永遠に記憶に残る二〇一四年一月十三日は、私が初めて「早朝の鐘の音と共の法の薫りに浸る」修行に参加した日です。この日の上人はお体が優れませんので五日後に出られ、お目にかかることができました。上人がオンラインで話される説法を聴いて、この機会をしっかりと把握しなければならないと思いました。
「早起きもまた修行」と上人は晨語の中で述べられています。シッダルタ王子はあらゆる苦行をされた後、菩提樹の下に正座し瞑想されていた時、夜明けの明星を見て悟られました。「夜の明星を見る」と指しているのは、空がまだ明けきらない時の、「心の光り」と「星の光り」が接触して交わった刹那間に、忽然と悟られたことです。
かりに私たちがいつも法を聴いていると、逆境に遭った時、心の中にある法を以て泥沼から脱出することができます。法は私たちにとって「明星」と言えます。
上人は、私たちも仏と同じく清らかな本性を持っていますが、衆生は累生累世において絶えず煩悩の砂塵に覆われている上に、無明の業を造って五道四世の中を流転しているとおっしゃられました。それはまるで古跡が千年またはそれ以上長い間、地底の奥深く埋蔵されて未だ発掘されていないかのようです。具わっている仏性を発掘するには、考古学者のように慎重に一層、また一層と砂を取り除かなければ仏性は現れませんと、上人はお教えになりました。
ある時、私が掃除をしていた時、塵がなかなかきれいに掃除できないので、箒を使ったらかえって塵が舞上って掃除を済ませた所まで塵だらけになりました。そんな時、雑巾で拭いたらきれいになります。
上人が「大きいミスは改めやすいが、小さいミスは容易に改められない」と言われたのは、無明の砂塵は法水で洗浄しなければならず、近眼の人が目の前の物がはっきり見えずに煩悩を生じるのと同じことです。ただし、眼鏡をかければはっきり見えます。心のぼんやりや無明も仏法で矯正しなければなりません。
私は上人の説法を聴くのが好きです。上人は仏法を分かりやすく日常生活にたとえて話されます。《法華経薬草喩品》を学ぶ時、私たちはお経を携えて一緒に野山を歩き、雲を愛で、草木叢林を知ります。この喩を通して、私たちは水が大地を潤し、法は人心を潤していることを知ります。
上人の声の説法、居並ぶ法を聴く弟子たちの後ろ姿は、さながら無声に説法です。両者が織りなす感動的な子弟の情は、私の心に深く焼きつけられています。
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