「トルコはとてもきれいだ。自転車も公園もお菓子もある」。私の目の前にいるアブダラハ君はシリアからこのトルコへやって来た。彼は僕に新しいホームを紹介している。
シリアへ帰りたいかと彼に聞いた。少し戸惑っていた彼は、高い窓の外にある青い空を仰ぎながら答えた。「いやだ。そこにいる兵隊さんはみんな機関銃を背負っているから、お母さんから外へ出てはいけないと言われた。一日中家の中に閉じ込められて、食べ物もほとんどない。シリアは遠すぎるし、爆弾が多すぎる。怖い。帰りたくない」。それを聞いた僕はとても驚いた。だって彼はたった三歳半の子供だったから。
アブドラの父親のムハマドは、八カ月前にシリアのホムスからトルコへ逃れ、以来不法滞在をしている。在留ビザを持っていないのでフルタイムでは働けず、アルバイトで生計を立てている。奥さんが四カ月前に息子二人を連れて来て、一家は再び一緒になれた。
二〇一七年六月の中旬、慈済奨学金の援助を受けている三十二人のシリアから来た大学生は、斎戒月の期間中に、シリア難民の中でもとくに貧しい家庭をケアする活動を行った。彼らはシリア国籍のベテランボランティアについて、グループに分かれて訪問を行った。多くのマンナハイ小中学校の先生が放課後の時間を利用して参加していた。ベテランボランティアであるウイサムは、僕と同じグループで共に行動している。彼がアラビア語をトルコ語に通訳してくれ、僕はそこから難民の現状を理解した。
僕がアブドラにシリアには友達がいるかと尋ねたら、いないと答えた。だが、近所に住むヨセフがよくアブドラを訪ねてきて、一緒に遊ぶという。彼はボランティアのベストに縫いつけてある慈済のロゴを指差して、「台湾だ」と言った。それからベッドの上にあるブランケットを指して、「お母さんがこれはみんな台湾からもらったと言っていたよ」と言った。このブランケットは二〇一四年十月にシリア難民に配付されたもので、その後、援助物資は現金カードに変わった。しかし、トルコに着いたばかりの彼らは一体どこからブランケットを手に入れたのか? それは、ブランケットの持ち主が難民キャンプを出て行く時、ブランケットを同胞に残していくからだ。ブランケットは、数え切れないほどの人々と時間を供にしてきた。
日差しが出ていたあの日、撮影機材を背負っていた僕は全身熱かった。しかし地下室へ下りて行って取材をしていると、地下室に充満した湿気で咳込んだ。大切な子供をこんな環境で成長させたいと願う親はいない。台湾の慈済からの愛が難民の子供達の心を温められるよう、心から祈っている。
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