七十歳の林阿屘さんは金融オフィスビルで清掃婦として働いている。
家計のためではなく、ただ環境保全の大切さを
このビルで働くサラリーマンたちに教え、実行してほしいからである。
林阿屘さんは毎朝六時に起床し「薬師経」を唱える。それから瞑想をしながら、「どうか私の足がずっと丈夫で、資源回収の仕事を生涯やり通せますように」と願を立てていた。朝の勤行が終わると、彼女はかつて手術を受けた膝のストレッチをしながら少し休んだ。それから自転車に乗って双和という環境保全ステーションに向かって行った。
痩せて小柄な林さんは、しゃがんで低い椅子に座った。目の前に積まれたいろいろなICプリント基板を分類しながら大きな収納容器に入れた。ICプリント基板はきらきらと光っているので、すぐは見分けがつかない。林さんは、ICプリント基板の上のさまざまな突起物を指しながら「抵抗器やトランジスタのようなパーツは回収の価値があります。一方パーツのない『雑板』は売値が安いです。でも、ゴミとして捨てるわけにもいかないのです。地球に負担をかけてはいけませんからね」と彼女は言った。
午後の三時、林さんは夕食の支度をしようと、やっていることを止めて、家に帰っていった。五時過ぎからは、彼女はある金融オフィスビルの清掃婦として働いている。各階を廻って清掃して行くと、オフィス内の人々はにこやかに挨拶を交わしたり、ある人はおやつを彼女に勧めてくれたりした。
十年前この仕事に就いた時、どの階にもゴミとして捨てられた紙が大量にあった。中には印刷の面積が三十%以下で色は二色以内の白いコピー用紙がたくさんあるのを見ると、十分に活用されない紙が捨てられていて惜しいと思った。
オフィスビルだったので、捨てられた用紙がたくさんあったのである。オフィスの整理整頓のため大量の紙が廃棄されていた。その紙は環境保全のボランティアが「中白」と名づけた。最初のうち、林さんはゴミの中から回収できる紙を選び出して、退勤すると回収した紙を抱えてバスで家まで持ち帰り、それから自転車に載せて環境保全ステーションに届けていた。
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●林阿屘さんは毎晩金融オフィスビルで清掃の仕事をする。退勤後に一時間かけて各階の回収物を整理する |
「みなさん、使用済みのビニール袋や飲料カップを私にください。回収します。地球温暖化防止にみなさんのご協力をお願いします」と呼びかけて、資源ゴミを回収していた。
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林さんは宜蘭の小さな町で生まれた。父親は鉄道局に勤めるかたわら農業を営んでいた。男尊女卑の農村の風習で、姉妹たちは学校へ行くことができなかった。林さんは「お母さんは私だけを小学校まで行かせてくれました。ラッキーでした」と嬉しそうに言った。
十九歳の時、家を出て台北に向かった。当時加工工場が林立する台北県で、彼女は工場の生産ラインの作業員として働いた。また、仕事仲間の誘いで慈済のメンバーにもなった。
林さんのご主人は建築現場で足場を組む仕事をしていた。ところが仕事中に怪我をして、肺には後遺症が残ったので、やむを得ず家で休養することになった。二人の子どもを育てるため、林さんは工場の退勤後、夜はレストランでアルバイトをした。結婚披露宴を行うそのレストランでは、大量の段ボール箱がゴミに出された。資源回収を呼びかける上人のお諭しを心に留めていた林さんは、レストランの店主の同意を得て段ボール箱を持ち帰り、ご主人にバイクで慈済の回収拠点に運んでもらった。
四十三歳の年から今までの二十年以上の間、林さんにとって環境保全はすでに日課として生活の一部になっていた。自転車で隣の土城区にある慈済メンバーの家に行き、回収物を載せて、混雑した道を通り抜け、雙和環境保全ステーションに届けたこともあった。その後、政府が資源回収をし始めてからは、そのような険しい道を行き来することはなくなった。林さんが慈済委員の育成訓練を受けていた時、ご主人は酸素マスクをつけ、思わしくない状態になってきた。勉強会に出かけたくても心配する林さんに、ご主人は、「私は大丈夫だから行きなさい」と軽やかな口調で手をふりながら言った。一九九八年、林さんが慈済委員の認証を受けたその年、ご主人は亡くなった。
「仕事のない日や、退屈な時に優しい夫の顔を思い出します……」と林さんは悲しそうな眼差しを一瞬浮かべたが、すぐにまた笑顔になった。彼女にとって、長年携わってきたボランティアの仕事は、大切なエネルギー源である。現在、林さんは二人の息子と住んでいて、家計の心配はない。それなのに清掃婦の仕事をやめない理由は、このビルで資源回収を続けたいからである。
一生働いてきた林さんは、爽やかな笑顔で、「仕事ができるのは幸せなんですよ」と語る。膝の関節に支障がでた時に、「足が痛くなり仕事ができなくなったらどうしよう」ととても心配だった。この不安が後に、林さんを闊達に変えた。「努力して一生やり通せばそれで十分なのだ」と林さんは悟ったのである。
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