美しい絵は人を喜ばせる
一粒一粒の慈愛を喜んで分け合い
この世を美しくさせよう
二○一六年十月二十一日の早朝、台風二十二号が台湾から去った後も、雨が弱まったり強くなったりしていた。それにつれて朗々と経を唱える声も大きくなったり小さくなったりしていた。その瞬間、静思精舎の本殿前の窓越しに見える空が一面薄い橙色に染まった。これは暴風の日によく見る雲のような霞で、その後、空は橙色から次第に白っぽく変わっていった。
法師は普段のように座って、弟子たちに《法華経・見宝塔品第十一》を説法されていた。「諸仏弟子等、誰能護法、当発大願、令得久住」という経文を取り上げ、行いは彩色の如く、願力は膠のように、彩色に膠がないとすぐに消えてしまう、と解釈された。敦煌の壁画のように彩色に膠を混ぜていると永久に色を残すことができると説明された。
顔料は必ず膠を混ぜてかき混ぜてから色を混ぜ、壁や紙の上に描く。敦煌洞窟の中にある絵は風雨による腐蝕や破壊を受けても色褪せていない。法も永久にこの世に止めさせるために、「願があっても行動に移さず虚言を弄し、願がなくて行動のみあっても長続きせず。行と願があってこそ事が成就する」ことを心によく命じて修行しなければならないとおっしゃった。心の中にある法を行動で表し、慈悲喜捨の心でこの世の衆生のために造福することは、自分の人生を美しくさせる。
法師のこの説法を聞いて、私の心に小さな動悸が起きた。
二○○四年に偶然、楊淑恵先生の油絵個展を参観し、以来油絵に興味をもつようになり、いつかキャンバスを自由自在に色どりたいと思っていた。楊淑恵先生と葉繁栄先生に師事して、十年の月日が経った。絵画の技術が上達したかどうかはともかく、学習過程で多くの収穫と成長を得ることができた。
始めた頃は絵筆をどう扱ったらいいのか分からなかったが、色を調整するという難しい作業を克服し、構図について学んで理解し、徐々にいろいろな知識を得ていった。作品も小さい物から大きい物まで挑戦した。
習い始めた頃、葉先生は生徒たちに「大空はどんな色ですか」と聞かれた。皆は一様に「青い空に白い雲ではありませんか?」と小学生のように答えたが、違っていた。先生は「よく観察してごらんなさい。空はただ青く白いだけですか?」と聞いた。よく観察すると、大空の色彩は千変万化、それだけでなく宇宙の万物には豊かな色彩の変化がある。
仏に学ぶ者の心も、真っ白なキャンバスのように、何もない心からいかに深みのある作品として描くことができるだろうか? 顔料を含んだ絵筆でもって、ゆっくりとキャンバスに色彩を施すように。もしも色の調節がうまくゆけば素晴らしい作品になるだろう。でももし心を静かにして琢磨しなければ、よい色彩に調節することができないだろう。
この心は仏法に触れてからもなお幾重もの色彩変化による「空」ではない。真の豊かさで、欠陥がなく、足るを知ることを教えられ、充実した気持ちにもなれる。それは自分一人だけが鑑賞する絵ではなく、豊かな心を喜んで人とも分かち合うべきである。ではその絵は、どんな貴い意味を具えているだろうか?
法師は弟子たちに、「発心することは困難ではなく、一念は宝塔の扉を開けるように広く開けなければならない」と言われた。美しい絵も人の心と目に喜びを与えなければならない。慈愛の具わった仏法の心、その愛をまいて生命の喜びと温かいこの世界をすべての人たちと分かち合おう。もしも人々の心の中に美しい絵があるならば、仏陀の大愛の精神は永遠に続くことだろう。
(慈済月刊六〇三期より)
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