災害を少なくするためには
ただ少数の人に頼るのでなく
みなが貪念を抑えて
人助けの善念を発揮し
共に造福すること
そうすれば
平安になって災難が少なくなる
大西洋で十年来最も強力なハリケーン・マシューが十月に発生し、カリブ海の島国と米国東南海岸の五州を襲い、広範囲にわたる甚大な被害をもたらしました。中南米に位置するカリブ海に浮かぶハイチ共和国では、千人以上が死亡し、百万人以上が被災した上、コレラの発生が心配されています。
ハイチは非常に貧しい国で、一九九八年にハリケーン・ジョージに襲われた時は、慈済は四コンテナ分の衣類を送りました。二○一○年正月には強烈な地震に見舞われ、二十~三十万人が遭難した時は、緊急援助と災害復興支援を行い、現在も続いています。この度のマシュー災害が発生する二週間前に、ボランティアは今年の支援米六百トンの配付を終えたばかりでした。
配付の過程では困難を極めました。なぜなら普遍的に貧しいハイチに対して六百トンの白米は焼石に水でしかありません。慈済は弱者の中から最も弱者の人々の名簿を作成して配付し、住民には自分よりもさらに貧しい人たちを憐れむよう教えながら、配付を順調に終えていました。
ハリケーンが襲ってくる前にハイチ当局は避難勧告を出していましたが、多くの人は自分の家を守ろうと避難しなかったため、犠牲者が増えたのです。被災後、国際援助組織が空中投下した物資を人々は奪い合い、お年寄りや病人は道路が修復して救済物資が届くまで待たなくてはなりませんでした。
米国慈済ボランティアが実地調査に行って、この知らせを聞いた時は悲しい思いにさせられました。もともとのあばらやは、この強風と大雨にひとたまりもなく全壊し、絶壁のようにうず高く積まれたゴミの山は、疫病の発生源そのものです。
被災の拡大を防ぐために、米国の慈済ボランティアはただちに防寒用の毛布、浄水器とインスタントご飯を、被災地に運送しました。そして調査に基づいて「日雇い雇用」を実施して住民を環境整理に導き、衛生状態が悪化するのを防止するのに努めました。
現在ハイチではまだ数万人が家を失ったままで、世界の人々の愛を必要としています。人々が観世音菩薩の愛を発揮し、地蔵菩薩の大願力を以て被災者を助けてこそ、住民は復興の気力を取り戻して平安な日々を送ることができるのです。
大いなる心で願を立て
よい因を積むなら
よい結果が得られる
異常気象によって災難は頻発し、地球が病に侵されています。災難が少なくなるには少数の人々に頼るだけでは足りず、大勢の人が団結し造福してこそ大きな力になります。人々が警戒心を高め、調和した生活を送って、貪念を抑え、かつ人助けの善念を培うと、地球は平穏になって健康を保つことができます。
奉仕と同時に敬虔な心を持つことです。人と人との間が温かく、そして和やかな中にも愛があるのが吉祥の地です。現在アフリカの八カ国で慈済の種子が芽生えています。南アフリカ、レソト、ジンバブエ、モザンビーク、スワチラン、ポザナ、ナイビア、シエラレオネ。これらの国々は貧しく治安は悪いですが、多くの人が慈済に参加して、自分よりも貧しい人を援助しているのは容易なことではありません。
南アフリカのダーバンの黒人慈済ボランティアは三カ国を越えてナミビアへ行きました。往復すると四千七百キロ、途中では顔を洗うことさえできません。それでもこの黒人の菩薩たちは喜びに満たされ、目的地に着くと不慣れな環境でも、住民がどんなに冷淡であっても気にせず、大樹の下でボランティアとしての経験談を話し、慈済精神を説明していました。至る所が道場です。ついに地元の人々は耳を傾け、慈済の活動を理解してくれました。この魅力的な菩薩はどうやって鍛錬してきたのでしょうか?
今年の九月、三人のナミビアボランティアが南アフリカまで研修に行きました。早朝に着いて朝食を済ませると、すぐに現地のボランティアについて村人に関心を寄せ、貧民の訪問ケアや孤児への食事の提供、大愛農場の手伝い、そして早朝には法の薫りに浸って修行をしていました。彼らはここで、自力更生の方法と、貧と病の苦難の人に対しては親身になって助けてあげなければならないことを体得したのです。
ナミビアのボランティアのデフィロスが南アフリカ慈済ボランティアのリーダーの潘明水に、「心に愛があっても、物がなくて人を助けられない時はどうすればいいのですか」と尋ねました。
潘明水は、「その人を温かく抱擁し、肩をかしてあげるのが一番良い方法だよ」と答えました。南アフリカの現地ボランティア自身も一様に貧しい境遇です。それでも国を超えてスワチランで支援活動を行い、四年半で三千人以上の現地ボランティアを集めて自分より貧しい同胞の世話をしています。
デフィロスは敬虔なキリスト教徒です。日曜日に礼拝をしようと思って、教会はどこにあるのかと聞きました。同じキリスト教徒のジーテーは、愛があるなら、どこであろうとも心霊の教会で、いつどこでもお祈りができると答えました。
この若者はなるほどと思い、身につけていた聖書を取り出して話し出しました。「良い樹に悪い実はならない。悪い木には良い実はならない」と。彼はさらに慈済ボランティアが力を入れて注いだ大愛は、遠く離れたアフリカにまで届き、さらにナミビアで撒いた大愛のよい因はよい実に成熟したと言いました。国に帰った後、彼は本国でもきめ細かく大愛の種を撒くことでしょう。
この黒人の菩薩たちは、菩薩道の因はよい果実が実ることを体得し、我が身は苦しくとも苦難の所へ馳せ参じ、奉仕する決心をしています。配付の時、重たい米を肩に担いでぬかるみの山道も厭わず進みます。心の中には常に教会があり、謙虚に人に愛を啓発しています。彼らがやり遂げているのに、平安な地にいる私たちはさらに大願を立てねばなりません。
布施持戒
見返りを求めず
忍辱精進
試練にもまれ励むこと
この世にはさまざまな目に見えない苦しみがあります。生老病死、天災や人禍だけでなく無明煩悩、そしてさらに心身に受ける苦しみがあります。菩薩道を歩む上では、他人を救済するだけでなく、心霊の苦も取り除いてあげねばなりません。
何事も耐えねばならない娑婆の世界は、正に修行の道場です。菩薩法は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の「六度萬行」から離れることはできません。
見返りを求めない奉仕とは、布施、持戒のことです。苦難を済度するために、いかなる難をも忍び、苦労を恐れずに前進すること、これが忍辱であり、精進です。人からどれほど非難を受けようとも、禅定と智慧があれば万難を克服して前進することができます。
いつも災難に遭う度、ボランティアは「我が家は無事だろうか」「他人の災難は私には関係がない」とは思わず、すぐさま救助に駆けつけ、人々の苦しみが一刻も早く和らぐことを願っています。この見返りを求めない奉仕が菩薩心です。
菩薩としての精進と奉仕は、何ものにもとらわれない三輪体空でこの世を温かくしています。しかしこの菩薩としての信念は永久でしょうか? 謙虚にして堅い志を保っているでしょうか? 日常生活の中で困難にあった時、心は不動でしょうか?
凡夫の分かったようで分からない狭い心では、移り変わる環境のままに煩悩が起こると、愛は恨みになり、情が仇になります。これらが纏わりつくと、人と人との間が疎遠になってしまいます。心に恨みや仇が積もると、この世はますます重く濁って行ってしまいます。
屈強な性質は苦難のもとです。広くこの世に目を向けると、環境難民、戦争難民、さらに多いのが心理難民で、起きた無明煩悩は心の関所を通り抜けられません。
菩薩の道を歩いている時、心もまた常に菩薩の道にいなければなりません。苦難の人に奉仕するだけでなく、周りにいる人にも真心を以て注意を払うのです。衆生と善縁を結ぶと善因を造ることができます。
身体をもって
慈悲喜捨に励み
人とは誠正信実に付き合う
慈済の宗教観は「宗」が人生の主旨で、「教」は生活教育のことです。静思法脈と慈済宗門の主旨とは、内に対しては「誠正信実」に、外に対しては「慈悲喜捨」を行っています。
人との付き合いが「誠正信実」から離れてはなりません。戒律規則を守って修行するべきで、人として何事に対しても誠実で偏らず、正しい信仰をもたなくてはなりません。また「戒、定、慧」、「聞、思、修」も欠かしてはなりません。
五十三年前、私が印順導師に帰依した時、導師は「仏教のため、衆生のため」というお言葉を私に下さいました。人々が仏教を信じ仏法を以てこの世に益するよう願っておられました。そして私は導師に「信受奉行」を約束いたしました。
半世紀以来、私はいつもこの信念を堅く守り、的確な方向に向かって、因縁を把握し、衆生のために抜苦予楽をして参りました。誠正信実だけでなく、すべてを慈済のためにのみやって参りました。
五十年来、慈済の人たちが昼夜分かたず、時を惜しんで愛の道を敷いてきたことに心から感謝しています。慈済が発祥した台湾では、慈善志業が地域の至る所に浸透しています。国外の慈済人も時を把握し、国境を越えてまで衆生を救済しています。慈済の志業のすべては人の命を救い、慧命を成長させ人心を浄化するものです。
「愛の道は広く聞かれるが、道に出会うことは難しい」といいます。ですから「志を奉じて甚大な道を守る」必要があります。時は一方通行に流れるだけであり、戻ってくることはありません。一分一秒も大事にし、いつも無明や煩悩をふり切っていると、善念は絶えず増してきます。
仏法は世直しの良薬です。仏陀の教育に「諸悪をなすなかれ、衆人は善を奉行せよ」とありますように、善が少しでも増すということは、悪がその分なくなることです。自分の修養だけでなく、人々を善の道に導き共に歩いて、善の風紀を形成するのです。
人とはお互いに「誠正信実」で、「慈悲喜捨」に励むことが慈済人の生命価値観であり、また慈済宗門の家風でもあります。皆さんの精進を願っています。
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