慈済が創立してから今日で満半世紀を迎えた。四月の末から五月にかけて、台湾全土二十四地域の道場で、ボランティアが製作した手話劇《無量義経》が公演された。ボランティアたちは優美に演じ、その大愛に満ちた演技はあちこちで評判を勝ち得ていた。
優美な中にも力強い動作は、慈済人が万難を排して世界中のありとあらゆる地域に入って支援していることを表現している。救難の志を堅く持ち、苦の淵にある衆生の済度を願う様子を、音楽に合わせ体で表現している。また、創立当時の困難な時期を表す場面では、皆が深く感動し、励まされる思いにかられた。
慈済精神の源は一九六○年に遡る。そのころ證厳法師と弟子たちは普明寺に借り住まいの身で、苦しい修行のかたわら救済活動を行っていた。そして自分たちの生活が苦しくとも、毎月薬師法会を欠かさずに行い、ケア対象家族を招いて雑炊を炊いてふるまった。米の足りない時はヒョウタンを煮て加えていた。鍋の蓋を開けた證厳法師は、小さな鍋の中に映っている山河の影を見て、「一粒の米の中に歳月が隠され、半升の鍋の中で山河を煮る」と感嘆の声をあげた。
證厳法師が慈悲済世を立願し、修行していた小屋を一歩踏み出したその時から、五十年にわたってこの世の善士を集め、現在では世界の至る所でさまざまな慈済志業が行なわれている。この善の力がゆるぎなく、豊かなものであるのは、勤行と克難の精神が受け継がれ、初心を忘れず志のある人々を続々と引きつけていることにある。
一念は常に感動によって生じる。しかし立願の過程では必ず困難と試練に出会う。この時、法を奉じる者たちは互いに励まし合い、静かに思い初心に帰ることで、その都度暗雲は晴れ、法の船によって渡ることができた。
もしも無私の心で他人を信じる愛があるなら、善の因縁によって絶えず助けが現れることを知っている。《法華経》の中に出てくる大白牛の話のように、どんなに重たくても皆で力を合わせれば、牛車を引っ張って前進できるのだと会得している。
経蔵を演戯する中で役者たちはそれを深く体得していた。波乱に満ちた壮観な修行の様子を表した場面はこの上なく美しかった。
證厳法師は常に弟子たちに「千里の道は踏み出した一歩から、一抱えもある大木も始めは小さな種つぶから」と教え励まされている。これもまた慈済の人間行路の証であり、自分に対しても人に対しても、同じように励ましが必要である。
五十周年記念式典には、多くの外国の元首から祝辞が寄せられ、世界三十二カ国にいる慈済人もお祝いするために帰ってきた。直前まで日本やエクアドルの震災の支援に行っていた人々もいる。毎月定期的にケア対象家族のために施療や散髪、物資の配付を継続して行っている。
慈善活動が日常のように行われていることは、初心を忘れない慈済精神を体現している。讃嘆の声に接しても驕らず、誹謗の声に接しても意気消沈せず、すべてに感謝の気持ちをもつ。これこそ修行者にとって自分に対する最大の祝福である。
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