一九八〇年代に臓器移植が始まった台湾は、アジアで初めて臓器移植手術を行った国である。その中でも複雑で高度な技術が必要な骨髄移植は、医療技術のほかに、善の心を持った人々との縁に広く頼らなければならないものだった。
骨髄移植は白血病や血液腫瘍疾病の患者が家族の中からマッチする白血球抗原(HLA)を探し出すのが通常である。家族が少ない場合には親族に対象を広げるが、マッチの成功率は低く、非親族間による造血幹細胞移植に頼らざるを得ない。
骨髄移植が成熟している欧米では、政府のサポートのもと大型の骨髄バンクが開設されている。しかし人種が混じり合っているため、なかなかマッチしたHLAを見つけることは困難である。一九九二年、台湾から米国に留学していた温文玲さんが白血病にかかり帰国した。温文玲さんは、骨髄寄贈が三等親に限られていた当時の臓器移植条例を修正してほしいと政府に嘆願した。一九九三年、正案が通過し、白血病患者と家族の期待が集まる中、政府の委託により慈済骨髄バンクセンターが設立された。アジア唯一の民間の骨髄バンクの誕生である。
骨髄バンクの設立は非常な困難を極める。莫大な資金がかかるほかに、台湾人の風俗習慣である固定観念を打破しなければならないという難題があった。まずドナーを募集して採血しバンクに登録する。だがドナーには年齢制限があり、マッチの確率を高めるためにはバンクに大量の骨髄液を保持しなければならず、ドナー登録者探しに奔走した。
最大の難題は固定観念の打破と宣伝である。台湾人は「髄」は体の精力を保つために必要な元素だと考え、骨髄液を抽出することは健康に害をもたらすと信じている。また儒教の影響で、体の一部を取り出すことは親不孝な行為であると考えている。そのため、ドナー本人が骨髄を寄贈しようと思っても、家族の強い反対によって阻止されることが多々あった。たとえHLAがマッチしても、毎年その半数以上が各種の原因により、移植手術までは至らない状況だった。
その中で立ち上がって奔走したのが、慈済ボランティアだった。彼らはドナー募集の段階で詳しく丁寧に説明し、登録後マッチした場合にはただちにドナー登録者を訪問し、たとえ門前払いされても粘り強く頼み込んでいた。そして手術が決まると、移植手術の前から後までドナーに付き添い、様々な過程を共に乗り越えてきた。
設立から二十三年目、慈済骨髄幹細胞センターは、世界骨髄ドナー協会の認証を受けた。現在ドナー登録者は四十一万人以上に及び、骨髄や周辺血の移植例は四千五百人に上っている。その中の大半がアジア、ヨーローパ、米国など三十カ国の海外に寄贈され、二千八百例が成功している。
骨髄移植に対するさまざまな誤解もインターネット上に溢れているが、慈済は白血病、造血幹細胞の寄贈と移植に関する正しい認識の伝達に努めている。また、台湾で設立された骨髄バンクの重要性と現状も知らせている。そのほか、慈済はドナーと患者が対面する感動的なイベントも行っている。
《無量義経》の「徳行品」に、「法の内外においては吝嗇なく、頭目髄脳悉く人に施す」とある。その境地は慈悲情義の極致であり、医療科学と四方八方から寄せられた善心によって実現したものである。
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