慈濟傳播人文志業基金會
ボディビルダーが 大理石ベビーに出会った時
洪文彬 43歳 ジムインストラクター
黄彦銘 9歳   小学生
 
彦銘は移植後、順調に回復した。活発に動き回る善良で純真な子である。
数年後、骨髄ドナーと対面した時、双方の長年の願いが果たされた。
 
弱視の黄彦銘は敏感な手で触ることで、命の恩人が屈強な筋肉の持ち主であることが分った。

造血幹細胞移植を受けた彦銘が発病した時は六カ月だったが、病気と闘って八年が過ぎた。今は健康な可愛い九歳の男の子である。

発病当時、身長は六十センチ余りで体重は七、八キロだった。幸いにも辛い治療の過程は小さかった彼の記憶には何も残っていない。忘れるということは時には保護の役目を果たす。

彼が成長する間、両親はその事実を語ることはなかった。子供がすくすくと朗らかに育ってくれればいいと思っていた。名も知らない命の恩人にお礼を言いたくても方法がなく、心で感謝しながら、新たな命を吹き込まれた子供の養育に努めるだけだった。

台湾の別の所では、四十三歳のボディビルダー洪文彬が毎日のトレーニングに勤んでいた。ここ数年、国内とアジアのボディービルディングの大会に出場し、優勝を飾ったこともあった。八年前、彼は造血幹細胞のドナーとなったが、「誰に移植したのか? その後生きているのか?」が彼にとって長年の「謎」だった。

二〇一六年、突然「骨髄移植患者とドナーとの対面」活動への招待状が届いた。それは「命の接点」を見つけても面識のなかったドナーと患者にとっては、「天から落ちて来た贈り物」に等しく、双方とも面会できるこの日が来たことに信じ難い気持ちであった。

文彬はついに長年の懸念を払拭することができた。「相手は生きている! 自分はその人を助けることができたのだ!」。彦銘の両親もまた、この世に自分の命を救ってくれた人がいることを彦銘に知ってもらうために、活動に連れて行き、相手に感謝することを決めた。 

 

不幸と幸福

 

王馨黎は妊娠期間中、異常出血が続き、数カ月間の安静の末、幸いにも彦銘を生むことができた。

夫の兄弟姉妹には子供がなく、その子の誕生は両親にとって「金孫」だった。しかし、健康そうに見えた金孫は三カ月の時、眼球の小刻みな振動と肝臓、脾臓の浮腫みで入院し、検査したところ、「乳児性悪性大理石骨病」、すなわちち俗に言われる「大理石ベビー」と診断された。

「誕生の喜びも束の間、雲の上から谷底に突き落とされました」。少女時代からの憧れ、新婚の幸せ、そして子供が生まれた喜びは一瞬にして残酷な現実に引き裂かれ、落胆と涙に暮れた馨黎と夫はすぐさま子供を入院させた。医師は慈済骨髄バンクでマッチングする相手を捜すことを提案し、造血幹細胞移植が生存の唯一のチャンスであると言った。

早く移植を受けないと異常な骨は増殖し、骨細胞は正常な空洞状態から隙間のないほど密度が高くなってしまう。それは大理石のように硬くて脆く、子供の頭は大きくなっていく。

母親の馨黎はもう一人子供を産んで、その臍帯血を使って彦銘を助けられるのではないかと考えた。しかし、長い妊娠期間を伴う兄弟の生産は一分一秒の急を要する治療には向いておらず、結局その考えは打ち消すしかなかった。幸運にも彼らは早い時期に良い知らせを受けた。慈済骨髄バンクから六人のドナー登録者のHLAがマッチしたのだ。

馨黎は、苦労して探してもマッチする人が現れない場合や誰か探し当てても寄贈したがらない場合もあることを知っていた。しかし、彦銘はそのような困難に出会うことなく、稀な病気を宣告されてから一カ月半後に迅速に移植手術を終えることができた。医師によると、台湾では大理石ベビーは六人しかおらず、彦銘はそのうちで最も若い患者だという。

視力障害のため、黄彦銘は学習や読書の時、顔を教科書やスクリーンにくっつけるほど近づけて初めて見えるのだ。(攝影・郭明娟)
 

ハラハラした百日間

 

病院では医療チームが二十四時間態勢で治療に当たった。退院してからは馨黎が一手に世話を担ったが、「毎日が挑戦でした」と当時を振り返る。移植して三カ月の間、彦銘は頻繁に嘔吐と脱水症状、救急治療、入院を繰り返した。「百日を乗り切ることができるかとても心配でした」。愛する我が子と将来のことを思うと、焦らずにはいられなかった。

末梢気管支炎のため彦銘は毎日何回も嘔吐した。嘔吐する度に馨黎はシーツやかけ布団、衣類を洗濯した。その上、毎日壁や居住空間を消毒したため、手足の皮膚が赤く裂けてしまい、最後には雨靴を履いて家事をした。

「あの時期、スーツケースを出しっぱなしにしておきました。いつ何時入院しなければならないかもしれなかったからです」。スーツケースの中身は全て彦銘の衣類や必要品で、救急外来や急に病院に行く時に備えていた。

子供が生後わずか六カ月からほかの子供よりも勇敢な人生を歩み出したのだから、「私は息子よりももっと勇敢でなくてはならない」と馨黎は自分で自分を奮い立たせた。

ハラハラしながらも難関の百日を乗り切ることができた。馨黎はすぐに彦銘のリハビリ治療の予定を立てた。骨石灰症の患者は、往々にして神経が圧迫されて視力や聴力障害が起きる。移植手術を受けた時の彦銘はほとんど目が見えず、頭を一秒間もたげるのも困難だった。早期の集中治療と刺激を与えるリハビリでやっと徐々に身体活動が増えた。 

 

決断は正しかった

 

八年後の今、彦銘の両目の視力は弱く、顔を物にくっつくほど近づけないと、はっきり見えない。馨黎は彼により良い視力障害者教育を受けさせるために、台北で部屋を借りて学校に通わせた。一般教育と視力障害者向けの学習及び自立した生活能力を身につけさせた。

彦銘は病気で視力に影響が出たため、学習が少し遅れがちだったが、先天的な常人を超えた数字に対する感度と記憶力は傍目には天才と映った。

一家の大事な金孫が稀な病気にかかったことで、子供の母親、また嫁として、馨黎は大きなプレッシャーを感じて来た。「もし子供が助からなかったら離婚してください」と彼女は夫とこんな約束をしたことがある。あの見知らぬ命の恩人は子供一人を助けただけでなく、その子の両親の婚姻をも救ったのだ。

ボディビルダーである文彬は引きしまった体と若い顔立ちに太陽のような笑顔を浮かべた人である。八年前、突然、慈済ボランティアから電話が来て、一人の患者とマッチングしたことを聞いた時は、以前骨髄ドナーの登録をしたことをほとんど忘れていた。

彼は十七歳の時、スポーツ中に座骨神経を痛め、しばらくベッドで療養したことがある。骨髄を寄贈するに当たり、妻も脊髄液を抽出する時に神経を損傷しないか心配だった。しかし、ボランティアが訪れて、造血幹細胞寄進の説明を詳しく聞いてから二人とも安心した。脊髄液を抽出するのではなかったのだ。

骨髄ドナーとなることを決めた時、文彬と妻は古い考え方を持ち、子供を護ることが最優先のお年寄りたちには、この事を話さないことにした。そうでないと、この人助けという善意に変化をきたすかもしれないからだった。

 

鉄アレイが初対面の贈り物

 

二〇一六年十月十五日の初対面の日、彦銘と文彬の双方の家族は壇上で、諸々の出来事が一度に解決した。

文彬が目の前の子供を見た時、骨髄を寄贈した時のことを思い出した。すぐに造血幹細胞の必要量に達したのである。彼は相手が小柄な人か子供だと推測していたが、今日その答が出た。

馨黎は命の恩人の屈強な体格を見て、彦銘が移植を受けた後、比較的拒否反応が少なく、体力の回復も順調で、朝から晩まで活発に動き、昼寝もしなかった理由が何となく分かったような気がした。

八年前、文彬は大林慈済病院で造血幹細胞の抽出時間の最短記録を作り、彦銘も台南成功大学病院で最も若い移植患者の記録を作った。

体格が全く異なるドナーと患者は壇上では共に口数が少なかったが、席に戻ると打ち解けて話をした。来場する前、文彬は助けた相手がこんな小さな子供とは知らず、特別に三キロの鉄アレイを二つ選んで持って来た。体が丈夫になるよう相手を励まし、初対面の贈り物にしようと思ったのだ。視力の弱い彦銘は顔を近づけ、文彬小父さんの筋肉を珍しそうに手で触った。

壇上でのやり取りを見ていたボランティアはとても感動した。長年の骨髄関係の仕事で数多くの人間性と情熱を見てきた。何度も危機を乗り越えて来た彦銘の両親も、骨髄ドナーとなって人助けすることに前向きだった文彬夫婦も、その後の人生で悔いを残すことはないだろう。

造血幹細胞を寄贈した縁で、2つの家族に特別な血縁の家族関係ができた。写真左から黄彦銘の父親と母親、そして洪文彬と妻。
 
NO.243