば、これは一般的な黄土高原で、黄土層がもっと厚い若笠だったらもっとひどいことになっていただろう。

 

山を封鎖して植林し、土壌を養う

 

慈済が水を溜める貯水槽を建設したり村の移転支援をしてきた期間、現地の人も生態系の保護が急務であることを意識し始めていた。

靖遠県石門郷にある哈思山脈は靖遠県唯一の自然林で、周りの住民が使用する飲料水の源でもある。そのため、政府はそこを省クラスの自然保護区に指定し、林業局も近隣地区に森林保護ステーションを設けて森林保護員を配置している。多くの人員は現地の住民で、彼らが山道に詳しいのと同時に、彼らに自然を破壊するような仕事から転職するよう促している。

そこはかつて過度の羊の放牧と害虫のために林が消滅したが、近年、農耕の廃止と山を封鎖して植林する政策が功を呈した。その効果はてきめんで、森林が既に山の半分以上を覆うようになったのだ。今は冬だが、遠く哈思山脈には松や蔦類を望むことができる。

石門郷老崖村には百五十四世帯が住んでいたが、今はわずか二世帯が残っているだけである。そのうちの王雙行は森林保護員で、早朝五時に出かけ、夕方まで帰って来ない。毎日十時間以上、山道を歩いて受け持ち地区を見回る。家には母親が一人なので、彼は日が昇る前に二往復して水を汲んで来てから、シャベルを持って出かける。彼の仕事は森林内の自然発火の撲滅以外に、牧羊者の侵入を阻止することである。春には害虫駆除の薬を携行したり、空き地に植樹をする。昨年は二万八百本の木を植える目標だった。今、はっきりした木の数は分からないが、森林はおおよそ三千三百ヘクタールほどに広がっている。

中国は一九八〇年から植樹計画を始めたが、技術と持続力が伴わず、数十年経っても変化に限りがあった。二〇〇二年になって、農耕を減らして灌漑による植林政策を始めてからやっと、功を呈するようになった。

二〇〇七年、中国全土で農耕を減らして植樹する運動を展開し、至る所で数千ヘクタールの農地が返却された。初めは十分に食べていけないのに農地を返却しなければならないことに農民の反感を買った。しかし、後で政府が補償金を出すことになり、返却した土地分だけ毎年支給されるようになった。干ばつで収穫が得られないため、農民は政府が統一運用することに同意した。

靖遠県の山間は返却する面積が毎年増え、二〇一五年の時点で一万六千六百ヘクタール余りに達した。これらの土地は地方政府が統一してサジーと漢方薬に使われるマメ科の植物、檸條を植えて砂の流出を食い止めたり、根茎で育ちやすい植物を植えた。成長した果実を売ることができると共に、根の部分は水分を保って土壌の保全に役立っている。

初めの頃、植林しても人を使って定期的に水を汲み上げていた。全県の役所がそれぞれ責任を負っていたため、よく公務員が植樹したり水やりをしたりする光景が見られた。二〇〇八年になって点滴灌漑技術を導入し、植樹する時にホースを埋め、山頂に貯水タンクを設置して、天気の乾燥状況に従って水を流すようにした。樹木の根に完全に吸収させるために、水を流す時は丸一日流すが、それで樹木の残存率が大幅に上がった。

この他、靖遠県では山を封鎖して植樹する政策も行っており、森林にする地域を鉄条網で囲み、牧羊業者の侵入を防いでいる。政府は毎年、二千万元の造林予算を出しており、職員も毎年、給料から百人民元(一人民元は約十七円)出して緑化運動を支援している。

 

環境保全意識が高まり塵が減る

 

靖遠県にはこういう川柳がある。「風が吹けば石が転がり、木の数は電柱よりも少ない。風は一年のうち春から冬まで吹き荒れる。外出時、向かい風なら、歩くのは至難の業。朝に払い落とす塵は重みを感じるほど」

春から冬まで吹き荒れる風は、黄土高原を形成した原因の一つであると共に、住民の困窮した生活の源でもある。 顧秉柏は二〇〇八年のことを覚えている。彼が劉川郷に貧困住民の調査に行った時は春で、いつも砂塵が吹き荒れていた。空から地に至るまで覆っていた黄砂は空を黄色に染め、目の前の道もはっきり見えなかった。

綿々と飛ぶ砂はあらゆる隙間に入り、夜間、扉や窓をしっかり閉めないと、目が覚めた時、口の中に砂がいっぱい入ってしまう。朝一番に扉を開ける時は注意が必要で、まず隙間を開けて手を外に出し、積もった砂を払い除けてから開けるのである。だから、家という家の門の外には着古した綿の上着を縫い合わせた布がかけられている。それは防寒に役立つと共に砂が屋内に入るのを防ぐ役割がある。

「しかし、そういう状況は次第に減ってきており、昨年、砂嵐は一、二回しかありませんでした」と顧秉柏が言った。その成果は近年、政府が大々的に推し進めてきた環境政策に帰し、靖遠県の顕著な変化に気づくことができる。今、県全体で六千六百ヘクタール以上が管理区域の森林になっている。樹木はまだ小さいが、草が生えてきている。長期的に政策を進めて行けば、山々は草に覆われるようになり、禿げた黄土ではなくなる。靖遠県が黄土高原で行ってきた成功例で近隣の県や市も実行に移しており、それによって砂塵による害が大幅に減ってきている。

黄土高原は本当に整備することによって黄土でなくなるのだろうか。その答えはすぐには分らないかもしれないが、環境保護意識の高まりと共に、少なくとも政府から民間まで、この土地を緑に変えようと努力している人々がいる。十年先、二十年先、小さい木は大木に成長し、黄土高原はもはや黄色ではなく、果てしなく緑の草原になっていることを、私たちも現地の人と同じように期待している。

NO.233