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ヨルダンのアズラク難民キャンプで慈済の配付した米や食用油などを持ち帰るシリア難民の子供。大晦日の一家の食事は一時的に心配がなくなった。 |
新年、シリア難民は戦火を逃れて異郷に来て早や六年目を迎えた。ヨルダンの慈済ボランティアは困窮し希望の持てない生活をしている難民に付き添い、物資の配付や炊き出し、施療などを行っている。
どんなに悲しみ嘆いても、関心を持ってくれる人がいれば、彼らは明日に向って進むことができる。
「おじさんの家に爆弾が落ちたことはある?」。十歳のアヤが頭を擡げて聞いた。
アヤは家族と一緒にシリアからヨルダンに逃れて来たが、アズラク難民キャンプに来て長い。彼女は紺色のシャツに白のパンツ姿で食糧の配付をしてくれる外国人が大好きだ。彼女はいつも一緒に手伝う。
アヤの子供ならではの言葉を聞いて、慈済ボランティアは彼女の栄養不良で痩せて尖った顎を見て頭をなで、「ここは安全だから、怖がることはないよ」と言った。
「寒いのやお腹が空くのは大丈夫。怖くない! ただ爆弾で死ぬのが怖い……」。アヤの声は少し震えていた。ボランティアは心が痛み、目頭が熱くなった。そして、彼女を抱き寄せて、「大丈夫。毎日笑顔で過ごしなさい。私たちはまた来るから」と言って背を向け、溢れた涙が荒地に吸い込まれていった。
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延々と15キロも続くアズラク難民キャンプには仮設住宅を提供している区域があるが、物資も医療設備も欠乏しており、冬はとても寒く、難民の生活は困窮している。
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難民キャンプに明日はない
二〇一六年の年末、真冬のヨルダンは昼間でも気温が非常に低い。口を開けて話すと白い息が出る。台湾から来た慈済施療配付チームは早朝に首都アンマンを出て、アズラク難民キャンプに向った。
道路の両脇は見渡す限り黄土が続き、地平線が空に繋がるほど荒涼としており、所々砂地に黒い石が見えていた。雲が低くたちこめ、また大雨が降りそうだった。慈済チームは車の中で、天気が晴れて施療と配付活動が順調に行われることを敬虔な気持ちで祈った。しばらく進むと、東のイラク方向の雲の合間から日が射し、西側の砂漠に珍しく虹が現れた。
シリア内戦が勃発して五年以上が経つ。慈済チームはヨルダン国王子が特別に出してくれた通行許可証を持って、三万八千人以上が収容されているアズラク難民キャンプを初めて訪れた。ここで施療と米、豆類、砂糖などの生活用物資を配付する。
第二区には病院も学校もない。アズラク難民キャンプの難民は普遍的に経済状況が良くないが、外に出て働きに行くこともできない。ただ先の見えない日々を過ごすだけである。
四十二歳のアリは、連日熾烈に戦闘が繰り広げられているシリア北部の大都市アレッポから来た。七カ月前、何の予告もなしに空爆が始まり、彼の家を含む三十世帯の街が破壊された時、瞬時に家屋が倒壊し、踝と膝を骨折した。
財産も家もなくしたアリは妻と十人の子供を連れ、国境沿いで活動していた慈善団体と共に、何度も車に乗っては歩き、また乗り換えては歩くことを繰り返した。五日間の逃避行の末にヨルダン国境に着き、一家はアズラク難民キャンプに収容された。アリの両足はきちんとした手当を受けられなかったために障害を持ってしまった。
難民キャンプではアリは二部屋の仮設住宅を割り当てられた。中はセメント敷きで、国連難民高等弁務室が贈ったビニールシートが敷かれているだけで、冷たい冷気が足下から全身に上がってきた。二枚のシングルのマットレスと慈善団体が配付した数枚の薄い毛布が一家の全財産である。
アリ一家は二つの部屋を分けて使っていたが暖房は一つしかない。毎晩、漆黒の暗闇の中でアリは体を丸め、家族が凍てつく夜をどうやって過ごしているかを考えると涙が流れ、深い自責の念に駆られた。
国連難民高等弁務室は難民一人につき毎月二十ディナール(約三千円)の買い物券を配付しているが、難民キャンプ内で販売している商品の値段は高く、アリ一家の買い物券は十日から十五日しかもたない。残りの日々はホブスという薄いパンでお腹をふくらますしかない。今月慈済が配付した米と豆類は一家の十日分の食糧になり、彼は心からアラーと慈済に感謝した。しかし、十日後からどうやって過ごしたらいいかアリにあてはなく、難民キャンプでは何の仕事もできないため、一日も早くここから出られるよう望んでいる。
以前、アリには家があったが、戦争で難民になり、故郷を離れて生きて行くのが精一杯になった。彼は数百万人に上る難民の中の一人に過ぎない。
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難民キャンプのある場所は荒れた砂漠で、水道設備のインフラが欠乏しており、住民は毎日、遠くまで歩いて各地区の取水場から水を汲んでいる。 |
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シリアのアレッポから逃れて来たアリ(左前列)は、娘に付き添われて慈済ボランティアから物資を受け取り、家までの長い道程を他の難民家族と一緒に帰って行った。
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戦火が幼い顔に陰を落とす
黒い髪を肩まで伸ばした十二歳のリータギは一人で慈済施療区域に座っていた。「歯医者にかかるのは怖い?」と慈済ボランティアが聞くと、彼女は頭をふって微かな笑顔を見せた。
リータギは四年前、家族と一緒にシリアからヨルダンに逃れてきた。当時八歳だった彼女は砲撃で死んだ人の遺体を目のあたりにした。「怖かった?」とボランティアが彼女の手を取りながら聞くと、突然彼女は肩をすくめ、口をかたく結んで何もしゃべらなくなり、驚いたような目で前方を見つめたま化石のように動かなくなってしまった。「シリアに戻りたい?」と聞くと、彼女は急いで頭をふった。
リータギはヨルダンの難民学校に通っている。学校に行くのが大好きで、特にコーランを読むのが好きだ。恥ずかしがり屋で口数の少ない彼女だが、コーランの何節かをすらすらと暗唱することができる。「コーランを読んでいる時だけ心が落ち着くのです」とゆっくりとボランティアに言った。
慈済施療配付チームが泊まったホテルでは真っ白なゆで卵が必ず毎朝の朝食に出てきた。痩せ細った子供がいたら、それをあげようと思い、チームメンバーが出発する前にゆで卵を二つポケットに忍ばせた。
「坊や、卵食べる?」とボランティアはしゃがんで卵を一つ取り出し、三歳の子供の小さい手に乗せたが、子供はびっくりしたような顔で卵を握ったまま微動だにしなかった。ボランティアは恥ずかしがって食べないのだと思い、子供の頭をなでて、。「ほら、食べなさい」と言うと、子供は殻のついた卵をそのまま口に入れようとしたので、ボランティアは慌てて殻をむいてあげた。
何日かしてボランティアは卵をもらうと捨ててしまう子供がいることに気がついた。なぜなのか分からず、悲しく思っていた。後に、難民キャンプで生まれた子供達は卵を見たことがなく、食べ物だと知らないからだとわかった。
ボランティアは卵を捨てる理由が分かった後、ホテルに五百個のゆで卵を用意してくれるよう頼んだ。「どうしてそんなたくさんの卵が要るのですか? ホテルで出しているだけで足りませんか?」とホテルのオーナーは不思議に思って聞いた。「明日、難民キャンプでシリア人の子供達にあげるのです」と慈済ヨルダン支部長の陳秋華師兄がオーナーに事情を説明した。するとオーナーは豪快に、「この五百個の卵は私からの贈り物です。シリア人を支援してあげてください」と陳秋華に言ったのだ。
冷たく澄んだ朝、五百個の白い卵が一箱ずつ慈済施療配付チームと共にアズラク難民キャンプ第三区の女性区域に到着した。
もはやボランティアが一人ずつ配ることはせず、卵を小児科診療所に置き、診察に来る人にまず卵を二つ贈呈した。小児科ではほとんどが母親が子供を連れて診察に来ていた。中に入るなり小さなサプライズが母親たちを待っていた。おびえて母親の横にくっついていた子供を前に引っぱり出し、卵の殻をむいて小さな手に乗せた。子供達はこの見慣れない食べ物を少しずつ口に入れると、可愛い笑顔を見せた。
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アズラク難民キャンプで、子供はこの見慣れない食べ物(ゆで卵)を少しずつ口に入れる。 |
砂漠の中の原始的なキャンプ生活
砂漠気候のヨルダンに大雨が降り出した。陳秋華師兄はマフラグ、ザータリ難民キャンプ周辺のテント区での配付活動に影響が出ることを心配した。あの広大な砂漠地帯は雨になるとぬかるんだ黄土になり、テントを張るのも歩くのも極めて困難になる。
しかし、このような天気でも皆の決意と信心には全く影響せず、施療配付チームは予定時間にテント区に到着した。いくつかの色あせたオレンジ色のテントは急速に下がった気温の中で風に揺れていたが、薄いテントは遮る物がない大地を吹き抜けて来る強い寒風に必死に抵抗していた。住民が飼育していた羊は囲の中で呆然と立ちすくんでいた。周りには乾燥した細い梢が置かれてあったが、それは暖房にする薪だった。
生活環境がどうあれ、住民は一ヶ月に四十ディナール(約六千円)でテントを借り、その上水も買わなければならない。
テント区で薄く破れたセーターを着た男の子が裸足で泥の中に立って、制服姿の慈済ボランティアを好奇の目で見ていた。その子は遠くから見ていたがやがて駆け出し、小さな体はテントの後ろを回って見えなくなった。
ボランティアたちは身震いすると、素早く数組に分かれて一つ一つのテントに向かった。シリア人難民の子供たちを集めてサイズに合ったジャンパーを配付した。
ボランティアはひざまづいて一人ずつジャンパーのジッパーを閉じてあげると、鼻水をたらした子供たちが照れ笑いした。
治療を待つ数百人の子供
シリアの内戦はもう五年以上続いており、故郷を逃れた住民は数百万人に上る。二〇一二年七月、ヨルダンはザータリ難民キャンプを設置した。今、八万人余りのシリア人を収容しており、世界で二番目に大きい難民キャンプである。
そこはちょっと変わった居住区になっている。というのも、雨が降ると泥道になってしまう路地の両側にはシリア人難民の店が建ち並び、低いブリキ屋根には無造作に各種商品が吊り下げられている。キャンプの灰色の塀には政府の堅苦しい絵が描かれ、塀の上には有刺鉄線が張り巡らされている。
陳秋華は泥道を歩いて、慈済医療志業の林俊龍執行長と台中慈済病院の簡守信院長と共にザータリ難民キャンプの中にあるAMR(Arabian Medical Relief)病院に病気の子供達を訪ねた。この二年間、慈済ヨルダン支部はAMR病院の紹介でザータリ難民キャンプに住む百人以上の子供達の手術を支援して来た。
大勢の人がAMR病院の小さなブリキ造りの事務室に集まり、互いに近況を尋ね合っていた。その時、屋外から騒がしい声が何度も聞こえた。一人の恥ずかしがりの男の子が大人に連れられ、手に「ありがとう慈済」と英語で書かれたカードを持っていた。そのほかにも大勢の大人と子供が手にカードを持って集まっていた。親がかつて慈済の支援で手術を受けた子供達を連れて来たのだった。
陳秋華は数カ月前の支援ケースで、鎖肛(直腸肛門無形。正常な位置に肛門がない状態)だった四人の子供も来ていた。皆元気に走り回っているのを見て目頭が熱くなった。当時、その子供達は排泄することができず、お腹がふくれ上がっていた。親は病苦に苛まれて息も絶え絶えの子供を抱いてあちこち治療を求めたが、往々にして断られるか、医療費が払えないために治療を中断し、悲しい顔で失われていく子供の顔を眺めているしかなかった。
陳秋華は難民キャンプの支援でシリア人のモンナド医師と知り合い、彼の診断を経て、大病院でそれらの子供達に手術する道が開けた。
これらの親が抱いてきたのは、鎖肛だったり生命に関わるような重度の脱腸や後日癌になりやすい停留精巣(睾丸が正常な位置にない状態)の子供達で、皆、慈済の支援で手術を受け、一命をとりとめている。子供はとっくに当時の苦しみを忘れているが、林俊龍執行長はこの親たちの屈託のない笑顔を見て、「この笑顔は何にも増して貴重なものです」と陳秋華に言った。
ほかの親も慈済ボランティアが来たと聞いて、治療を受けられることを望み、心配顔で病気の子供を連れて来ていた。モンナド医師は事務所の小さなソファの前にしゃがんで一人一人子供を診察した。医者を怖がる子供の泣き声は人々を心配させた。自分の病状が重く生命に関わることを知らず、恥ずかしそうな笑顔を浮かべている子もいた。
林俊龍執行長は、この世界で二番目に大きい難民キャンプには壊れて使い物にならないレントゲン検査機が一台あるだけという状況を見て、ため息混じりに言った。「子供達に罪はない。正に共業です」
簡守信院長は厳粛な顔でモンナド医師と一緒に子供達を診察した。腎臓疾患で水がたまり、腹部が大きくなった子、血管腫瘍で痛みを感じ沈黙した男の子。重度の脱腸で、生まれて数日の男の赤ちゃんなどを診察するうちに、彼の表情はますます堅くなり、「すぐに入院させないといけません」と陳秋華と林俊龍執行長に言った。
三日後、最も緊急を要する病状の重い七人の子供はアンマン省のAKIL AH病院で手術をすることになった。しかし、ザータリ難民キャンプにはほかに三百人余りの子供が苦しみながら手術のチャンスを待っている。
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ヨルダン慈済ボランティアの陳秋華は自宅を開放し、施療配付チームはアンマン市のシリア難民ケア世帯に小児科と歯科の施療するために、皆でそれぞれの診察室に配置換 |
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慈済ボランティアは初めてアズラク難民キャンプで施療活動を行った。多くの女性が聞いて集まり、臨時に内科診察室となったコンテナーの外で順番を待っていた。 |
移動の度に貧しくなる遊牧民族
首都アンマンと北部の都市ラムサには慈済ヨルダン支部が長期的に世話している七十九世帯の難民がいる。二〇一六年末、彼らのため歳末祝福会を催した。林俊龍執行長が一人ずつ福慧お年玉を手渡した時、ラムサから来たアリマンはカバンから前の年にもらった歳末祝福のお年玉を取り出した。彼は慈済と過ごした昨年の全ての出来事を回顧しているようだった。
アリマンがシリアからヨルダンに逃れてすでに四年以上になる。一緒に逃れて来た夫は再びシリアに戻って内戦に参加したが、今はシリアの刑務所に入っている。アリマンは一人で四人の子供とヨルダンで生活しているが、知り合いはおらず、慈済が彼女と子供達の困窮した生活を支援し、奨学金を出して子供達を学校に通わせている。やっと夫がヨルダンに戻って来たが、すでに重い病気にかかっていた上に、足にも障害を持っていた。
運命に翻弄されたが、慈済の支援によって、アリマンは今の生活を幸せだと感じている。祈りの歌声が聞こえて来ると、歳末祝福会に参加した全ての人は一斉に手にしていたペンライトをつけ、光の点が揺れ動いた。アリマンは去年と今年もらった二つのお年玉を軽く手でなでていたが、静けさをたたえた顔はヨルダンの星空のように美しく、穏やかだった。
ヨルダン慈済ボランティアは難民の世話をするだけでなく、リバーヴァレー地区と死海の南端にある貧しいベドウィン人の世話をして来て十七年になる。このアンマンから死海の南端に通じる道をボランティアは百回以上通っている。真っ青の死海は波一つない静けさを保ち、遠く連なった黄土の崖のイスラエル領が見える。
極度に塩分濃度が高い死海は太陽に照らされ、宝石のようにエメラルドグリーンに輝いていた。澄みきった波が海岸を洗い、鍾乳石のように白い塩の結晶を残した。慈済施療配付チームは美しい海岸沿いを通って、黄砂の中にあるベドウィン人の集落に到着した。
ベドウィン人とは広大な砂漠で遊牧生活をするアラブ民族で、駱駝や羊を飼ったり狩猟して水と草のある場所を求めて移動する生活をしている。中世初期から彼らはアラビア半島の人口の大半を占めた。非常に忍耐強くて苦労を厭わないが、情熱的で客好きで、自由奔放、何にも囚われない人たちである。
しかし、その楽天的な性格で知られる遊牧民族が生活の場としていた環境が地球の気候変動に伴って年々旱魃が進み、草が生えなくなった。数千年来、羊と駱駝を財産としてきたベドウィン人はもはや十分な水源と草原を見つけて遊牧することはできなくなり、ますます貧しくなっている。都市周辺の荒地に住みついて貧民になるしかなかった。
慈済はその集落の学校を借りて、ベドウィン人のために小児科、内科、外科、漢方医科、歯科の施療を行うと同時に、五百世帯に生活物資を配付した。
学校の教室は大きいとは言えないが、非常に清潔で整頓されていた。長いローブとマントをまとい、伝統的なアラブのターバンを頭に巻いたベドウィンのお年寄りが、杖を持って静かに配付を待っていた。手に慈済の引換券を握りしめ、慈済ボランティアを見ると歯が抜けた口を開けて笑った。ボランティアは、生活物資を入れたビニールの手提げ袋を持ち、背を向けてゆっくりと歩いて行く老人の姿を見て、心が和むと共に忍びなく感じた。ずっと自給自足の生活をして来た彼らは、生活がここまで困窮していなければ、他人から物資を受け取ることはなかっただろう。
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死海南端のリバーヴァレー地区は医療資源に乏しく、貧困者が施療会場を訪れた。通訳ボランティアが症状を説明し、医師が診察と治療を行った。
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慈済施療配付チームは2016年12月下旬にヨルダンで5回の施療活動を行い、現地の医師を支援して慈済が支援している病気の子供達を治療した。ザータリ難民キャンプで台中慈済病院の簡守信院長(右)は家族が持って来た古いレントゲン写真を見て、病気の子供が手術を受ける前と後の状況を確認した。
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苦難の地を護ってきたことをふり返って
二〇一六年最後の日は慈済ヨルダン施療配付チームが台湾に戻る日だった。彼らは早朝に出発して陳秋華の家に行き、出発前の三時間を無駄にすることなく、アンマン地区のケア世帯に施療を行った。
陳秋華は最後の最後まで、遠く台湾から来たボランティアたちを休ませてあげられず、残酷なことをしたと気が咎めていた。しかし、皆は彼の肩を叩き、励ましの笑顔を浮かべて、素早く彼の家を施療所に配置し直した。彼はこみ上げてくる感情を抑えられず、背を向けて目頭をぬぐった。
数人の医師が応接間の大きなテーブルを移動し、ソファを全部壁際に寄せた。大きな空間ができ、四つの歯科の診察用椅子が入ると、歯科医と助手は水色の隔離衣を着用し、歯科特有の「ジージー」という音と共に診療が始まった。
胃腸内科の蔡筱筠医師は小さめのテーブルを寝室前の廊下に置き、施療の受付にした。オープンキッチンは薬局になり、静かな寝室は小児科の診察室になった。もう一部屋の寝室は内科と外科の合同診察室である。
カーペットが敷かれた心休まる居間には早くから十数人のケア世帯が診察を待っていた。彼らは全てヨルダンに逃れてきたシリア人で、すでに三年余りになる。異郷での生活は苦しく、ヨルダンの慈済ボランティアは彼らの存在を知ってから付き添うようになり、食糧と医療を支援してきた。悲しみが消えることはないが、ケアが彼らを明日に向かって歩み続ける力になっているはずである。
皆が忙しい中にも優しさを発揮している姿を見て、陳秋華は五日前、配付活動の最中、皆で力を合わせて泥道にはまったバスを押したことを思い出した。その光景は四十数年前に證厳上人が数名の弟子と一緒に田舎へ家庭訪問した時、力を合わせて小川で動けなくなったバスを押したのと全く同じ光景だった。
陳秋華は自分は一人でないことを知った。ここ数年間、彼は一手に慈済ヨルダン支部の責任と使命を担ってきた。多くの人は彼の苦労を思いやったが、それは「苦」ではなく、「どんなことも成し遂げられないことはない」と彼は思った。
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ヨルダンの美しい死海には昔から伝わる伝説がある。死海は元来陸地で、人間が絶えず争うため、イスラム教予言者のルートは彼らに邪から正に回帰するよう勧めたが、彼らは悔い改めることを拒否したため、神はこれら改心せずに悪事を続ける人間に対して懲罰を与えることを決めた。そして、ルートに対して家族と共に村を離れ、村で何が起ころうと決して振り返ってはならないと戒めた。
予言者ルートが決められた時間に村を離れると、村は瞬時にして大火に呑まれ、陥没して今の死海ができた。しかし、ルートの妻は好奇心からこっそり首を回して覗き見したとたん塩柱になり、千年の後も死海近くの丘の上に立ち、日夜首を回して死海を望んでいるという。ヨルダン慈済ボランティアは戦火も千里の道程も恐れず、この荒れた大地を頻繁に行き来している。二〇一四年十一月、国連難民高等弁務室が難民への医療支援を中止し、全ての慈善団体は長引く戦争のため撤退した。しかし、慈済は逆にその時期を選んでヨルダンでシリア難民のために大規模な施療と配付を開始した。遠い砂漠の中、難民に対するこの愛は途切れることなく受け継がれている。
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