ネットがまだ普及しておらず、大愛テレビも開設されていなかった当時、「慈済月刊」は海外に住む慈済人にとって精神的な糧であった。それは彼らが開拓者として志業を展開する時の後ろ盾であり、社会の慈済志業への認識を早めることに役立った。
一九八〇年代後半、台湾の企業は海外投資を始め、経営者は事業に伴って海外に移住した。彼らは住む場所は見つかっても、言葉や生活習慣が異なり、国情や文化にも違いがあるため、心の中ではいつも孤独を感じていた。
一部の人は事業を展開するかたわら慈善活動をした。中には元から慈済ボランティアであったり、縁があって愛の心で第二の故郷に恩返しをするようになり、別の形の信仰と精神の拠り所となった。
インターネットがまだ発達してなかった時代では、彼らは「慈済月刊」を手に持って至る所で慈済や貧困救済を紹介した。当初、それは志業を紹介する唯一のもので、刊行物には貧困や病の救済、募金リスト、證厳法師の足跡、開示や智慧の説法などが記載されており、往々にして人々を感動させ、参加に導いた。
各国の志業はさざ波が広がるように発展すると同時に、月刊誌は波を大きくする効果を持ち、この半世紀、着実に助っ人としての力を発揮してきた。
マレーシア
「慈済月刊」を持って空路でマレーシアに
一九八九年、マレーシアで初めての慈済ボランティアとなった葉淑美は現地で就職していた。台湾に帰った時、上人に生活の不慣れを訴えたが、上人は「人が環境に適応すべきであって、環境が人に適応するのではありません」と励ました。
また、上人は「マレーシアにはあなた以外には慈済委員がおらず、慈済精神を携えて大いに発揚しなければなりません。人の土地の上に立ち、人の空の下に住むなら、現地に還元し、貧しい人たちを助けるべきです」と言った。
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●マレーシアの慈済ボランティアがセランゴ州クアラクルバル地区の障害者施設を訪れた時に撮った記念写真。マレーシアの志業は葉淑美によって始められ、今では木の枝が伸びて葉が生い茂るように、会員は100万人を超えた。まさに、「一から無量、無量は一から」を象徴している。
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当時、彼女は他人の借金を担保し、千六百万元(約五千五百万円)の負債を抱えていて、その上、夫が事故で負傷した。彼女に家計が重くのしかかり、四人の子供の養育のために身を粉にして働いた。そのうち、夫の会社がマレーシアに工場を建設することになって、子を台湾に残して移り住み、設置部の次長を担当した。
一人で異郷の地での辛さを感じ、夜には四人の子供を思って泣いた。しかし、現実を変えられないなら、自分が心の持ちようを変えるしかない。師匠の指示通りに慈善活動を始めた。
葉淑美によると、彼女は口下手なため、刊行物を使って慈済を紹介した。彼女は台湾から戻る時、必ず重量三、四十キロの「慈済月刊」と隔月紙の「慈済道侶」を持って行った。預ける荷物にいっぱい詰め、両手に大きな袋を二つ持って飛行機に乗り、クアラルンプールで乗り換えてペナンへ向かう。
ある日、彼女はクアラルンプール空港から国内線空港に向う乗り継ぎバスで、間違って違う方面のバスに乗ってしまった。バスの車掌が乗車賃を徴収しに来た時に気づき、バスから降ろされてしまった。
高速道路脇に立って、走って来る車に手を上げ続けたが、誰も止まってくれなかった。晴れた良い天気だったのに、突然、雨雲がやって来て今にも大雨が降り出しそうだった。彼女は心の中で祈り続けた。「私は雨に濡れても構いませんが、慈済の刊行物を濡らすわけにはいかないのです。法を伝承するのに使うものですから」
しばらくして一台のタクシーがやって来て停まった。彼女が刊行物を入れた大きな二つのバッグを載せ、ドアを閉めようとしたその瞬間に、バケツをひっくり返したような大雨が降って来た。
マレーシアはイスラム教国家で、中国語の書籍を厳しく制限し、イスラム教徒に対する布教も禁じていた。葉淑美は英語が達者でなく、マレー語もできなかった。税関を通る時、いつも不安な気持ちに襲われた。税関職員が荷物を調べる時、彼女は説明できず、いつもあれやこれやで長い時間がかかった。ある日、会社の同僚と同じ便に乗り合わせ、税関での説明を手伝ってもらったおかげで、刊行物を没収されずに済んだ。
やがて、葉淑美と共に慈済の活動に参加する人が増えてきたため、刊行物の需要も増えていった。檀香寺の法師の協力を得て、そこを刊行物の郵送先に指定したが、やはり税関に引き取りに行かなければならなかった。
李合鳳はいつも葉淑美と一緒に車で刊行物を取りに行ったが、税関で難題を吹きかけられることなく、順調に荷物を引き取ることができるよう、菩薩の加護を車の中で祈っていた。当時の困難と苦労は、数多くのマレーシア慈済ボランティアの心に深く刻まれた。
宝典として智慧を汲み取る
「早期、台湾からの刊行物は私たちの精神の糧でした」。一九九三年、マレーシア支部初代責任者となった郭済航は、「初め、葉淑美が彼を慈済に勧誘した時、とても苦労していました」と言った。彼の家業はダンボールの製造で、葉淑美と仕事で知り合ったが、彼女は台湾から持って来た寄付金の領収書を大きな封筒に入れてきた。中には「慈済月刊」と本が入っていたが、彼は一度も封を開けることはなかった。
父親が亡くなって一回忌の時、彼は新聞に追悼文を載せようと思い、本棚にある本を全部出した時、封筒に入った『静思語』と何冊かの月刊誌を見つけた。ある箇所を開いてみると、「生命は無常ですが、慧命は永遠です。愛は無限であり、精神は常に宿っています」という言葉が目に飛び込んで来た。
「父は突然亡くなったため、とても辛い思いをしました。そこで『永遠』という文字を見た時、父がまだいるように感じました。父は確かに『無限の愛』の中にいたのですが、当時、私は『慧命』が何なのか分かりませんでした」と郭済航が言った。呼応するように現れた文字によって、彼は慈済に対して好感を持つようになり、やがて貧困者訪問ケア活動に参加するようになった。一念の慈悲心が啓発され、上人の後を歩む決心をした。
一九九三年八月に花蓮静思精舎に行った時、彼は上人の手から観世音菩薩像を受け取ってマレーシアに戻った。それは「仏心師志」を引き継ぎ、全力で慈済志業を展開し、苦難に喘ぐ人々を救う功能を発揮していくことを意味していた。
郭済航は二十数年間、一冊も漏らさず、「慈済月刊」を読んできた。とくに「衲履足跡」は、彼が最も注意深く読み、心に響く箇所があれば、下線を引き、ページを折って目印をつける。そして、非常に多くの慈済に関する情報や目標、方向、各国支部の発展状況や国際災害支援など、月刊誌の報道内容は仔細にわたって深く掘り下げられており、彼はそれを慈済全体の状況把握に役立てている。
「私は以前、あまり読書をしませんでした。慈済に参加してから読書が大好きになりました」と郭済航が言った。彼は法脈精神に追随するため、真剣に「慈済月刊」を読むようになった。その情報流通のスピードがネットやテレビには叶わないとは言っても、それを手に持ってじっくり読み、そこに秘められた意味を咀嚼して理解することができるのである。
「最も貴重なのは、『慈済月刊』が報道している人物や出来事は、迷信からの目覚め、貧困救済または模範行動など、どれを取っても体験したことを文字にしており、文章を書いてから実践しているわけではないのです。故にどの文章を読んでも生き生きとしており、どれもが生きた人間菩薩の行動を表しています」
一滴の水が
石を貫通するほどの影響力
夫と共にマレーシア、マラッカで商売をしていた簡慈露は、一九九一年十二月に台湾に帰って美容院に行った時、何気なしに隔週紙の「慈済道侶」を目にし、慈済の善行に深く心を打たれた。その翌日、台北支部に行き、慈済病院の病室二部屋分の病床に相当する金額を寄付した。そして、受けつけたスタッフに「マレーシアに慈済ボランティアはいますか?」と聞いた。
転々と回って葉淑美に連絡が着き、翌年十月に彼女の付き添いで慈済台中支部にいた上人と会見した。その時、ちょうど中部地区では栄誉董事懇親会が開かれていたが、会場の活気に満ちた雰囲気に彼女も感化され、直ちにマレーシアにいた夫の劉済雨に電話して、栄誉董事になって多くの人を助けたいと言った。劉済雨はそれを聞いて、「帰って来てから話そう!」と彼女に理性的になるよう引き留めた。
彼女がマレーシアに戻り、台北で見聞きしたことを聞いた後、会社の社長をしてきた劉済雨はそれ以上、相手にしなかった。彼は妻が従業員を連れてあちこちで忙しく貧困救済するに任せた。そして、彼女は故意か無意識か夫に話して聞かせた。「ある可哀想な身体障碍者に対してボランティアがどういうケアをしているか」「あるお年寄りは目が見えないのに水を担いで自立しており、とても敬服する」……。劉済雨は聞くうちに、ケアケースのレポートを手に取って見たが、写真の撮り方が下手だと思った。撮影に長けていた彼は勇気を出して、「僕が写真を撮ってあげるよ」と申し出た。
その後、簡慈露がボランティアたちと訪問ケア活動をする時、劉済雨が同行して記録係となった。彼は写真撮影や録画だけでなく、レポートを書いて当時の刊行物に載せた。正真正銘の「三合一」ボランティアとなった。
一九九三年十一月、劉済雨が静思精舎で上人に会見した時、上人の巨視的な志と優しい物腰を目の当たりにして、心から喜びを感じると共に敬服し、その場で帰依した。その時から上人の弟子となった。
後に劉済雨は工場に隣接する土地を慈済の静思堂建設用地に寄付し、その数年後、縫製工場を閉めて、全力で志業に投入すると共に、工場跡地を慈済の施療センターと地域教育センター用に寄付した。「事業は良くても悪くても心配の種でした。いっそのこと、布施してしまえば、得失に悩むこともなくなります」と劉済雨が言った。
今、簡慈露はマレーシア・クアラルンプール支部の執行長で、ペナン支部の郭済縁、ジッダ支部の劉済旌、マラッカ支部の林慈恬らと共に、上人が期待している「愛に満ち、一丸となったマレーシア」を実現するために、マレーシア全土の慈済ボランティアと共に愛の募金を始めた。二〇一六年には百万人の会員目標を達成し、二〇一七年はさらに躍進して百四十万人以上を目指している。
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●マレーシアの慈済ボランティアは自国のケアだけでなく、国際災害支援にも協力している。ミャンマーで発生したサイクロン・ナージス災害では、緊急支援から長期的な付き添いまで、足を止めることはなかった。写真はボランティアが高温の太陽の下で、キヨクタン郡ウイン村のケア世帯を訪問した時のもの。
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この大きな実りに簡慈露はとても感謝し、感動を覚えている。ボランティアは各地域で一軒ずつ回って愛の募金を募り、街の路地や市場では月刊誌を手に、道行く人や露天商に慈済の紹介をしているのを見かける。たとえ拒否されても臆することなく、人種を超えてマレー人やインド人を誘って善行している。この勇猛な精進は正に台湾慈済初期の「竹筒歳月」に携わっていた家庭主婦とよく似ている。
簡慈露は当初、「慈済月刊」を見て感動したため、今でも印刷されたメディアを重視している。一九九九年、彼らはマレーシア版の「慈済世界」月刊誌を創刊し、マレーシアにおける慈善、難民ケア、施療、リサイクル活動及び実在の人物の物語などを報道しており、今までに二百号以上を発行した。
映像メディアは伝達力が大きくても、一瞬のうちに簡単に消滅してしまう。しかし、印刷メディアは音を出さずに説法し、その素晴しい法はいつまでも新鮮で、役に立つものだと簡慈露は思っている。
現在、マレーシア版「慈済世界」の計画を担当している張傳溢は、「実際にどれだけの人が月刊誌を見て慈済に参加するようになったかを数字に表すのは難しいかもしれませんが、少しずつ影響することは、水滴が石をも貫通するように、少しずつ見えてくるものです」と言った。
張傳溢は大学生の時、慈青(慈済の学生ボランティアチーム)に参加していて、いつも月刊誌を読んでいた。「文字による報道は深みと隠された意味があり、何物もそれに取って代わることはできません」と言った。編集部の同僚もよく、台湾の「慈済月刊」関係者と交流し、訪問ボランティアの実務経験を「人助け最前線」というコラムに載せて報道している。また、現地の人助けの話も選んで載せている。「台湾の月刊誌と比べて、私たちはまだ未熟ですが、報道を通じてより多くの人が善行に参加するよう期待しています」
インドネシア
善女が貧困救済を始めた
インドネシアでは数人からなる女性軍が慈済志業を展開した。一九九三年、劉素美は夫と共にインドネシアで靴の製造会社を始め、子供たちはジャカルタの台北国際学校に通った。台湾から来た慈済委員の梁瓊とはそこで知り合った。
梁瓊はいつも台湾から「慈済月刊」を持ち帰り、台湾からの奥さんたちがそれを回し読みしていた。劉素美の住まいは台北国際学校のすぐ近くにあった。台湾人の奥さんたちは子供達を学校に送った後、彼女の家に集まっていたが、やがて家に小規模な図書室ができた。劉素美は全ての月刊誌を番号順に並べて皆に閲覧してもらい、誰かが読み終わると元の場所に返し、また次の人が読むという具合だった。
「当時、月刊誌はとても貴重なものでした。インドネシア政府は中国語教育を禁じ、空港で中国語の本を持っていても没収されました」と劉素美が言った。異国に暮らしていると、中国語の文字を見ただけで親しみを覚え、中国語の新聞を見る時は広告まで読んだ。一種ホームシック的な感情である。そして、台湾に帰る度に彼女はスーツケースにこっそり月刊誌を数冊忍ばせ、発見されなかった時は運が良かったと喜んだ。
彼女たちも慈済の活動を始めた。梁瓊、劉素美、高寶琴、張春鶯、李淑娟は養老院や孤児院の訪問から始め、次第にジャカルタの田舎に行って、肺結核の患者に薬を施したり、栄養不良の子供達に食糧を与えるケア活動を行った。環境に不慣れで、インドネシア語も片言しかできなかったが、笑顔で通じ合えた。
スハルト大統領時代、民衆の集会が禁じられた。一度、彼女たちが集まって案件を討論していた時、移民局と警察に目をつけられたが、後に善行していることを知ると、見て見ぬふりをしてくれるようになった。しかし、ある日、情報局が台北国際学校の副董事長に事情を聞いたため、早く正式に許可をもらう必要があると感じた。
個別訪問や小規模の物資の配付活動から大規模な施療活動や学校の支援建設まで、初めの六年間は男性ボランティアが極度に不足していたので、女性たちがほとんどの任務を担当した。かつて台湾の大学で学んだ華僑の賈文玉は、その時に初めて参加した。彼女は勤めていた金光グループの創設者である黄奕聰と息子の黄栄年に慈済を紹介した。親子は台湾で上人に会見してから、従業員に対して慈済の活動を手伝うよう奨励した。
一九九七年、アジアで金融危機が発生した。インドネシアでは多くの工場が閉鎖し、多数の解雇者を出したため、失業者が増加すると共に、その翌年、大規模な暴動が起きた。しかし、慈済の女性たちは台湾に避難することなく、長期ケア世帯の世話を続けた。
「暴動が発生する直前、私たちはジャワ中部で大規模な施療活動を行っており、数千人に奉仕していました。その晩、ジャカルタに戻ると、あちこちで焼き討ちに遭ったのを目にしましたが、怖いとは思いませんでした」と高宝琴が言った。恐らく、戦争体験がなかった故にのんびりしていたのかもしれないが、事態が拡大するにつれ、その深刻さが分ってきた。
暴動が収まると、上人はすぐに智慧のある決断を下した。インドネシア現地で物資を買いつけ、八つの国から集まったボランティアが力を合わせて十万人分の米と物資を貧困者に配付したのだ。「インドネシアの問題は人種問題ではなく、貧富の差があまりにも大きかったからです」と上人は一言で問題の核心を突いたので、ボランティアは大いに敬服した。
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●2002年に世紀の大洪水が発生した後、インドネシアの慈済ボランティアは現地住民と協力してアンケ川を清掃した。それがきっかけとなって、慈済は現地の華僑実業家たちによる恩返しを引き出し、今では大愛村、学校、病院、テレビ局の建設など、4大志業が揃っている。(攝影/顏霖沼)
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二〇〇二年、ジャカルタが大洪水に見舞われた。高宝琴は「慈済月刊」に投稿した。「溢れた水の中をゴムボートに乗り、泥の中を歩いて、六日かけて昼夜を通して作られた一万個のおにぎりを一つずつ被災者に手渡していました。緊急支援が一段落すると、米袋を使って風雨を凌いでいた二十人以上の大人から子供までのことが気にかかりました。嵐で家が倒壊したお婆さんはどうしているだろうか?」。その行間に慈悲心が読み取れた。
洪水が過ぎても市街地は水が退かなかった。上人はアンケ川の清掃を指示し、「水の汲み出し、清掃、消毒、施療、住宅の建設」という五段階で行われた。当年八十歳を過ぎていた、人望の高い金光グループ創設者の黄奕聰董事長が呼びかけたおかげで、数多くの華僑実業家がこぞって寄付し、支援した。「ミスター・ノープロブレム」の郭再源はその時に参加した人である。
台湾版をコピー
「華僑排斥暴動は大きな警鐘でした。上人が私たちに指示したのは、愛で憎しみを止め、積極的に『恩返し』することでした」と郭再源は「慈済月刊」で語っている。
上人は華僑に対して、「現地で物資を仕入れ、現地で使う」原則を守るよう念を押した。とくに実業家たちが有する資源は多く、発揮できることは多い。彼は「キンカレン大愛村」の再建計画を引き受け、アンケ川沿いの不法住民を移住させると共に、地域内に施療センター、大愛学校、モスクなどを建設して被災者を入居させた。
そして、実業家たちは引き続き、発心して土地を買い、慈済パークの建設資金を募った。その中央には精神の象徴である静思堂が建てられ、両脇に病院と学校、そして、インドネシア大愛テレビ局も建てられた。それは慈済が台湾で展開している慈善、医療、教育、人文の四大志業建設と同じで、全てをインドネシアにコピーし、二〇二〇年に全て完成させる予定である。
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●2015年、ネパールで大地震が発生した。インドネシア慈済人医会の医師たちは被災地で施療活動を行い、傷ついた被災者の体と心を癒した。 |
「善行は人としての本分に過ぎません」。賈文玉は月刊誌でその言葉を見た。彼女は長い間、黄奕聰董事長の祕書をしてきたお陰で、数多くの実業家を慈済に誘うことができたのだ、と言った。「インドネシアの志業は迅速に発展しましたが、最初は種を蒔く人がいて、それに続いて善意の華僑たちがいたからです」
現地の華僑として、インドネシア人と華僑の間の溝を埋め、誤解を解いて社会を改善することは、実は自分を助けることなのだ、と彼女は悟った。
郭再源によると、奉仕して初めて「得られる」のである。今、慈済はインドネシアでは既に信頼を得ており、災害が発生すると、政府はすぐに慈済に協力を要請してくる。双方は何度も一緒に他の国を支援してきた。ネパールを例にとれば、インドネシア軍は輸送機を提供して慈済のためにテントや毛布を輸送した。
現在のインドネシア支部の執行長である劉素美は、「一九九八年の華僑排斥暴動での危機が転機に変わったのです。アンケ川の清掃も一大転機でした。慈済がここまで来られたのも、数多くの人に感謝しなければならないのと同時に、縁が成就したからでもあるのです」と言った。
当時を振り返ると、女性たちが恐れを知らず、黙々と愛を行動力に変えていた。今はこんなにもたくさんの現地華僑が力を注いだおかげで、インドネシアの慈済志業は大きく輝き出している。それは「一から無量が生まれる」道理を立証したものである。(つづく)
(慈済月刊六〇九期より)
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