花蓮慈済病院は開業から三十年を迎えた。発展の遅れた僻地と言われていた東台湾に誕生した後、台湾全島に六カ所の医療施設を開設するまでに発展した。さらに医療ボランティアチーム「人医会」を結成し、国内外で施療活動を行っている。現地の医療関係者も人医会の活動に参画しており、台湾の医療と社会の歴史上に、数々の愛の奇跡を成し遂げてきた。
一九八六年の夏、花蓮慈済病院は七年の建設期間を経て、ついに開業した。證厳法師は、病院が立つ土地のすべて、建物や歩道に使われているレンガの一つ一つに、人々の心血が注がれていると、悲喜こもごもに言われた。仏教の師が発心した憐れみの心と願いは、無数の愛ある人々の共鳴と支援を得て、不可能を可能と化した。「菩薩はこの世にいる」ことを多くの人々が証明し、さらに後に続く多くの善なる人々を鼓舞していた。
慈済病院が建設される前の十三年間、證厳法師は全力で慈善奉仕を行っていた。自ら弱者を訪問しケアに当たる過程で、「貧しいために病気になる、病気であるために貧しくなる」という悪循環が貧困と病の原因であることを知った。そして、数人の医療関係者と慈済ボランティアの支持を得て、花蓮市仁愛街に「貧民施療所」を設立し、貧困者に対して定期的に診察や治療を行った。
当時の台湾は高度成長期で、国民の所得は急速に上昇していたが、医療など社会福祉の整備は遅れていた。政府は大型財団法人病院や私立大学の医学部など、民間資本の医療施設の創設を奨励していたが、それらもほとんど都市部に集中していた。辺境の地では小さな診療所以外に医療施設はなく、医療機器の設備がないため大きな手術は行うことができず、そうした治療が必要な患者は遠く台北まで行かなければならなかった。
法師は医療資源が民衆に均等に振り分けられていない現状に心を痛め、自ら病院を建設することを決心された。当時の台湾では、高額な保証金を納めなければ治療を受けられない仕組みだったが、保証金を納めずとも治療を受けられる病院を建設しようと決意した。貧しい患者が治療を受けられるように、また、病気のせいで一家の生活が困窮しないよう願った。
この夢のような病院建設の構想は、資金調達や土地の獲得などをめぐって様々な難関にぶち当たった。そして、それらの問題をどうにかクリアしても、今度はどのようにして僻地のイメージが強い花蓮に優秀な医療人材を招聘するか、という問題に出くわした。花蓮メノナイト病院創立院長のローランド P・ブロン氏は当時、「今の台湾の若い医師たちは、米国は近いが花蓮は遥かに遠いところだと思っている」とおっしゃっていた。しかし幸い、花蓮慈済病院と台湾大学病院の提携教育によって、医療スタッフ招集の問題は解決できた。
花蓮慈済病院設立当初から在職している人たちは、長い歳月を経て今では銀髪になっているが、法師の意思に感動し、馳せ参じた初心は未だ変わりがない。長年にわたって黙々と職場を守ってきた医師や医学生のストーリーは数えきれないほどたくさんある。その中には、慈済病院の医師が示した手本がどのようにして受け継がれているのか、また、現代社会で頻繁に起きている医療従事者の過労の問題や医療訴訟の試練の中で、どのようにして「人医」たる使命を担ってきたのか、詳細に記している。
花蓮慈済病院が設立された後、看護師専門学校と医学部が誕生し、その後には幼稚園から大学まで一貫教育を行う教育事業も展開してきた。
患者を身内のように見なして関心を寄せる医療サービスを提供し、人と人との関係を大事にし、配慮してきた。慈済人の衆生の苦を見て忍びない心ゆえである。
綿々と続いてきた慈済の慈善事業は五十年、医療事業は三十年を迎えた。この間、無数のボランティアが感謝の心を抱いて参加している。互いに悔いなく真心で接し、貴い命ある限り一秒たりとも無駄に過ごさないよう願いながら、日々見返りを求めずに奉仕している。
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