慈濟傳播人文志業基金會
愛が心にあれば 妨げになるものはない

怨み心に多くのしこりができると

苦になる

愛の心はひろびろとして

何の妨げもない                                           

怨みを愛に転じると

悪も善に転じられる   

人生を広々とした大空のようにしよう

 

米国で六歳になる男の子が、授業の時に映画を見ました。人々が大量のプラスチックのゴミを海に投げ込み、海を汚染し、海の中に生息している魚たちが誤って食べていることを知り、男の子は悲しくなりました。放課後、迎えにきたお母さんと家に帰る途中、泣きながら、「人間はいつも地球を壊して本当に馬鹿だね。僕は早く大きくなって地球を護るんだ」と言いました。

お母さんは、環境保全のポスターを作って皆に分かってもらいましょうと言いました。でも男の子は、「それだけでは足りないよ。道ばたに立って皆にむやみにゴミを捨てないよう宣伝しようと」と言いました。お母さんがこの会話を録音して、ネットにのせると、千七百万人の人がそれを見て、感動したという投稿もたくさんありました。中には「自分が恥かしい」と言う人もいました。  

子供の心は少しも汚染されていないため、清浄な本性には善念が容易に啓発されます。この子供は発心だけでなく、行動に移そうとしています。大人にこんな勇気があるでしょうか?

古の人は、「人は天理によらなければ、天地は甲子(十二支)の通りにはならない」と言いました。現在の人は暗やみに閉ざされているように是非をわきまえられず、欲念のままにただ目の前の経済的利益だけを求めて、開発は止まるところを知らず、地球を破壊してすべての生態が失われています。

過去の四季は明らかでしたから生態も明らかで、全ての物はそれに依存していました。秋ともなれば葉は色づき、渡り鳥たちは南に飛んでいました。現在は地球の温暖化によって、北極では十万年以上も覆われていた氷の層が溶け始めました。海面温度が上昇すると、海水温度も高くなって気候は極端になり、生態は乱れ、草花樹木、五穀の生長に異常を来たします。

今年の六月、北海道では稀に見る降雪、フランスでは百年来の洪水、世界の米生産大国といわれるベトナムは深刻な旱魃による不作が起きました。これらは四大不調によって、世界の災難が日増しに激しくなっていることが原因です。

まさにあの男の子が言うように、「人類は自分のやっていることを知っているのだろうか」と、私たち一人ひとりが自分に問いかけなくてはなりません。人類は目先の利益のためにやりたい放題やって、自分が負うべき苦果を全人類に受けさせているのです。

「千年の暗やみも一灯で明るくなる」と言うように、人々には本来清らかな本性が具わっています。細心に法を聞き体得して生活の中で運用して、誤った行為を改めることです。その心と行為を調整すれば、地球や生命を救うことは不可能ではありません。

地球の温暖化は急を告げるメッセージなのです。その命を救うには、省エネ、二酸化炭素の削減、素食の実施が有効な手立てです。しかし、一部の人による行いと力では足りず、社会大衆の認識が必要で、共に行動を取らなければなりません。 

人類は口欲を満足させるため大量の家畜や家禽を飼育していますが、そのために餌を消耗し、動物の排泄物に含まれる温室気体がさらに地球温暖化を加速させています。動物たちは囲いの中で一生を過ごし、最後には殺されて食用になります。世界で一秒間に千七百頭以上の動物が命を落としているのは、非常に残忍なことです。 

飼育せず、殺さなければ、動物は自由自在に生きられます。自然に命を全うさせることは、生命を尊重するのみに止まらず、二酸化炭素を削減し、地球温暖化を緩めることになります。殺生をせずとも、素食で栄養は充分に足ります。口の欲を抑えると、心身が清くなります。 

人類の欲念は大地に重病を背負わせました。そして、その地球を治療できるのも唯一人類しかいません。皆が菩薩心を起こして、心の内に光明と智慧を灯すように願っています。日常生活の中では自然に回帰して節水、節電してエネルギーの消耗を抑え二酸化炭素の削減に努めましょう。そして行動を以って衆生を愛護し、大地を保護して、一つの灯明から次々に無数の灯明に明かりを点すようにしましょう。人々の心に灯火を照らすと、大地の群生をも照らすことができます。

 

細心に法を聞き
誠意をもって法を説く    
身をもって
敬虔誠心に法に勤め励む  

 

南アフリカの慈済ボランティアは五月を「仏陀生誕月」として顕彰しています。現地の黒人の菩薩たちは九百三十キロの道のりを歩いて、十一地域、十二カ所の食事提供所で、民衆に浴仏の儀式とそのいわれを教えました。仏恩に感謝、父母の恩、衆生の恩に感謝するよう説きました。そして病に苦しむ人の家に入って、浴仏(病苦の人を仏と見て体を洗う)を行い、病人の体を洗ってあげ、家の整理もしてあげました。

ある時、一人の病人が教会へやって来ました。ボランティアはお米をあげた後、講堂に案内して椅子に座らせ、牧師の説教を聞いてもらいました。それから、牧師は信者の了解を得て、仏像を安置し仏に花を供え、彼女にも浴仏させました。信者一同は讃美歌を歌い彼女を祝福しました。これが愛の共鳴であり、また特別な浴仏式典でした。

レソトの黒人菩薩は国を超えパサナの人たちに浴仏の指導をしました。ミニバンを浴仏台にして飾り、同じように浴仏と献花の儀式を行いました。アフリカの大地のボランティアたちは天を戴き、野花を採って酷熱の太陽の下で秩序ある荘厳な浴仏を敬虔に行っていました。仏はどこにもおられて、どのような所であってもそこが道場です。

どんなに貧困な環境にも「生を済度する哀れみの大願」が現れています。彼らは大衆に身を以って説法し、過去の物資の欠乏だけでなく、多くの煩悩、人との争い、苦しい生き方を懺悔していました。今では仏法によって心を洗い、心が開くと、苦がなくなりました。人との対立がなくなっただけでなく、争いを解くこともできて、力を合わせて苦難の人を助けています。  

仏を拝む時で、最も大切なことは尊い謙虚と慈悲平等の心、それに学んで教えを具体的な行動に移すことです。アフリカは台湾から遥か彼方にあって法を聴くことは容易なことではありませんが、この黒人菩薩は法を聞いて心に留め、生活の中や群集の中に運用しています。 

心の中に怨みがあると、もめごとが多く苦しくなりますが、心に愛があるとさえぎるものがなく、すがすがしくなります。心を変えると悪も善に転ずることができ、仇を愛に転ずると人生は天空のように闊達になります。人と人との間に障害なく垣根を越えればよい事柄は多いものです。良い話を広く伝えてゆけば、社会全体が温かで平和になります。

 

無常を警告し善を見て喜ぶ  
辛い奉仕でも幸福を得られる

 

短い人生です。ぼんやりと毎日を過ごさないようにしましょう。一念が偏ったり、一時の怠惰は貴重な時間を浪費することです。「無常」は影のようについてくるので、平安な時を把握して哀れみの情で苦難の人に心をかけて、喜捨の心で衆生に心を寄せることです。つねに精進修行すれば慧命はたくましく伸びていきます。 

《法華経法師品》に「聞妙法華経一偈、一句、一乃至一念随喜者、我皆與授記,当得阿耨多羅三藐三菩提」とあります。《法華経》は成仏の道ですから、ただ一句一偈吸収して用いると心は随喜を発し、すでに受けている真実法の種子は大変貴重なもの、ということです。

随喜には善の随喜があって、また悪の随喜もあります。あまり了解していないこと、間違ったことについて言いふらすのは悪の随喜で、一人が真実でないことを話せば、万人に真実と伝えられ、往々にして人禍を引き起こすことになります。正しいことはやればいいということが善の随喜です。善を見て随喜があらわれるということは、心田に一つの善の種を植えつけたことになります。ただしその心田を耕さなければ、無明の雑草が生い茂って習気が深く重くなると、人とよい縁を結ぶことができなくなって、この善の種は雑草、砂、石に覆われて成長することができません。常に心田を耕し、無明の雑草を取り除くと蒔いた種は芽を出し、深く根を張れば一生無量です。 人には両手しかなく、この世を浄化させる目標を達成するまでには力足らずなため、多くの人の発心と参与が必要になります。人々は仏性の具わっている未来仏ですから、お互いに尊敬しなければなりません。困っている人に会ったときは、仏心をもって労うことです。皆が善随喜を見て、法を聞いて、説法、行法ができるよう願っています。 命の長短は何人もはかり知ることはできませんが、しかし広さと深さは自分で切り開くことができます。精進には深度があって、広く善縁を結ぶと広く展開します。  

一九六三年、私が印順導師に帰依した時、導師は私に「仏教のため、衆生のため」というお言葉を下さいました。その刹那、私は命のある限り、奉仕に身を尽くす決心をしました。五十三年間、どんな挫折や厳しいことにあっても甘んじ、歓喜心を持って向き合ってきました。そして、この一生限りでなく、来世また次の来世まで引き続き奉行することと。

慈済設立以来、毎月の旧暦二十四日は静思精舎の配付日です。花蓮地区に住んでいる長期ケアの家族に補助金と白米を配付する日でした。創立当時から、精舎ではこの日に薬師法会を行っています。その時は法会の後、おじやをふるまい皆は満腹になって帰っていきました。経済的に困難な頃の精舎は、たとえ米や食用油がなくても普明寺から借りておじやを作っていたのです。

ある配付の時、配付用の米袋が破れて床にこぼれた米を、功徳会に参加して間もないボランティアの静蓉が一粒一粒拾って台所の米びつに入れようとしたのを見て、私はこれは基金会がケア家族のために買ってお米だから、たとえ一粒でも精舎の米びつに入れてはならない、公私の別は明らかしなければいけないと注意しました。

静蓉は不思議に思って、「さっき炊いたおじやのお米は精舎のお米でしょう。それだったら私たちが食べているのは尼僧のお米ではありませんか? それならば精舎ではご飯を頂けません」と。

そこで配付が終わった後、みなに仏典の中のある話をしました。 

民をこよなく愛する慈しみ深い王がいました。深刻な日照り続きで、土地はひび割れ草さえ生えず、まして五穀などの収穫などありませんでした。そんな状態で飢えに苦しむ民を見て、王は大臣たちを引き連れ海辺へ雨乞いにいきました。しかしながら七日のお祈りにもかかわらず、酷暑の青空には雲一つ現れません。

国王は日増しに衰えている国民の飢えを見て、魚になって民を飢餓から救おうと願を立てられました。そして海に飛び込むと、間もなく大きな魚が潮の流れとともに岸辺へ打ち上げられてきました。岸辺で船を修理していた五人の人たちは、「村へ行って人々にこの肉で飢えを凌ぐように言ってもいいでしょうか」と。魚は承諾して「私は未来に終行を終えて成道した時、あなたたち五人を弟子とします」と言われました。

この国王が過去世においての仏陀で、五人の弟子は仏陀が鹿野苑において初めて法輪を廻した時の五人の比丘です。

仏陀は我が身を捨て衆生を済度する発願をなされて、生生世々その御身を衆生に供養されたのです。私は皆にこの話をしました。仏陀はこの大願をされましたが、仏弟子である私たちにできることでしょうか? 私の創立した慈済は「仏教のため、衆生のため」を理念としています。静思精舎の出家尼僧たちが、自力更生を貫き衆生に利益しているのは、私たちの発心立願です。   

慈済の立願から半世紀、この精神と理念は不動でした。私は知恵と法水を差し出して、慈済人が衷心から奉仕していることは、真心より私に供応していることになります。私たち師弟の間柄は浮き草のような縁ではなく、それは「法髄縁」、骨髄まで深く沁み入った法の縁です。 

皆さんがいつも立願している「生生世世師匠に追従する」「生生世世とも菩提の中に」は私たち師弟の間に交わされた約束です。この約束を達成するには、この生涯においては真面目に法を聴き真面目に奉仕して私と深い縁を結ぶことです。来世また次の来世にもこの願力を生活の上に定着させ、世間では人心浄化の使命を継続することです。  

 
NO.235