慈濟傳播人文志業基金會
湯爺さんの願い

九十歳で人生の幕を閉じる前、湯少藩は模範を残した。

ガンと宣告されても、手術と化学療法を断って献体を希望した。

彼は子女に無形の資産「孝、悌、忠、信」を残した。

そして祈福会を催して、法の友と旧友にお礼をした。

人生の終点に立っても何の恐れも気にかけることもなく。

(撮影・呉宗民)

 

「前足を地につけたら後ろ足を上げるではありません。過去のことばかり思ってどうするのですか。明日がまだ来ないのに? 事がきて終わったら、受け止めて放下するのだ」。九十歳になる湯少藩爺さんは嘉義大林病院の緩和ケア病棟「心蓮病室」に入院しています。見舞いにきた南華大学の生死学課副教授、蔡昌雄氏にこう自分の心境を話していました。

「よくやっても過去。よくやらなくても過去。だからすべてのことを放下するのだ。人の命というものはただ呼吸をしている間だけのものだから、明日のことは考えなくてもよいのです」湯爺さんはこう言いました。

蔡さん「あなたは亡くなったらどこへいきますか?」

湯爺さん「どこへ行こうがかまいませんよ。仏縁があったらまた娑婆世界へ戻って、さらに法を修め、善行して徳を積みたい。そして因果は信じなければなりませんね」

蔡さんは枕元にある西方三聖像を見た。「ここに西方三聖がありますが、あなたはあそこへ行きたいと思いますか?」

湯爺さん「これは私が考える問題ではありませんよ。私がこの生涯で修行に足りない点があったかどうか分かりません。仏菩薩に罰せられなければ満足です」

蔡さんは「申込書にサインすればいいではありませんか。どこへ行ったらよい修行ができるか」と言った。

湯爺さん「縁ですよ。福縁があれば行けます。申込書にサインして希望を持っても煩わしい。また、私が申込んだりしたら、精進しなかった悪い弟子を教える仏菩薩にも迷惑でしょう。縁があれば行きますが、行かせてくれなかったら門の外でもいいと思っていますよ」

「何日か前に證厳法師がいらっしゃった時、私は懺悔をしました。「落花生を食べて貪真癡慢疑の貪を犯し、自分の体のよいことに慢を犯しましたと。法師は私が九十五歳まで長生きするでしょうと祝福して下さいましたが、私はそれができません。法師に懺悔してから心が軽くなりました。いつ死んでも心残りはありません。人生に所有権はなく、ただ使用権があるだけで、慈済に献体を済ませたから、私の願いはそれで終わりです」と話した。

奥さんの陳光蓮さんが、「言い残すことはありますか?」と聞くと、「ある。私が亡くなったら花蓮へ送った後は構わなくていい。医学部の方で処理してくれるから、何も聞かなくていい。迷惑になるから」と真面目な顔で言いました。

蔡さんは好奇心を覚え、「あなたは普段決まった精進法をしていますか?」と聞きました。

湯爺さんは「ありませんよ。ただ毎日法師の開示を聴いて、寝る前に仏号を唱えるだけ。聴いて分かることは必ず実行する。やらなければいくら聞いても意味がないですから《無量義経》の中に『静寂清聴、重志虚漠、守之不動、億百千劫』とあることを堅く護っています」と答えた。

見舞いを終えた蔡さんはこう言いました。「臨終に直面しているお年寄りが、こんなに闊達で、放下できることに、私は感服し、大きな啓発を受けました。湯爺さんが自分の貪と慢に気づいて懺悔したことは、簡単なことではありません」と感動していました。

湯少藩さん(後の右)は1928年3月18日中国の江西省に生まれ、1942年、戦乱により学業半ばにして国民党軍に従軍した。この写真は1949年に来台した後、戦友と記念撮影したもの。1980で38年の軍人の生涯を終えた。

 

人生七十にして始まる

 

「法師、私は七十五歳になってやっと慈誠隊員となったのは遅いと思います」。二○○三年に湯爺さんが慈誠隊員の認証を受けた後、ボランティア朝会で法師に話した言葉でした。法師は慈悲深く、「少しも遅くありません。あなたはさらに二十年頑張れますよ」とおっしゃいました。湯爺さんは健康を損なわないように注意し、九十五歳まで慈済のために尽くそうと自分を鼓舞していました。

湯爺さんは慈誠隊員の認証を受ける前は、先に慈済に入会していた妻の光蓮さんと一緒に長年活動に参加し、妻を応援していました。正式に人文真善美ボランティア(記録係)になってからは、台湾国内での慈善救済はもちろん、海外の支援活動の場にはいつも彼の姿がありました。文章、写真、ビデオ撮影など、若者に負けない報道ボランティアの腕前です。

「人文真善美の使命とは、私たち慈済の善心、善事の記録であり刹那を把握して永遠に留めることにあります」と湯爺さんは言う。夫婦は台湾南部の屏東に庭と車庫つきの家を購入しました。車庫を道場や茶会を催すことができるように改造し、テレビやテーブル、椅子を置いています。慈済の会合はすべてこの湯爺さんのすてきな家で、茶菓子をふるまわれながら楽しく行われていました。

古参ボランティアの張錦雲は、「湯爺さんは、まるで私たちの世話をするためにいるようで、一緒にいると湯爺さんの年を忘れてしまいます」と話す。「忘れられないことは、花蓮で法師の人文課についての説明を受けた帰りの列車の事です。突然湯爺さんの姿が見えなくなったと思ったら、発車寸前に笑いながらパンとジュースを抱えて戻ってきたことでした。私は屏東から満州へ引っ越してから文章を書くことから遠ざかっていました。湯爺さんにまた始めるよう勧められ、またパソコンを贈って下さって、慈済の歴史を記録するよう励まして下さいました」と言う。

湯爺さんは慈済人文を任務と心得、新人の育成に力を注いできました。その一人の林美珮さんは、「初めてカメラを持った時、恥ずかしくて縮こまっていました。すると湯爺さんが私の後ろについて舞台に上がろう、と言ってくれて付き添ってくれました。今では屋根の上や木に登っても怖くありません。慈済が台風被害を被った屏東の霧台や三地門の被災者の復興建設支援を行っていた時は、起工式から建設、落成式に至るまで、さまざまな角度から写真を撮り、記録しました。湯爺さんは私の成長を褒めてくれました」と話す。

夫人の陳光蓮は1986年慈済委員となり、熱心にボランティアに尽くしてきた。湯少藩さんは妻を応援し、「妻は慈済ボランティア、私は妻のボランティア」と言う。

 

無常に憂いも悔いもなく

 

人文真善美ボランティアに投入して十年あまり。健康だった湯爺さんは二○一六年の四月、医師に胃ガンが肝臓に転移していると診断されました。最期の数カ月は、ただ止血剤を服用するだけで、普通通りボランティア活動に参加していました。そして、「私は手術も化学療法もしない。無常は遅かれ早かれやってくることだ。私は慈済人だから、完全な体を献体するのだ」と話していました。

十一月二十七日、全国を行脚していた證厳法師は屏東で足を留め、歳末祝福会を催しました。湯爺さんは二十五日に大林病院を退院して家に帰った時は、体重が四十五キロにまで減っていました。そしてボランティアの王佑華さんを呼んで、法師に報告する内容を口述で書かせました。「私は当日言う気力がないと思うから、法師に手紙を見て頂くのです」と言いました。 

「敬愛なる證厳法師様並びに精舎の尼僧様、分会の皆様、見慧、法明法師、師兄、師姐の皆さま。

私は真心から法師に、仏に学ぶに当たって足りないことがあったこと、自分の胃潰瘍は治ったと思い込み食い意地を張って一年間も毎日落花生を食べたことを懺悔しましす。

これというのも貪、瞋、癡、慢、疑を怠ったからです。仏に学ぶ者の不精から、現在の柴のような身になって法師にお会いしなければならなくなりましたことを懺悔し、また、長い間法師に懇切丁寧なお教えを賜りましたことを感謝します。

法師は度々我が家においでになり、私を慈済家族の一員として扱ってくださいました。《薬師経》を説いて私を祝福し、仏のお教えを説いて下さいました。私は慈済家族に戻って小菩薩となって修行します。

敬愛なる證厳法師様、並びに慈済菩薩に感謝いたします。阿弥陀仏 合掌」 

その日、朝早くから制服に着がえた湯爺さんは、車椅子に乗って奥さんと黄麗絹さんに見守られ、屏東支部で一字一句真心こめて読み上げました。法師は「あなたは長い間仏に学んで精進し、また私についても長かったから、自由自在に煩悩をなくして、あなたの一念だけをよく護りなさい」とおっしゃいました。

法師にお会いできて懺悔を発露した後、心の中が軽くなった湯爺さんは、法の仲間たちにお礼を言いました。

2008年四川汶川大震災の時、80歳の湯少藩さんは医療スタッフと被災地での物資配付活動に赴いた。率先して最前線で活動した。
(撮影・簡淑絲)
 

 

ありがとう、そしてさようなら

 

心地よい冬の日差しが降り注ぐ十二月四日、湯爺さんの家の中や庭からにぎやかな笑い声が聞こえてきます。皆が着ているブルーのシャツに白いズボンの姿は、湯爺さんの最も愛する慈済のユニフォーム「藍天白雲」です。

感謝会は午後三時の開始なのに、湯爺さんは待ちきれず、一時過ぎに息子の雪文さんに車椅子を押させて門の前でお客を待っていました。黄麗香さんが「お招きありがとうございます。湯爺さんと證厳法師は同年配でしょう。法師と湯爺さんは同じ年にパソコンを習い始めたそうですが、法師は『私よりも上達して何でもできる人で、私たちが見習う人だ』とおっしゃっていました。また年取っても勉強することも称えていらっしゃいました」と言うと、皆の拍手が湧きあがりました。

音楽に合わせて手話グループの一人一人が湯爺さんと握手と抱擁をしました。「愛は山のように世界の果てを望む。心は灯火のように暗い隅々を照らす……」。歌い終わると、すすり泣く声があり、「泣かないで」と慰める人も、涙をこらえることができないようでした。

十二月六日、湯爺さんは再び大林病院の心蓮病棟に入院しました。医師がお腹を触って、「腹水はないですが、痛みますか」と聞くと「痛くありません」と湯爺さんは答えました。入院中、衰弱していますが、いつも笑顔でうつらうつら寝て、目が覚めると大愛テレビを見て、鎮痛剤を飲まず、注射も断っていました。

ボランティアの戴敦仁さんが見舞に行った時、弱々しい声で「人文グループは団結しなければならない。王佑華の撮影、林麗絹と陳顛茂の文章、それにあなたの写真、ビデオは努力するように。また若者を養成して伝承しなければならない。法師は私に、もう二十年やるように祝福して下さったが……」と涙を浮かべ、言葉を続けることができませんでした。

翌日は話すこともできなくなり、かろうじて紙に「遺体、花」と書いて、医師の点滴の針を抜いてくれるよう意志表示しました。医師は「安心して休みなさい。因縁が巡ってきたら花蓮へお送りしますから」と慰めました。湯爺さんは安心したように寝て、夜が明けてもそのまま目を覚ますことはありませんでした。

二○一六年十二月十一日、花蓮慈済病院に遺体が送られ、湯爺さんの献体の願いが果たされました。翌日のボランティア朝会では湯爺さんの長年活動した様子を収めたビデオが放映されました。法師は「九十歳の湯居士は私の良い弟子で、最期まで見失っていませんでした。私たちはその軽安自在を学ばなければなりません。花蓮へ帰ってきて念願だった無言の良師になりました。そしてまた願いの通り、再びこの世へ帰ってきていることでしょう」と言われました。

 

 

昼寝から目を覚ました光蓮さんは車で慈済農場へ行きました。しばらく来ないうちにナスやインゲンなどが実っているのを取り入れながら、自然に涙がとめどなく流れます。友達の周秀珠さんが「湯爺さんはもうこの世に生まれ変わっているのに、あなたがいつまでも思って泣いていたら、赤ちゃんに生まれ変わった湯爺さんは泣き虫の赤ちゃんになってしまいますよ」と慰めました。

光蓮さんは思い出した時は辛さを祝福に変えようと、携帯電話を取り出して、中の夫の動画を眺めます。そうすると、過ぎし日の笑顔がまだ傍にいるように慰められます。今は慈済の大捨堂(遺体安置堂)の中で医学部学生の「無言の良師」になります。

湯爺さんの心願は達成されました。「辛いのに、おかしなことに喜びも湧き上がってきます」と、光蓮さんは勇敢に言いました。

≪湯少藩の手記≫  
戦車で物資を運送して深水救済に
 
 
数日もの強風をもたらした台風8号は、南台湾に重大な災害を与え。この2日間、慈済人全員を動員して暴風雨の中、深い水の中をわたって温かい食事、日用必需品を提供し、村人たちに
寄り添い、苦難や憂いが軽くなるよう祈った。
今日は8月10日、雨足がやや弱まり、慈済人は継続して屏東及び各被災地の救助活動を行った。林辺の水はまだ深く、救済活動はすべて軍の15両の装甲車に頼り、物資や人員、患者の搬送をした。
南第2高速道路の林辺交差点の出口近くに、慈済災害救助センターと軍の救済指揮部が同時に道路に設けられた。収集した救済物資は一括して慈済人が分類保管して、林辺郷が提出した村や町の必要な物資を軍が装甲車で運搬し、慈済人、役所の職員、装甲車の兵士が一緒に装甲車に乗って、水の中を走って各町や村の適当な所へ下ろした。それを林辺に住んでいる慈済人と村長が筏に乗って家々に届けた。
慈済人文真善美ボランティアは装甲車の一番上に乗って、水に家屋や衣類や家具が浸かっている光景を見た。至る所悲惨な被害の状況にただ目を見張るだけだった。
装甲車は深い泥の中を走らねばならない。時に、泥にはまって身動きがとれなくなることもあり、泥からだ抜け出すのは容易なことではなかった。この時の物資運搬は、11時に出発して、救助センターに帰り着いた時は午後四時を過ぎていた。重大な災害に救済は困難を極め、軍民が彼我の別なく協力し合った。国民全体の愛の結集であり、愛の力を具現していた。
 
 
 
NO.245