慈濟傳播人文志業基金會
貧困と災害 生きるために奮闘する
カリブ海に浮かぶ島国ハイチは、長く続く貧困と飢えと疫病に苦しんでいる。昨年十月には大型ハリケーンマシューが来襲して甚大な被害をもたらし、百万人を越える人々をさらなる 苦境に陥れた。
 
そのハイチに対し、慈済は長期にわたって支援を続けている。今年四月には四度目となる食糧支援を行うため、ジェレミー、レカイ、トルベッシュ、そしてポルトープランスを訪れた。受難の土地の貧しい人々に一時の平穏がもたらされた。
●11歳のナイカ・ラマーはピーナツを売って生計をたてている。キャンプ・ペリン地区で配付された米を受け取ると、失明している母親の手をとって、嬉しそうに家路についた。「このお米があれば、僕もやっと休めるよ!」
 

台風一過 暗闇で支援を待つ

昨年の十月といえば、住民の動揺もまだおさまらない頃だった。風速時速二百四十キロメートルのハリケーン・マシューがカリブ海を直撃した。ハイチの陸地には海水がなだれ込み、空からは強風と豪雨が西南部の沿岸の住宅地を襲ったのである。この被害で、九百人の死者と百七十万人以上の行方不明者を出した。
 
慈済アメリカ支部の支援は迅速だった。温かい食事を提供し、被災者雇用制度によって市街地を清掃し、今年の四月には被害の大きかったトルベッシュ市とジェレミー市に米を配付した。
 
ハイチの住民は、ハリケーン・マシューのほかにも、これまで幾度にもわたって気象災害との運命的な戦いを余儀なくされている。ジェレミー市郊外にあるクロイクスチェリー地区は、交通の不便な、水も電気も、学校さえもないところで、この災害により農作物も甚大な損害を被ってしまった。半年経った今でも多くの人々が暗闇で支援を待つ日々を過ごしている。
 
●クロイクスチェリー地区の農民は、台風の後、作物が全滅したと語った。栽培を始めたばかりの黒豆も、病気と害虫のせいでほとんど収穫できず、長く貧困状態にある彼らにはなす術もなかった。(撮影/Nils Aucante)

行列の中 喜びの再会

四月十九日、トルベッシュ市の台湾農技団本部前には朝から人だかりができていた。配付証書を持つ特別被災地区の人々が早くも入り口で待っているのだ。米を受け取りたいと焦る気持ちから、我先にと押し寄せてきたのである。
 
●トルベッシュの台湾農技団本部でハイチの青年ボランティアは875世帯に台湾からの愛の米を配付した。被災者の苦しみが少しでも軽くなるように、全員で協力し、早く配付してしてあげたいとの思いを抱いて。
 
現地の人々はとても純朴である。慈済ボランティアと本部の職員が導くと、それに従って順に隊列を作って待った。
「ボランティアの皆さんは親切で、私たちを大切にしてくれました。とても感激しました。どうぞ皆さんがどこにいても神のご加護がありますように!」。配付を受け取ったロイア・ザイドールの言葉である。
 
●米は各家庭に10キロずつ配られた。受け取った被災者の顔は喜びに満ちている。ボランティアも、災害を耐え抜くハイチの人々の勇気を讃え心から微笑んで祝福する。

愛の新部隊 手を携えて共に励む

二週間に渡る配付の間、ハイチの現地ボランティア四十五名とアメリカの慈済人が協力し合い、一万二千世帯の貧困家庭のために一万七千五百袋の米を運んだ。その四十五名は、慈済の由来、理念や活動の様子を知ると自主的に志願したのである。疲れていても心は喜びで満たされた様子だ。被災地における復興の第一歩がこの米の配付であった。
 
 
一九九八年にハリケーン・ジョージが中南米を席巻した時、慈済は被災地のハイチにコンテナ四つ分の衣類を提供した。これがハイチとの縁の始まりであった。二〇一〇年、今度はポルトープランスが大きな地震に見舞われてしまう。慈済の支援と復興活動が長期に渡り続いていたおかげで、現地ボランティアという新しい愛の新部隊を導き、人々のケアも始まったのである。善で結ばれた縁を絶やしてはならない。
●米は各家庭に10キロずつ配られた。受け取った被災者の顔は喜びに満ちている。ボランティアも、災害を耐え抜くハイチの人々の勇気を讃え心から微笑んで祝福する。
 
NO.248