慈濟傳播人文志業基金會
一念を守り 周守一
さまざまなことが起きる人生において、慈善の仕事に携わることは容易ではない。
しかし周守一は根気よく続け、少しもおろそかにしない。
 
 
 
プロフィール:1953年生まれ。1997年慈済委員の認証を受ける。
訪問ケア経歴:15年
訪問ケアの秘訣:訪問対象者には経済的な援助を与えるだけでなく、長期間にわたる訪問によって、対象者のニーズを理解し、助けます。
 
周守一は衛生福祉課台南病院のリハビリ病室に入るや、ベッドに寝ていたアサイさんに声をかけました。「アサイ、ご飯を食べた? 良くなったら来週から静思堂で慈済のご飯が食べられるわよ」。アサイさんが入院する前に参加していた毎月の慈済食事配付活動に参加できるように、励ましました。アサイさんは脳の怪我で反応が鈍くなってはいますが、両手を合わせて「感謝します」と答えていました。
アサイさんはかつてお金を儲けてよい暮らしを送っていましたが、金使いが荒い上に気性が激しいために、家族との折り合いが悪くなり、離婚した後は息子と二人暮らしです。急性脳卒中に倒れた後、平衡感覚を失い、入院して一月の間リハビリ治療を受けて、やっと杖をついて歩けるようになったのです。
慈済台南支部で訪問ケアボランティアの幹事を務める周守一は、仲間のボランティアとともに三年近くアサイさんに付き添って、低所得家庭の証明書の申請をしている中で、家族との折り合いが悪かった過去を知りました。そして、病院で世話してくれる医師、看護師たちや、家族に対して感謝しましょうと導き、アサイさんの心にあるしこりが徐々に小さくなっていきました。息子も、ボランティアに付き添われて慈済の夏季キャンプに参加するようになり、朗らかになりました。
六十四歳になる守一は慈善活動に参加して十五年の大ベテランですが、「私はそれほど多くのことをしていません。そばにちょこっと入った具材のようなものです」と謙遜して言います。毎回の訪問ケアでは先輩として若い人たちにアドバイスや励ましを与え、「毎回訪問ケアを終える度に、自分の幸福を再認識し、もっと奉仕に励まなくてはと感じさせられます」と話します。
 
周守一(一番左)は朗らかな笑顔でケア対象家庭の訪問に出かける。チームで奉仕する機会は誰にでもあると言う。
 
 
怨まずに努力すること
 
六十年前に、病気がちの父親が母親と四人の子供を残して亡くなった時、守一は四歳でした。母親は仕方なく子供たちを連れて実家へ戻りましたが、雨風をしのぐに過ぎない粗末な家でした。幼い時の印象では、母はいつも病床に臥していました。小さな田畑はあったものの、当時の子供たちでは耕すこともできず、人に借して得たわずかな収入で暮らしていました。
二人の姉と三歳違いの弟がいて、姉たちは小学校卒業と同時に家計を助けるため紡績工場に勤めていました。守一も姉たちと同じ道を歩くものと思っていましたが、小学校の教師がこんな優秀な成績で進学しないのは惜しいと、三度家へきて母を説得し、中学へ進学することになりました。
守一の成績は先生の期待に背かないものでした。一年目の学費は政府から学費補助を受けていましたが、その後は毎年奨学金を得るようになり、家にはずらりと賞状が飾ってありました。卒業後は樹人高級薬剤職業学校に合格しました。
しかしながら専門学校の学費は少額ではありませんでした。姉たちが家の心配をしないでしっかり勉強するようにと励ましてくれましたが、母が反対し、二年で休学して就職しました。それでも彼女は母を怨みませんでした。当時の田舎では「女の子は才のないのが徳」とされていましたから。
専門学校で学んだ薬剤や医療の知識を生かして皮膚科診療所で働きました。注射もできたので、収入は紡績工場の給料よりもはるかに多くなりました。その後、親戚の紹介で大きな会社の会計士になり、そこでも能力が認められて活躍し、やがて知り合った楊忠正と結婚して円満な家庭を築き上げました。
 
周守一は訪問ケアの際、苦難の人が何を必要としているか確認し、最も適切なサポートを行う。秘訣は「その人の身になること」と言う。
 
人生では
ただ二つのことがあるのみ
 
守一の母は熱心に貧しい人たちに布施をしていました。お祭りが行われる時期になると、大勢の乞食が村へやってきます。夜になると道端に寝ている人たちに、家の廊下に上がらせて温かいおじやを食べさせ、身も心も温めてあげていました。
裕福な家庭ではなくとも、母の無言の教えを受けた守一は人を助けることに喜びを感じています。それに、家扶機構(教育支援団体)によって学校で学ぶことができ、今日に至ったことに心から感謝していました。
以前、家扶機構の職員が自転車に乗って家へ来て、学校の状況を詳細に尋ねました。一年間、一回三十分の訪問でしたが、愛の種が守一の心に植えられました。その後、守一は定期的に家扶機構の貧しい児童を引き受けて、自分が助けられたと同じように助けています。
彼女はお寺へもお参りして布施しています。ある時、市場でこんな話を耳にしました。花蓮のお坊さんが人助けのため、病院建設の浄財募金をしていると。守一はすぐに募金して、慈済の会員になりました。そして慈済委員と一緒にカソリック系の「徳蘭園老人ホーム」へシスターの手伝いに行き、シーツと衣服の洗濯を受け持ちました。
専業主婦の守一はボランティアをしていることをはじめのうち家族に黙っていました。夫の出勤後に出かけ、午後子供を迎えに行ってから夜の食事を作っていました。そして慈済の古参委員について訪問ケアを六年間務めて訓練を受け、委員の認証を得て、家族にも応援されながら慈済の活動に励んでいます。
初めて訪問ケアについて行った時、ゴミの散らかっている暗い家の中に入った途端すぐ逃げ出したい気持ちになりました。部屋の中は異臭に満ちていましたが、古参委員は何でもないように家の中に入ると、ベッド脇にある尿のツボを手に取ってトイレに流し、ツボをきれいに洗いました。そしてケア対象者の体を洗ってあげている間もにこにこ話しかけて、この年老いたケア対象者は慈済委員がくることを期待して喜んでいるようでした。彼女はこの体験で深く感じ入り、これから古参委員に倣って励むことを心に決めました。
休日でも訪問ケアに出かける彼女を、家族は応援しています。守一も家事を少しも疎かにしていません。ある日いつものように出かける時、守一は夫に「私の人生は二とおりなの。一つは家庭でもう一つは慈済よ」と言いました。
 
慈済の任務がない時には、託児所から連れて帰った孫と幸せな時間を過ごす。
周守一と楊忠正夫婦。結婚生活で争ったことはない。夫に先立たれた後も、夫の応援を感じながら休まず慈済の道を歩む。
 
人生の苦難が多い
 
一九九九年九月二十一日、台湾中部の南投県で大地をも揺るがす強烈な地震が発生し、二千人以上が死亡し、数万人が負傷しました。当時の台南は被災者収容地区となり、被災者が大型バスで協進小学校へ運ばれてきました。恐ろしさに眠れない子たちや嘉南療養院から運ばれてきたお年寄りたちに、慈済ボランティアが付き添い、守一たち訪問ケア班は、病院で負傷者や犠牲者の家族の付き添いに当たっていました。
彼女は四カ月前に子宮筋腫の手術を終えたばかりでした。一日中忙しく駆け回って、家へ帰ると腹部に痛みを覚えましたが、やってきたことに喜びを感じていました。
二○○六年の冬、台南県楠西郷で発生した自動車重大事故の時、彼女は晩御飯の用意をしていましたが、成功病院に患者が送られているとの知らせを受けるとただちに病院へ駆けつけました。救急センターで傷の痛みに堪えている人に寄り添い、その手を握ってあげ、親身になって共に痛みをこらえていました。
霊安室に並んでいる遺体の傍では、悲嘆にくれている家族にお茶を上げて慰め、深夜二時まで付き添って帰りました「苦難の多いこの世の中で、あれこれと気にする必要はなく、今は自分の幸せを大事にしなければ」としみじみ感じていました。
 
 
證厳法師は常に、人生は無常であり、人に寄り添っている間にも、無常はいつ何時でも現れる、とおっしゃっています。
二○一四年、夫は末期の大腸がんで余命半年と診断されました。二人で残された貴い命を、これからどう過ごそうかと話し合っていましたが、思いもよらず一月後に夫は亡くなりました。心の準備はできていたものの、悲しみを隠せませんでした。
夫は黙々と彼女の行動を支持し、後顧の憂いがないよう努めていました。告別式を終えてから数日後、気持ちの整理ができた守一は、福祉課から送られてきたケースに対し、夫の分まで力を尽くしました。
「大地にしっかり足をつけて、毎日たくさんある仕事を通じて、慈済との縁を大事に結ばなくてはなりません」と言います。訪問ケア、造血幹細胞献血、慈済教育志業の懿徳ママ(学生のサポート)、静思堂のガイドボランティアなど忙しい日々を送るうち、瞬く間に二十五年が経ちました。
自分の一念は慈済を守護することにある、と心に刻みつけ、そして因縁を把握して、体が健康なうちに奉仕することと言っています。
(慈済月刊五九四期より)
 
NO.235