慈濟傳播人文志業基金會
曇っていても晴れていても すべてが美しい
Profile 張遠鎮 / 76歳。
夫を亡くし、一人暮らし。
家計の財源:教職員の退職金。
 
目の前の花と草、耳元の鳥の声
心霊に敏感な張遠鎮は
常に生活の中で美を感じる
最愛の夫の死、重病の試練
苦痛を経たからこそ愛を知った
 
台北の繁華街にある住宅の屋上に建てられた十坪の部屋は、まるで絵に描いた花のような世界。盆栽が所狭しと並べられ、油絵が壁いっぱいにかけられている。ここは張遠鎮さんの一人住まいの小天地で、また彼女の心霊の大世界でもある。
 
七十六歳の張遠鎮さんは、五年前に夫に先立たれて今は一人住まい。階下には息子一家が住んでいるが、彼女は自分だけの生活を頑なに守っている。「お互いに自分の空間を護っていれば摩擦は起きません」と言う。
 
「毎朝、コーヒーと朝食を取りながら、写真の主人に向かって話す一時が一番幸せです」と、誰にも邪魔されることなく一人きりの時間を享受している。
 
●スカートの蓮の花は自作。1杯の茶を飲みながら亡き夫と対話する。10坪の小天地が張遠鎮さんの心霊が飛躍する大世界。
 

生活の中にある

些細なことを愛でる

張遠鎮さんは母と同じく音楽教師で、娘はウィーンで暮らしている。今は、孫娘にピアノを教えており、「四代にわたって音楽をやっています」と笑いながら言った。弟は画家で、祖父は彫刻家、家族は五代にわたってみなが芸術を愛している。
 
音楽の薫陶を数十年受けた後、五十五歳になってから絵画の世界に入った。生涯で彼女が最も気にかけているのは「美」である。これは楽器を奏でたり、絵を上手に描いたりする技術ではなく、心霊の鑑賞に対する敏感な見識があるからだ。
 
例えば盆栽については、ふつうは「明日イチゴは蕾をつけるだろうか?」と思うが、張遠鎮さんは「今日は橙色だから、明日は紅色になるわよ」と言う。生活の中の美、天地の美を彼女は最も美しいと思っている。
 
どれだけの人がピカソの絵を見てその良さが分かるだろうか? 小鳥の囀る声を美しいと思うだろうか? 彼女に言わせると、すべての物は心して感じるもので、美とは分析したり思考するものではない。
 
音楽科を卒業した張遠鎮さんは、台北市の南門中学校で音楽クラスの最初の教師となり、熱心に教育に投入していた。今五十歳に近い台湾の音楽界の中堅には、張遠鎮さんの学生だった人が多い。張遠鎮さんは当時を振り返り、生徒を海外の演奏に引率した時は、緊張と心配で胸がいっぱいだったこと、演奏前に熱を出した子や楽譜をなくしてしまった子がいたことなどを思い出す。一年に二十八回の発表会を実施しなければならず、プレッシャーは健康にも影響を及ぼしていた。
 
四十三歳に乳癌ステージ三の診断を受けた時は、医者と家族が話すのを聞いて、自分は長く生きられないと思っていた。手術台に乗せられ、手術室に運ばれて入る時は、断頭台に上がるような心地だった。息子はやっと小学校の三年生になったばかりで、不安でいっぱいだった。その十年後にまた子宮に癌細胞があることが発見され、不安に襲われた。
 
張遠鎮さんは気功を習い、七十六歳の今も背筋がピンと伸びて、膝や肩の痛みを感じたことがなく、慈済のボランティア活動に参加している。健康の秘訣について聞かれると、喜んで経験談を話す。
 
二度の大病を経ても、なお元気に老後を迎えられることに常に感謝している。「あれからの三十二年間は儲けものです」。毎日を大切に、感謝の気持ちで過ごしていると、悩みが起きないと言う。
 

リラックスは健康の元

 
張さんが壇上で話す時は、声もかすれず、表情豊かに、大きな身振りをまじえ、時には冗談を言って笑わせる。「七十を過ぎたお年寄りに見えませんね」と言われると、「では七十を過ぎたお年寄りはどんな感じなの?」と笑いながら問い返す。
 
張遠鎮さんは講演の際には、インターネットで情報を集め、説明や画像、音楽を上手に取り入れたファイルを準備し、聴衆の注意力を引き付けている。
 
張遠鎮さんは自分が老けたとは思っていない。年齢や皺の数は問題ではなく、心が健康であれば若々しく、自分でどう暮らすか選択することができるとも思っている。年を取ったからと言って、老人問題をさらけ出すものではないと言う。
 
●張遠鎮さんは慈済教師会のボランティアとして、30年前に習っていた気功を地域の人たちに教えている。彼女は気功で癌を克服できたと言う。
 
外出せず、人との付き合いもないと、筋肉や骨格が退化する。彼女はボランティア活動で忙しく、健康で幸せだと感じている。年配のボランティア仲間と健康の秘訣について話し合う時、気功のいいところは「心身のリラックス」ができることと言い、気持ちをリラックスし、身も心もきつく締めつけてはいけないと話す。
 
ボランティアの活動がどんなに忙しくても、自分の心身はますますリラックスしているように感じている。以前生徒を引率してコンクールに参加した時は、一番を取るため極度に緊張していたが、今では孫娘が七十点取ってきても、「良かったね」と心から褒めている。
 

宗教を超えた愛

 
一九四六年、公務員の父が妻子を連れて中国大陸から台湾へ来た時、彼女は四歳だった。裕福だったので戦後の苦しみを知らなかった。貧しい友達の家へ行った時、その一家が主食としていた芋粥をご馳走になった美味しさが羨ましく、帰ってくると「あんな美味しいものがあるのにどうして家にはないの?」と言って、母を困らせていた。
 
人生が順調だった張遠鎮さんにとって、その後、相次ぐ家族の死を経験したことは、最も苦しいことだった。二十歳でまだ学生だった時に、五十足らずの父親が癌で亡くなった。大黒柱が彼女と幼い四人の弟を残して亡くなった時、人生とは順調なものではないのだと悟り、覚悟をしなければならないと思った。
 
五十三歳の時、母に認知症の兆しが現れた。学校を早期退職して介護をしていた。十五年後、母は娘の懐に抱かれながら、安らかにこの世を去った。五年前、七十歳の時、百五歳になる姑と夫が、二カ月の間に続けて亡くなった。
 
夫が亡くなって一人暮らしになった張遠鎮さんは、夕方になるとわけの分からない震えに襲われて、今日はどうして過ごせばよいのかと途方に暮れるようになった。半年が過ぎたころ、自転車に乗って市場へ行く時、万華の静思堂が見え、いつこんな立派な建物ができたのだろうかと思った。
 
好奇心にかられて建物に近づくと、中へ案内された。驚いたことに、そこではお婆さんたちが勉強会をしていた。この素晴らしい、気持ちの良い雰囲気に涙がこぼれた。
 
「私はキリスト教徒です」と張遠鎮さんが言うと、慈済ボランティアは「信仰する宗教に関係なく私たちは歓迎します」と答えた。「私は線香を上げたことがありません」と言うと、「構いませんよ、私たちも線香を上げていません」と答える。幼いころに洗礼を受け、敬虔なキリスト教徒だった張遠鎮さんは、ボランティアと交わした簡単な会話で、この団体の包容力に魅せられ、すぐに慈済ボランティアに加入して、社会奉仕活動に参加することとなった。
 
●張遠鎮さんは友達がくるのを歓迎して、自宅の門に「幾個老朋友、磨個老半天」と書いている。
 
幼い頃から母と教会へ通っていた。仏法に関しては分からないものの、證厳法師が話される生活の智慧に満ち溢れた静思法話は、心に残る不思議な感じがしていた。今では小学生の「大愛お婆さん」になって、ボランティア仲間と学校に行って静思語を伝えている。
 
教会ではお互いに兄弟姉妹の尊称で呼び合うが、慈済では師兄(スーション)師姐(スーチェ)と呼び合っている。初めのころは慣れず、「感恩(感謝)」の一言も言えなかったが、今ではすらすらと言えるようになった。
 
そして教会へ礼拝にも行き、牧師と「大愛と博愛」は同じことだと話し合っている。「私はこの団体の人たちが好きです。皆と一緒にボランティア活動をしている時は楽しい。夫が万華の静思堂へ私の手を引いて連れて来てくれたような気がします」と話す。老いても生命の良能を発揮できる場所があることに満足している。
 
                       ●
 
宗教団体の集まりとボランティア活動への参加を通して、孤独や老後の恐れを感じなくなった。母の日を祝う子供たちとの会食よりも、灌仏会を優先にして活動に参加している。
 
彼女は自分の人生で経験したことに感謝している。苦しみと痛みが過ぎた後に感じた美と愛を貴び、今目の前にある生活すべてを大切にしている。若い時はいくらあっても足りないと感じていたが、年を取ってからは生活に足りるだけで充分だと思うようになった。
 
人として、美を愛で、博愛の精神があれば、人生を無駄に過ごすことはない。逆にすべてを美しいと感じず、愛がないなら、愉快な気持ちは得られないだろう。幸せは自分で探し求めるものだと張遠鎮さんは言う。
 

上手に一人暮らしをする法

老いてもなお学ぶこと         
                                       口述‧張遠鎮 / 整理‧李委煌 / 訳・慈願
 
定年になって、職場を離れた後、私がとくに重要だと感じたことは、継続して成長を保持することだ。
 
これまで慣れ親しんできた事は、何の造作もなく対処できるが、慣れない領域で学ぶことは、まだ開発されていない脳細胞を刺激することができる。このやり方は私にとってとても効果がある。
 
そして、人に嫌われる年寄りにならないように努力する。口やかましく「あなたのために言っているの」と口にすると、うるさがられるだけだ。子供たちと良い関係でいたいなら、時には言葉でなく、黙ってそばにいるのが愛というもの。
NO.248