診療を求めひっきりなしにやって来る患者が多い、物資配付券を手にした難民が押し合う。
ボランティアは問診、薬の調合、物資の配付に休む間もない。唯一の願いは彼らが苦から解かれることだった。
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アズラック難民キャンプ内で支援物資をもらおうと押し合うシリア難民。慈済ボランティアは難民がどれほど食糧に困窮しているかを目の当たりにした。 |
「五、四、三、二、一、ハッピーニューイヤー」と歓声がドバイ空港に響く。台湾へ帰る乗り継ぎを待っている間、私たちは大勢の人たちと新年を祝っていた。そしてこの数日間で経験した様々な出来事を振り返った。シリア難民にとって新年を迎えることは、他国へ漂流してきた辛い日々がまた新たな日を重ねるに過ぎないのだろうか。どこに行けば彼らの明るい明日があるのか。未来の希望はあるのか。熱気に包まれた賑やかな中で、純真な彼らの一人ひとりの顔を思い浮かべていた。
情け深い勇士は何事も恐れない
二〇一六年十二月二十三日の深夜、慈済ヨルダン施療配付の任務を負った三十五人の団員は、台湾を出発し十時間あまりの飛行でドバイに到着、さらに乗り継ぎ四時間の飛行を経て、ヨルダンの首都アンマンのクイーンアリア国際空港に到着した。全員が無事税関を通過すると、遠くにヨルダン支部執行長の陳秋華さんが合掌して私たちを迎えているのが見えた。
この度、台湾の団体が遥か海を越えてスムーズにヨルダンに到着できたのは、秋華さんが十二月から何回も台湾との間を往復し、施療と物資配付の活動の準備をしてくれたお陰だった。また薬品や医療器材の税関通過、宿泊所、交通手段の手配、冬季配付物資の買いつけなどの煩雑な仕事は、現地ボランティアたちと何度も会議を重ねながら行い、重責を一身に担っていた。
法名を済渾という陳秋華は、ヨルダンの地で慈済の活動を始めてから二十年以上になる。彼は四十年以上に亘りヨルダンのハッサン国王の護衛と王室護衛のテコンドーのコーチを担当し、王室から絶大な信望を得ている。そのため今回の慈済人医会施療団は、ヨルダン国より多大な協力を得ることができた。
ヨルダン支部で慈済委員(慈済の幹部ボランティア)の認証を受けた者はわずか九人だが、長年に亘って現地の貧困者の訪問ケアや医療補助を行っている。二○一二年、台湾から衣類十万着と八千枚の毛布をヨルダンに送ったことが、今回の慈済のシリア難民に対する長期支援の発端になっている。
陳秋華は、長年現地で指導してきたが、人種と宗教の違いにより、慈済の活動に安定して参加できる人材がいないと言っていた。この度、世界七カ国からヨルダンへ手助けに来てくれた四十二名のボランティアの一人ひとりが、シリア難民の精神的な模範となることができると言った。
施療や物資配付の現場で陳秋華は終止笑顔を絶やさず、アラビア語で人々に話しかけていた。少し前、彼は膝関節の手術を受けたばかりで、ゆっくり歩きながら人々の間を行き来している姿に感動した。ふと《法華経五百弟子受記品》の中に出てくるフルナ尊者の話を思い出した。フルナ尊者は寛大な心と強靭な気力と大きな勇気を抱いて遥か遠い地へ赴き、困難にひるまず説法し、法を伝えたとある。心優しい熱血漢の秋華さんが砂漠に入って苦も厭わずに奉仕をしている姿が、まるでフルナ尊者のように思われた。
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多くの男性が逃亡の過程で亡くなったり、障害者になっている。女性は他人と接触ができない伝統があるが、一家を食べさせるため、配付物資の受け取りに |
親身になり
誠と愛で障害を乗り越える
私たちは、シリア難民が住むキャンプの生活環境を知るため、二カ所のヨルダン最大の難民キャンプ、ザータリとアズラックを訪問した。テントに着くと、私たちはまず来ましたよと手で合図をし、相手の表情を見て歓迎していることを確認してから、靴を脱いでテント内に入った。キャンプ内のコンテナ住居やテントが難民の住いで、薄いカーペットや国連難民高等弁務所が支給した厚地の布を敷いている。地面からは冷たい湿気がひんやりと足裏に伝わってきた。
カーペットの上には長方形の座布団がいくつか置いてあり、隅には折り畳んだ毛布が置かれていた。昼間はリビングとして、夜は寝室として利用しているのだろう。キッチンには簡単な炊事道具といくつかの椀や皿、厚地の布で仕切ったシャワーのみの浴室。トイレは屋外にある。テント区域から共同のトイレまでは大分離れている。水不足のため難民の家庭用水は、公共給水場からバケツで運ばなければならない。
インフラが整っている国で便利な生活用品に囲まれて暮らす私たちに、シリア難民の苦しみを感じることができるだろうか? 戦火を浴びて家は破壊され、帰る家もない彼らの未来はどこにあるというのか。この時期は寒い冬だったが、子供たちは薄着のまま裸足で泥道を歩いていた。
施療と物資配付の活動には、七十人ほどの現地ボランティアが参加し、各自持ち場について互いに協力し合っていた。台湾と中国からの留学生は通訳として欠かすことのできない存在だった。国を出る前に医療関連や日常に使うアラビア語を調べていたので、診療を滞りなく行うだけでなく、簡単な言葉で患者や家族を慰めることができた。
配付の会場がバラバラだったため、その都度対処しなければならない。屋外、屋内にかかわらずスムーズに、そして、相手を尊重する態度で行わなければならない。施療現場に内科、外科、小児科、歯科、薬局、受付や待合室の区域を設置するため、医療スタッフはボランティアの協力が必要だった。
治療を求める患者の多いことと、物資配付券を持っていない難民が自分も券を欲しいと殺到した。薬の調合、問診、配付という一連の多忙極まる作業に食事や水を取ることさえも忘れ、ただシリアの人々が心身に受けている苦痛から一日も早く解かれることだけを願っていた。
言葉はいらない
真心で示す
中東諸国はアラビア語が主要な言語で、国際的言語である英語はほとんど通用しない。子供は何人いるかと尋ねる時は、右手で違う高さで示し、家はどこかと聞く時は、頭を傾げて合掌した手を上に上げる。施療や配付の現場ではボディーランゲージで村人や難民が互いにコミュニケーションを取っているのをよく見かけた。
ワセリンは難民の女性にとっては美容品で、風霜に耐えた肌を潤すことができる。施療の現場ではワセリンを持って、待合室で待っている女性や子供に「ワセリン」と言って手のひらにこする動作を見せると、皆喜んで両手を伸ばしてきた。
女性や子供の両手は袖で覆われているので、私は一人ひとり袖をたくし上げてからワセリンを塗ってあげていた。するとその時一人の女の子がさっと出てきて、私の助手になってくれた。女の子は私の手を引いて、一人ひとりにワセリンが必要かとアラビア語で聞いてからワセリンを必要とする人に塗ってあげた。
私はワセリンを女の子に渡して、みんなに塗ってあげてと動作で示し、アラビア語で「スクラン(ありがとう)」と言ってお互いに感謝し合った。利発そうな女の子が私に見せた親しみのある笑顔は、国境や人種を超えた無言の言葉だった。毎日施療を終えて別れの時が近づく頃、この女の子はいつも静かに私の前に現れるのだった。とうとう最終日となった時、私は彼女を抱擁して無限の祝福を送った。
砲火に傷ついた心には良薬が必要
戦乱により家庭が崩壊したシリア難民の子供は、心の傷の深さゆえに、幼い顔に小さいながら大人のような成熟が見られた。もしかしたらすべてを失ったせいで、掌を上にして手を伸ばしいつも何かをくださいと求めなければならない動作が、当たり前のようになっているのかもしれない。
配付の現場では、慈済が発行した配付券を手にしているのに押し合っていた。もらえないのではとの不安と焦慮感が感じられた。食物をもらえなかったら家族が寒空で飢えを忍ばねばならないと、心配で仕方がないのだ。
施療と配付は彼らにとって一時の困難をしのぐ慰めに過ぎない。彼らが互いに心を寄せ合い、受けた心の傷を癒すことこそ最良の良薬である。十日間の行程で五回の施療、四回の配付と二回にわたる歳末祝賀会を催し、二○一六年の歳末に滞りなく活動は終わった。この度の活動で医療サービスを受けた人は延べ千三十七人、物資配付を受けた人は三千二百三十八世帯に上り、そのほか千五百着のコートと千八百八十二個の文房具が贈られた。
この行程で苦を見て己の幸せを知ったことに感謝し、善縁を把握してこの世に福をもたらさなければと切に思った。心の中で彼らを忍びなく思いながら、この度の活動が永遠の祝福になることを願った。
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種々の困難を克服して慈済ボランティアは、アズラック難民キャンプで初めての施療を行い、世界の慈済人の祝福を届けた。
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