柴を担う、水を運ぶことは全て禅です。
今を集中し、法は生活の中で。
衆生は仏と同じように知恵を持っています。上人は早朝の勤行で、「仏の御言葉を信じ、仏の心と智慧を通じ合い、仏法を実行し、人々と良い縁を結びながら、衆生の煩悩の中にある菩提の種を見出すのです」とおっしゃいました。
煩悩は即ち菩提であり、群衆の中にあってこそ清らかで素晴らしい知恵を見つけることができます。蓮の花が汚泥を栄養素として咲くように、群衆が修行の道場であり、衆生の煩悩は私たちを仏とならせる功徳の源です。煩悩に染まらないようにするには、仏法の水で心の畑を耕し、心の中にある無明を希釈するのです。それによって、生と死の流れを渡りぬいて、衆生を知恵の彼岸へと導くことができます。
野菜を栽培する時、雑草は敵でもあり友達でもあります。雑草は野菜の成長を妨げることもありますが、完全に悪いものではありません。それを善用し、土の中に埋めれば、野菜にとって最高の栄養分になります。
これとは対照的に、心に芽生えた煩悩の草は心のゴミのようです。煩悩が心に根づいていれば、煩悩は絶えず複製されてゆき、ついには清らかな本性を覆ってしまうのです。煩悩は苦しく難儀なものですが、悪い友ではなく、慧命の栄養分となるものです。それを利用し、乗り越えていくと、慧命の資糧となっていくのです。苦しみがなくなれば災難はなくなります。煩悩を断てば、菩提が見えてくるのです。
苦しいほど成就は大きいものです。苦しければより多くの感謝の心を持たなければならないのです。感謝の気持ちがあれば智慧が生まれます。すべての人々や物事に対して、善を以て理解し、寛容であれば、自然に「どんな場面に対しても感情的にならない」と思えるようになります。善を行うにあたっても、思慮に欠けることなく、悪いことに遭遇しても、気にしません。考え方を換え、何事も自分から喜んで受け入れれば、煩悩を乗り越えることができ、菩提に至るのです。
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