この半世紀、相次ぐ戦乱、天災、そして貧困により
傷ついてきたカンボジア。
慈済による初の大型医療奉仕は、
まるで医療の砂漠を潤す一滴の清水のようでした。
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歯科治療の痛みに震える女性の手をボランティアが握って勇気づけた。(撮影/林玲悧) |
「医療費を払うお金のない彼らは、病気になったらどうするのだろうと、とても心配になりました」。マレーシアの蘇聯和医師は、カンボジアで医療資源が極端に足りないことを聞いて、とても不安になりました。医者として二十五年間、あらゆる病気を診て、どんな難しい診断もやってのけた彼ですが、医療の乏しいカンボジアの現状を前にしては、いかんせん無力でした。
「台湾から持ってきたこの超音波検査機で検査をするにしても、しないにしても、末期だと分かったところで彼らに何ができると言うのか」。台中慈済医院消化器科の廖光福医師はため息をつきました。表情には、やるせなさとあきらめきれない気持ちがないまぜになっていました。
超音波検査機のモニターに「全身に拡散」とはっきり出ていても、目の前の患者は静かに首をふって、「交通費がないので、大きな病院には行けません」と言うのです。
これは医療従事者の「求不得苦」なのでしょうか。それともカンボジアの人々の「病苦」なのでしょうか。
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慈済がカンボジアで初めて実施した医療奉仕。めったにない無料医療の機会を知った住民たちが助けを求めてやってきた。(撮影/洪文清) |
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ボランティアは体の不自由なお年寄りを背負って病院から車まで運んだ。(撮影/辰謝明) |
五地域の共同医療奉仕
二○一七年三月十日から十二日にかけて、シンガポール、マレーシア、ベトナム、台湾の慈済人医会医療チームは、カンボジアのボランティア青年医師協会(TYDA)と共同で、カンボジアのコンポンチャム州のチャムカルロー委託病院、ボスクノール小学校で、三日間の共同医療奉仕を行いました。それはまるで医療砂漠のカンボジアを潤す一滴の清水のようでした。
「コンポンチャム州はカンボジアで最も土地が肥沃な州で、タバコ、大豆、ゴム、その他の熱帯作物の生産が盛んです。メコン河の上流に位置し、土壌も良く環境も豊かで、人口は百二十万人ほどです。しかし、中心地区から車で一時間ほどのボスクノール地区とチャムカルロー地区は全く別の世界です。教育の水準も低く、住民の生活は貧困を極め、食事にも事欠くほどで、医療資源も不足しています。中年になるまで病院に行ったことがない、あるいは一生に一度も医療機関を受診したことがないという人もおり、伝統的な民俗療法や市販薬に頼るほかない状態です。
二○一六年六月に台北慈済病院が中古の腎臓透析機をTYDAに寄贈しようとしましたが、検討の結果、設備のメンテナンスができないという理由で、残念ながら、受け入れは見送られました。同年十一月にはシンガポール慈済人医会が車椅子と病床をTYDAに寄贈しました。
TYDAは民間の医療組織で、現在四千人あまりの医療ケア会員と五百人の医師がおり、毎月各州を巡回して医療奉仕を行っています。慈済が世界中で行っている奉仕活動を知ったTYDAが協力を要請し、ついに今回の医療奉仕が実現したのです。
チャムカルロー委託病院は建物が古く、土埃が舞い、蚊や蠅が飛び回り、エアコンや必要最低限の医療設備もありませんでした。医療奉仕の計画と準備作業を担当したシンガポールの慈済ボランティアは三月七日に到着し、発電機、空調、歯科用コンプレッサー等の設備を設置しました。壁を掃除し、窓を密閉してエアコンを据えつけ、五台の簡単な手術台を設置すると、部屋が無菌の手術室に早変わりしました。
三月十日には試験的な医療奉仕が行われました。内科、外科、歯科、眼科、漢方医の全診療科で外来診療が行われ、半日ばかりの間に二百四十七名の住民に医療を提供しました。翌日にはメンバー全員が現地に揃いました。一グループはボスクノール小学校でTYDAと医療奉仕事業開幕式典に参加し、もう一グループは直接チャムカルロー委託病院での医療奉仕に加わりました。
善行で両親の恩に報いる
午前八時、炎天下のなか、住民をぎゅうぎゅうに載せた牛車や、「ププーププー」と音を立てたバイクが、でこぼこで泥だらけのボスクノール小学校の敷地に到着しました。患者は自ら並べられた椅子に座って静かに待ち、ボランティアの姿を見ると、優しさと謙虚さにあふれた笑顔で迎えました。
ボスクノール小学校の「手術室」は簡単な布で囲まれたものでした。古いビニールシートで包まれた旧式の病床が手術台でした。台中慈済病院の簡守信院長と高雄慈済人医会の葉添浩医師は、冷静で巧みな技術で三時間に五人の手術を終えました。傍らではカンボジアの若い医師が見学していました。
簡院長は手術後にこう話しました。「腫瘍はかなり長い間体内にあって神経に癒着していたので、メスを入れる際には細心の注意を払う必要がありました。傷口も小さく抑えなければなりませんでしたから。止血できる電気メスもなく、全身麻酔もできなかったので、半身麻酔でやるしかなかったのですが、血がちゃんと止まるように、麻酔注射を最適な位置に打つように注意しなければなりませんでした」
医者にかかるお金のない住民にとって、もしこのように素晴らしい技術を持つ医師と出会えなければ、腫瘍と一生付き合っていかなければならなかったかもしれません。
これより少し前に母親が他界し、簡院長は喪中でした。三月八日に告別式を終え、ひとりぼっちの父親を残し、後ろ髪を引かれつつ、十日にカンボジアへやってきたのです。
彼は、「メスを入れるたび、母と話しているような気がしました。母は私が最善の決断をしたと理解してくれることでしょう」と話しました。父親も、息子の「親の恩に体で報いる」気持ちを喜んでいるとのことです。
若い仏教徒の行動力
カンボジアの若い医師や医学生もTYDAに加わり、医療奉仕の現場で地元の人々のため、血圧測定や案内、介助、衛生知識の説明、歯科助手、医療器材の消毒などを行いました。
カンボジアの歯科医師スレング・ハンさんは、歯科助手の仕方と機器の消毒方法を学ばせるため、健康・科学大学歯科学部の学生四十五人を連れてきました。六つの診療椅子はいっぱいになりました。今まで歯医者にかかったこともなく、まして歯のメンテナンスなどもしたことのない人もいました。悩ましい親知らずを抜いた患者は、うれしさのあまり両手を合わせ何度も医師に頭を下げました。
若い準歯科医師のヴォンさんは、「患者さんがうれしそうな顔で『先生、ありがとうございます!』と言ってくれると、私もすごくうれしくなります!」と話します。彼はできるだけ患者の歯を残すとともに、日頃の歯のメンテナンスや歯磨きについて指導しました。彼は友人と一緒に奉仕に参加しました。「カンボジアでは国民の九〇%以上が仏教徒ですから、人助けは光栄なことなんです」
チャムカルロー委託病院でも、大勢の若いボランティアが奉仕活動に参加していました。医師に通訳ボランティアが一人つき、クメール語と中国語、または英語の通訳をするほか、案内やお茶出し、患者の心のケアなどの仕事を行いました。
カンボジアの慈済ボランティアの胡美玲さんによりますと、今まで米の配付の前夜に、慈済のボランティアたちは家々で中国語か英語の通訳ボランティアをする人はいないかと声をかけていました。そして今回これほど多くの国の医師がカンボジアへ医療奉仕にやってくると聞いて、若者たちは仲間に声をかけ合って参加しました。一家総出でプノンペンから二、三時間かけて車でやって来た人もいました。
四十八歳、十五キロ
テントの中に設置された内科と漢方医科では、室温は三十六、七度にもなりました。医療奉仕活動の三日目、エアコンがいきなり止まって、工業用扇風機に頼るしかなくなりました。医師たちの額には汗が吹き出します。患者数は激増し、長い列を作りました。慈済医療志業の林俊龍執行長は、あちこちを回って世話をし、診察に立ち会ってサポートします。
薬剤科も大行列です。蘇芳霈さん、王智民さん、陳幸姫さん、陳紅燕さん、ベトナムの看護師の七、八名での作業は、薬を取り分ける手も痛くなるほどの忙しさです。「メベンダゾール(蠕虫の治療に使う)、五日分、マルチビタミン一日三回、二週間分。こんなに出すの?」。陳紅燕さんは不思議そうに蘇芳霈さんを見ました。
「処方箋に書いてあるでしょう。年齢四十八歳、体重十五キロ……」。蘇さんは今にも泣きそうな顔で処方箋を彼女に見せました。しかし、泣いている暇などありません。患者は胃薬、ビタミン剤、痛み止めなどの薬が必要なのです。
暑いカンボジアでは、冷たい水でのどの渇きを癒やすので、筋肉や骨が頻繁に痛むようになります。食事も事欠く貧しさで胃腸も壊します。「つまり、そもそも食べる量も足りないうえに、お腹に虫を飼ってるということなのよ」。二人はそれ以上話す気にはなれず、黙々と陳吉民医師の処方した薬を渡しました。
漢方科では、マレーシアの頼金合医師が苦悶の表情を浮かべる女性を診ていました。女性は、三十年前からずっと背中と腰が痛むのだと訴えました。頼医師は指で押してみてすぐに産後の養生が悪かったのだと分かりました。
息子は三十歳ですから、彼女も三十年間痛みを抱えてきたことになります。頼医師は、黒豆に生姜を混ぜて飲むよう言いました。ボランティアがクメール語に通訳しましたが、いかんせん三食も満足にとれない彼女は、黒豆など見たこともありません。
女性はただ頭を振るばかり。頼医師は三本の灸を出して、一本に火をつけ、膝に置きました。これは痛みを緩和するものです。「三本あげます。一本で十年、三本で三十年ですから、三本終わればよくなりますよ!」。こう聞いて、女性はようやく笑顔を見せました。
頼医師は「わずか三日間の医療奉仕ではたいしたことはできません。彼らは苦しいのです。心が苦しんでいると病気になります。私にできるのは、気持ちをほぐして笑顔にするということです」
七十歳の頼医師は大勢の患者を診るなかで、この世の苦しみの多くが心の苦しみだと知りました。極めて貧しく医療資源の乏しいカンボジアでは、診察室に入ってきた患者の顔を見ればいくらか分かります。別の女性患者は五十七歳で、灼熱の太陽に晒された肌は光沢を失っていました。夫は失明し、長男夫婦はタイに出稼ぎに行き、二人の孫の面倒を彼女が見ています。下の三人の息子は、よその州へ仕事に行き、一年に一、二回なんとか帰ってこれるだけだといいます。
女性は他人の牛の放牧を無償で手伝う代わりに、母牛が生んだ仔牛をもらう約束をしていました。一頭目は雇用主のもので、二頭目を彼女がもらうはずでした。彼女はずっとそれを期待していましたが、原野のあぜ道は黄色い土と枯れた草ばかりで、乾期には草さえ生えず、牛も痩せて骨と皮ばかりになってしまいました。二年が過ぎ、母牛が仔牛を産む前に、女性は体中が痛むようになりました。
頼医師は女性に「後で指圧をします。私を罵っても、叩いてもかまいません。今は私があなたの息子ですからね」と言いました。女性は泣き笑いし、ボランティアに彼女の心の痛みを打ち明けました。
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体を癒やすだけでなく心も癒やした漢方医科。貧困に苦しむ人々は安らぎを得て、感謝の気持ちを表した。(撮影/張麗雲) |
診るだけでなく治したい
陳吉民、廖光福、蘇聯和、張恒嘉の各医師の前には患者が次々とやってきました。廖医師が台湾から持ってきたポータブル超音波検査機が役に立ちました。照魔鏡のように末期癌や開放性結核もはっきりと映し出すのです。足に白い粉末を塗った四十八歳の男性スン・ヒークさんは、足を引きずって診察室に入ってきました。はじめはただ足が痛いだけだと思っていましたが、検査の結果、心臓弁膜にも異常があると分かりました。
林俊龍執行長と張恒嘉医師が立ち会い、診察後に大きな病院で治療を受けるようにアドバイスすると、急に険しい顔をして慌て始めました。彼は診断を聞いて慌てたのではありません。交通費が払えないからです。幸いにもTYDAの医師が引き継いで、カンボジア慈済ボランティアがリレー式で交通手段を引き受け、彼は安心して慈済に託すことができました。
外科では患者の多くはガングリオン、粉瘤腫、疣腫、リンパ増殖疾患などでした。治療環境はかなり厳しく、木の机にシートを引いたのが手術台、ハエが飛び回り、照明も不足していました。五人の医師は、電気スタンドの弱々しい光を頼りに、機材も不足し電気メスもない状態で、執刀、縫合を行ったのです。二日半で一百二十六件の手術が行われました。
ある患者は、頸部脂肪腫がすでに五、六センチの大きさになっていました。肘の尺骨神経の横にも巨大な粉瘤腫があり、執刀者の忍耐心と臨機応変な対応が試されました。
初めて海外での医療奉仕に参加した玉里慈済医院の林威佑医師はこう話します。「簡守信院長は何があっても落ち着いていて、環境に合わせて臨機応変に対応します。出血量をわずかに抑えて、完璧に手術をやり遂げます。患者が喜ぶ顔を見ると、苦労など忘れてしまうのです」
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現地のボランティアが視力測定の補助をしているところ。(撮影/洪文清)
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チャムカルロー委託病院の手術室の隣の回復室は、ボランティアの手で、より多くの患者を収容できる臨時手術室に生まれ変わる。エアコンを付け、壁を塗り替えて埃が落ちないようにする。(撮影/徐振富) |
必ず戻ってくる
カンボジアは農業国です。中国に源を発するメコン河は、ミャンマー、ラオス、タイ、ベトナム、カンボジアを貫流しています。クメール語のMekongは「母親」の意味です。母なる川は何千年にわたって人々の暮らしを育んできたのです。しかし、気候変動や過度の開発により「母親」はもはや人類の際限なき要求には応えられなくなっています。生態系は激変し、水害を引き起こしました。肥沃な良田も大水の衝撃に耐えることはできませんでした。
一九九四年、相次ぐ水害と旱魃が、二十年以上にわたる内戦を終えたばかりの農業国に深刻な飢餓をもたらしました。慈済基金会は一九九四年から一九九七年までの間、被災地に吸い上げポンプと食糧を届けました。しかし、内戦が絶えず、援助は中止せざるを得ませんでした。
二○○七年になり、戦乱を避けて日本に渡り事業に成功していた実業家の釈順和さんがシンガポールで慈済を知り、研修を経て認証を受けました。祖国のことを思う彼は、カンボジアの父親に会いに行った際に目にした貧しい人々の生活状況に胸を痛めました。そして、二○一一年に、当時の慈済シンガポール支部の劉済雨支部長を招き、カンボジアで「幸福な人生」講座を開きました。ここに再び慈済とカンボジアとの因縁が結ばれたのです。
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慈済ボランティア鄭龍さんは7歳のリザちゃんが頑張って歯科治療を終えたことを褒めた。(撮影/林玲悧) |
今回は、慈済がカンボジアで初めて実施する大型医療奉仕で、眼鏡を作る眼科、内科、外科、歯科、漢方医科が合計二千八百八十人に医療を提供しました。しかし、なお多くの患者が治療を待っています。
林俊龍医師は、箱いっぱいのビタミン剤を取り出して、一つ一つ彼らに手渡しました。土地の痩せたこの地方では、たとえビタミン剤でもないよりはましです。林医師は「フィリピン、インドネシア、マレーシアでは、慈済人医会のメンバーも増え、貧しい人たちも病院にかかることができるようになりました。ただカンボジアだけは、まだまだ台湾からの支援が必要です」
十名にも満たない慈済の認証を受けたカンボジアのボランティアたちは極めて厳しい環境下で大型共同医療奉仕を成し遂げました。国際医療奉仕に何度も参加している簡守信院長さえ、不思議なことだと思いました。
彼は医療スタッフに向かって、「全てはカンボジアからです。カンボジア慈済志業の責任者である謝明勲さんと胡美玲さん夫妻を『アジアの孤児』にしてはなりません。私たちは頑張って必ずまた帰ってきます!」と励ましました。
(資料提供/許雅玲、林玲悧、大愛テレビ「大愛全記録」)
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