人が老衰するのは当然であり、
その心構えができている陳秋子と徐文炳は
今まさに、その時を迎えようとしていた。
朝七時すぎ、七十三歳の陳秋子さんは、自分より二十歳年上のご主人、徐文炳さんと手をつなぎ、バスに乗って、双和という環境保全ステーションにやって来た。二人は静かにビニール袋を整理し、十時になると、二人はまた手をつないで席を立って帰る。
毎週の月、水、金曜日に必ずアメリカに住んでいる娘さんとインターネット電話で話す。「父の声が聞けることは父が元気にしている証拠なのです」と娘さんが言った。
陳秋子さんは、毎日二人が食べる果物を決まった量だけ用意する。ミニトマトを各自六つ、ぶどうを六粒、パパイヤとグアバを半分ずつ。「年を取ったら身体を労ることが大事です」と陳さんは言った。
「毎日決まった量を食べるのは、お医者様からのアドバイスでしょうか?」と質問すると、陳秋子さんは頭を横にふり、「自分の身体と長く付き合ってきたので、必要な量は自ずと分かってきますよ」と真面目に答えた。
陳さんは、新竹県湖口の客家の農家に生まれた。彼女は幼い頃に辛い農家の暮らしを体験したので、「学校に通いたい。農作業は大嫌い」と思い、子どもの時から自分の人生を変えるのだと心に決めていた。芋掘りや、豚の世話など多忙な毎日を送りながら、頭の中ではしっかりと九九を暗記した。小学校の卒業成績は優れていたが、お祖母さんは彼女の進学に強く反対した。
少し大きくなった陳さんは台北に向かった。中和にある工場で生産ラインの作業員として働き、その後親戚の紹介により、軍を退役し公務員になった徐文炳さんと結婚して家庭を築き、二人の娘を授かった。
陳さんは四十一年間工場の生産ラインで働いた。初めは紡織糸を配る係だった。彼女は努力し、生産枚数から工賃を計算する毛糸織のベテランとなった。その後、異動先の別の家電生産ラインの職場でも高く評価されて、模範班長となった。「昔、会社の接待で取引先との会食に参加することがありました。外資系のマネージャーばかりが出席する中、唯一の女性は客家人の私でした」。陳さんは目を輝かせて昔を思い出す。負けず嫌いで勤勉な性格の陳さんは、自ら自分の人生を変えた。
夫婦共に定年退職をしてからは、ご主人は友人と公園を散歩するのが日課だったが、友人は高齢で体力が衰え、外に出られなくなった。人生において老衰していくことは当然だが、「毎日健康に気を配るだけではなく、何かできることはないものか」と夫婦は考えた。陳さんの妹さんが慈済のボランティアだったので、環境保全ステーションへ行くよう薦められ、通うことにした。
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●陳秋子さんと徐文炳さん夫婦は毎朝バスで環境保全ステーションに出かける。家で「テレビに見られる」よりボランティアに出かける方が幸せなのだと2人は考えている。 |
取材の間、ご主人の徐文炳さんは常に温厚な笑顔をたたえていた。時折、「失礼、ちょっとお手洗いへ……」と礼儀正しく一言断って、席を外した。ご主人の認知症がいつから始まったか、陳さんはよく覚えている。
それは去年の夏のことだった。二人はいつものように口げんかをしていたが、突然夫の言葉使いがおかしくなったことに気づいた。検査の結果、軽い認知症と診断された。
「娘さんが近くにいないのに、一人で認知症のご主人を世話するのは大変ではないでしょうか」と陳さんに聞くと、「大丈夫です」とはっきり答えた。「治癒は難しいと思いますが、認知症をどう受け止めるのですか」と私の質問に、陳さんはしばらく考えてから、「大丈夫です。なんとかなります」と答えた。
「ボランティアに出かけられて幸せですよ。年をとって一番心配なのは、動けなくなること。そうすれば家でテレビを見ることしかできません。夫は今、よくテレビを見ながら居眠りをするので、自分がテレビを見るのではなく、まるで自分がテレビに見られているみたいです」と陳さんは言った。
そろそろ取材が終わろうという時、長く席を外していた徐文炳さんが戻ってきた。赤みを帯びた顔は相変わらず素朴な笑顔をたたえ、少々息切れして言った。「さっき僕がお手洗いに行って戻って来ると、皆さんが居なくなっていた。一回りして捜したが、やはりここにいたんだね」
陳さんは、ご主人ににっこりしてから私に「ここに来て良かった。ここは安全で、皆さんが優しくしてくれます。安心して通っています」と話す。
二人はまた手をつないで回収分別の作業場に戻り、積もったビニール袋の整理を続けた。
(慈済月刊六〇七期より)
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