犯罪が起きる原因を無視すれば、
犯罪は起こり続け、
社会は大きな代価を払う羽目になる。
慈済ボランティアは一人ひとりの受刑者に耳を傾け、
正視して理解し、「感謝、尊重、愛」の心を啓発して、
争いごとをなくすと共に、
魂を迷いから解脱させている。
「なぜ刑務所でボランティアをするの?」「刑務所は磁場が悪いと聞くけど、体に悪い影響はないの?」。人々は好奇心で質問する。確かに、刑務所は司法によって刑罰を実施する場であり、社会の暗がりと称される所である。刑務所にいるのは、刺青を入れ、肩で風をきって歩くヤクザの親分のような人達である。牧師や宣教師以外の人は、できるだけ近づかないようにしているのに、何を好き好んで自ら刑務所の中に入ってボランティアをしようとするのか?
私が刑務所でボランティアをしていることを聞くと、人々は「こんなに小さい体で、人質にされたり、報復されたりするかもしれないよ、怖くならないの?」と聞く。まず最初の反応は、信じられないというもので、それから、すごいねと言い、最後には、無理せず身の安全に注意するように、と言う。
犯罪者の更生支援に携わるようになってから、魂がさまよった人が、まるで台所を出入りするように刑務所と社会を行き来するのを見て、とても残念に思う。こんなに生命力のある人なら、本来自由自在でいるはずなのに、なぜ社会の淵に転げ落ちたのだろうか。彼らはなぜそこから這い上がれないのだろうか。彼らには宿命を変える可能性はないのだろうか。どうやって支援したらいいのだろうか。
紺と白の制服に身を包んだ慈済ボランティアは、雨の日も風の日も宜蘭刑務所を訪れている。まるで、青い鳥が鉄格子の内と外を忙しく出入りし、愛と思いやりを届けているようだ。鉄条網が張り巡らされた高い塀の中に、人間の本性の輝きと大愛を見た。人々から忘れ去られた刑務所で、彼らは美しい命の歌を作り出し、最も困難な環境の中で生きていく希望を見出している。
いったい、どんな固い信念があって、彼らはここまで無私の奉仕してきたのだろう。家族に見捨てられた受刑者に対してさえも、家族同然に接することができるのか。
受刑者の「人生教育」と「品格教育」を定着させるために、宜蘭の慈済ボランティアは長期的に刑務所側と更生活動を企画した。積極的な教化クラスへの参加、収容棟全体の世話、芸術や職業訓練クラスの開設、読書会の宣伝、灌仏会の催しなどがある。
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●以前、受刑者は監房に戻っても何もすることがなかった。寝るまでぼーっと座っているだけだったが、今は大愛テレビを中心に良質の番組を視聴することができ、毎日善のエネルギーを吸収している。また、大愛ニュースを通して、社会で起きていることも知ることができるようになった。 |
当初、彼らはステージの下にいる百人近い受刑者の目線と刺青が怖くて、あまり多く語れなかった。しかし、真心のこもった長期にわたるサポートが、受刑者の冷たく閉ざされた心を溶かした。
沈秀娟師姐によると、「刑期が長い受刑者の多くは家族に見捨てられていますが、そういう人こそもっと家族のように思いやるべきです。社会にはまだ温情があり、出所して行く場がない時は、慈済に助けを求めることができるのだと知ってもらうのです。彼らが再び悪の誘惑や、プレッシャーを受けた時、慈済ボランティアが適時に的確な助言をし、手を差し伸べることができれば、再び同じような過ちを繰り返さないで済みます」
慈済ボランティアで実業家の劉鐙徽は、「逆境に立たされても、簡単に己をあきらめず、挫折を成長のステップにし、一日も早くここから出て、社会に貢献できる人になってください」と述べ、受刑者を励ました。
罪と罰、善と悪
刑務所の収監者の大半は薬物常習者で、少年院の収監者は学校を中退した者の割合が高い。司法は「社会モラルの最後の防波堤」とはいえ、はたして刑罰は人々が期待しているような正義と公理なのだろうか?
犯罪者を隔離したり、罰したり、高い塀と鉄条網のある刑務所に監禁したりすることは、必要である。とは言え、社会は犯罪者を罰することで美しくなっているわけではなく、むしろ犯罪は次から次へと起きている。
適切な解決策を探さずに、犯罪の発生を許しておいてもよいのだろうか。犯罪が起こる原因を議論せず、純粋な子供が人を殺めた原因を突き止めなくてもよいのか。はたして悪いのは犯罪者その人なのか、それとも周りの人達への憎悪から出た反撃なのだろうか。人々を怯えさせる犯罪は、犯罪者が過去の耐え難い経験から、自己解放のために生み出したものではないのか。
ある研究報告によると、大半の受刑者は社会の底辺で、さまざまな辛い目に遭ったため、自分を愛することができなくなった。自分を愛せないために、自分を傷つけることによって、感情のはけ口を見つけたのである。大人になって行動に移せるようになった時、彼らは人を傷つけることで、心の欠陥を満たすのだ。結果として、社会は計り知れない悲惨な代価を払わされることになる。
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●受刑者のことを気にかけ、時には小言も言う慈済ボランティアは、受刑者にとっては母親のような存在だ。。(撮影/頼振豊) |
慈済ボランティアのユニークな考え方は、思いやりで個々の収容者を理解し、その声に耳を傾けている。彼らは人と人のお互いへの感謝の気持ちによって、世の中の争いごとをなくせると信じている。尊重されてこそ、どんな極悪な罪人も癒される。そして、愛があるからこそ、魂が迷いから解放されるのである。
慈済は人への思いやりを出発点に、弱者家庭に援助とサポートを行っている。これは、一刻も待てない急務であり、それによって社会の構造の欠陥を徐々に改善している。受刑者の収容施設がもっと現代の刑の執行理念に合うように、慈済ボランティアの善の行動がきっかけとなって、社会がもっと刑務所の中の人々に関心を寄せるよう願っている。
時間は最高の鎮静剤であると私は信じている。時間が経つにつれ、人が持つ善良な本質が表に現れてくる。人生は誰にとっても簡単なものではない。しかし、どのような環境におかれても、鉄格子を出入りして愛を届ける青い鳥のように、いつの日か、感謝、尊重、愛の支えの下に、人生の最適な出口を見つけることができるだろう。体は刑務所に閉じ込められていても、自由な心の扉さえ開けば、拘束されていた魂は自由に外へ羽ばたくことができる。
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