慈濟傳播人文志業基金會
逆境に感謝しよう

いかなる苦しみや困難も堅い意志で克服すれば、ついに道が成就されます。

 

先日の早朝、證厳法師は《法華経ティバダッタ品》の話をされました。ティバダッタは僧団の中ではとりわけ聡明活発でしたが、彼は自分の才能を見せびらかし、人気が仏陀より勝って人々から尊敬を受けられるよう願っていました。彼は僧団を分断させ党を組み、果てはアジャセ太子をそそのかして位を奪い取ったうえ度々仏陀に危害を加えていました。

ティバダッタは良からぬ心と行いによって、とうとう地獄に落ちました。しかしながら仏陀は彼のために授記をし、これを見た人々はこのような人間が成仏できるのだろうかと疑問に思っていました。

「人にはもともと仏性が備わっており、例え悪人でも成仏の可能性があるのです」と法師は話されました。仏陀がティバダッタに授記されたことは「心、仏、衆生の三者に違いはない」という道理を明らかに示していると話されました。

ティバダッタが生々世々に亙って仏陀に害を及ぼしたことに対して、仏陀が感謝したのは、それによって六波羅蜜が完全に具わり道を究めることができたからでした。「『玉は磨かなければ器にならない』と言われているように、ティバダッタの鋭い刀にも耐え、いかなる苦しみや困難も堅い意志で克服して、ついに道を成就されたのです」と法師はおっしゃいました。

法師はまた、釈迦牟尼仏が修行したことは自分自身のためでなく、天下の衆生が法を求めるためには、その身がどうなっても喜びであり、悔いはなかったとおっしゃいました。仏に学ぶ者は心して法を聴き、心の中の煩悩を改めなくてはなりません。煩悩をいかにして改めたかは、その動作や言語を見ると分かります。ですが、心にある無明をどうにか取り除いたとしても、自分が置かれた環境に影響を受けずに動揺しないでいられるでしょうか。これは試練を辿るほかありません。世の中の複雑な出来事に出会っても、心の中に法があれば、道理に合った行動で煩悩無明をことごとく取り除くことができます。「煩悩を取り除いてこそ、環境のままに悪業を造り、修行の道を行きつ戻りつしません」と法師はおっしゃいます。

法師は、寛大な心を持って人々に向き合うようお教えになりました。「他人の習気がどうあろうと、どんな過ちを犯そうと、広い心で受け入れて、憐れみ、恨まないことです。自分の煩悩無明を取り除けば、衆生を済度することができます」

 

餅を描くよりも作ろう

 

仏陀は過去世において宝海にお生まれになっても、その清らかな志は未来の濁悪な世界の中にあり、衆生済度を強く発願しておられました。法師は台湾北部の慈済人との談話の中で、現在の人心と貪乱な世界はまさに仏陀の言われた濁悪世界であり、人心を浄化しなければならない事態であると話されました。

「紙に描いた餅はどんなに綺麗に描かれていても食べることはできません。美味しいお餅を作って、必要とする人に贈らなければなりません。人心浄化も口先で言うのではなく、行動に移さなければなりません」

慈済の創立当初、どのように餅を作ればよいかも手探りで、竈があれば小麦粉を探し求めて練り餅を作って、必要としている人たちに上げていましたし、静思法脈、慈済宗門は口先で唱えるのではなく、実際の行動によって造り上げてきたのです、とおっしゃいました。

体が栄養を必要とする時は、自分で栄養物を口に運ばねばなりません。心霊も体験し成長させると、奉仕と善行を発心し、実際の行動に移すことができます。

仏教は人生の灯火ですが、煩悩は自分で取り除かねばなりません。法師は、ある人は仕事がよくできるが、習気が強いため煩悩と無明を引き起こしていると言われました。「心して善事を行い、見返りを求めない奉仕をしても、もしも習気を改めなかったら、日々の暮らしの中で煩悩が生じ問題を起こします。困難に出会っても恐れるには足りませんが、人心の不調は恐ろしいもので、調和がとれていなければ何事も成し遂げることは難しいものです。

仏陀は生々世々にわたって法を求め、常に修行し精進しておられました。法師は、「心すべきことは習気を取り除き、煩悩無明を心の中に取り込まないこと。法の意識だけを心田に植えつけるように」とおっしゃっています。

 

(慈済月刊六〇二期より)

NO.243