南投収容所で母国への送還を待つ異邦人。
辛酸と不安を味わいつくしたが、
台湾人の思いやりと善意に触れ、
家へと続く道も温もりに包まれている
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中部慈済人医会とボランティアは、毎月南投市草屯鎮にある「内政部入出国及移民署南投収容所」を訪れ、帰国を待つ収容者に無料診療を行う。
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日本の消印が押された封筒が、巡り巡って洪啓芬医師の元に届いた。ぎこちない中国語だが、整った漢字で書かれている。「……南投収容所にいた頃、高血圧に悩む私に、先生は血圧を下げる薬や睡眠剤をくださいました。何もお返しできないことを申しわけなく感じました。
日本に帰国後、九州と四国で職を探しました。二カ月間建設現場で肉体労働をして、いくばくかの給料を稼ぎ、台湾の皆さんや先生の大きな恩義に報いたいと思いました。
わずかですが慈済基金会日本支部にお礼のための意味を込めて寄付をします。多くの台湾の方々の思いやり、善意、恩情に心から感謝しています。もう台湾には行けないと思うと寂しいです……」。差出人に「衣川満」と書かれたこの手紙には、新宿にある慈済基金会の日本支部が発行した寄付金四万円の領収書が同封されていた。
衣川満さんは、かつて台湾移民署南投収容所に収容され、病気がきっかけで洪啓芬医師に出会ったのだった。
台湾の人情に報いた衣川満さん
二○一一年二月、朝から冷え込む中、洪医師のクリニックは患者であふれかえっていた。その時、六十歳くらいの男性が手錠と足かせをかけられ、憔悴しきった様子で南投收容所の職員に連れられてきた。
「洪先生、この人ここ何日もずっと息が切れて顔も真っ赤に火照って、脳卒中じゃないかと心配で、急いで先生に診せに来たんです!」と職員の劉三賢さんは説明した。
経験から洪医師は高血圧だろうと思った。血圧を測るとやはり正常値を大幅に上回っている。「高すぎる、危険だ。幸い脳卒中や心筋梗塞の症状は出ていないが、まずは降圧剤を処方して、後日空腹時に血液と尿を詳しく検査しよう」と洪医師は言った。
「どこが苦しいですか?」。患者が少し落ち着くと洪医師はこう尋ねた。すると中国語を理解していないようだったため、簡単な英語で会話をした。
「この人は日本人で、衣川満と言います。三カ月間台湾を放浪して、警察から収容所に送られてきました。パスポートの期限切れで、今送還手続きをしているところです」と劉氏は補足した。
翌日、洪医師は衣川さんの病状がなお気にかかり、妻の陳美恵さんに「日本語の通訳を見つけて、二人で差し入れを持って会いに行かないか?」と提案した。
二人が収容施設に着くと、衣川さんは身なりを整え、短い髪は丁寧に片側にまとめられ、一晩休んで顔色もだいぶ良くなっていた。洪医師を見ると慌てて身を起こし、お辞儀をして「ありがとう!」と言った。洪医師は日本の男性は礼儀を重んじるのだなと思い、通訳を介して衣川さんがなぜ台湾に来たのかを理解していった。
衣川さんは千葉県で大工をしていた。しかし失業して家を失い、家族も次々とこの世を去ってしまう。人生の無常と挫折に耐えかねた彼は、バックパックと寝袋を担ぎ、中国、ベトナム、東南アジアの国々を放浪しては、幾度もオーバーステイで日本に送還されていたという。
二○一○年十月、衣川さんはたった十万円を手に台湾に着いた。新竹から南下し、寝泊まりする場所がなければ野宿をしたが、交番に連行されたことも二度あった。当時はパスポートの期限内だったため、警官は彼を咎めることなく、そばまでご馳走してくれた。
台南に着いた時、所持金はゼロに近かった。長期の空腹に耐えきれずにスーパーでのり巻きを盗み、その場で捕まったという。店側はそれ以上追及しなかったが、パスポートの期限が切れていたため、移民署の南投収容所で送還を待つことになった。
「台湾が大好きです。台湾の方は人情に厚く、本当はここで余生を過ごしたいと思っていました。けれど……」。ここまで話すと衣川さんはうなだれて言葉をつまらせた。
「差し入れを持って来ましたから、これで体力をつけてください。それに下着も……」と洪医師は腰を曲げて手渡した。
「ありがとう!」。衣川さんはすぐさま感動した様子でお礼を言った。
高齢の体で単身放浪していた衣川さんはほかにも体に問題があるのではと心配になったため、洪医師はきちんと検査するため収容施設の職員に頼んで衣川さんをクリニックに呼んだ。すると高血圧以外に、高血圧の影響による心臓肥大、心筋の酸素不足、腎機能の低下、またコレステロール値も高いことが分かった。
四カ月の投薬治療と療養により、衣川さんの健康状態は徐々に安定し、表情も収容施設に来たばかりの頃と比べて明るくなった。手続きが済み、日本へ送還される直前、洪医師と慈済ボランティアによって衣川さんに再び喜びがもたらされた。
「先生、この四カ月間の医療費や検査費用はおいくらですか?」。衣川さんは通訳を介して遠慮がちに洪医師に訊ねた。洪医師は「これは慈済の無料診療ですから、ご心配なく」と答えた。
衣川さんは目を丸くした。「慈済?」
「そうですよ! 我々はみな慈済のボランティアです。慈済人医会の医師は必要な方に無料診療を行います。台湾で働く外国の方も対象です」。洪医師はそう言って日本語の『慈済ものがたり』を差し出すと、慈済ボランティアが岩手県を訪れ、東日本大震災で津波に遭った被災者を支援している写真を指差した。
「ほら、この『藍天白雲(ブルーのシャツに白いズボン)』の制服を着ているのが慈済ボランティアです。津波の発生後、いち早く被害が深刻な被災地へ入り、被災者に食糧や毛布などの物資を送りました」。衣川さんは少しだけ理解できる中国語の文章をじっくりと読み、写真をなでて目に涙を浮かべた。
洪医師は「日本に帰国して困ったことがあれば、慈済の日本支部を訪ねてください」と言い、裏表紙にある慈済東京支部の連絡先を指差した。そして、「あるいは、あなたの力で困っている人を助けることもできますよ」とも言った。
さらに洪医師は餞別に日本語版の『静思語』を贈った。衣川さんは本を受け取ると、大事そうに胸に抱えた。ふるさとの家族もこの世を去ったが、見知らぬ国で医師やボランティアの懇切丁寧な心遣いを受けた。中国語で気持ちを表すことができないため、再び九十度のお辞儀でもって感謝を伝えるほかなかった。「ありがとう、台湾!」
衣川さんが帰国して三カ月が経った頃、洪医師は一通の手紙と、同封された領収書を受け取った。手紙には、帰国後大工となり、わずかな給料から四万円を貯めて東京にある慈済の支部に寄付したと書いてあった。自分を助けてくれた人への恩返しのため、六十歳の年長者が工事現場で肉体労働をしているということに洪医師は心を痛めると同時に、感動した。今まさに愛が循環したのだと感じたからだ。
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施療以外の日に収容者が体調を崩した場合、洪医師のクリニックに連れてきて診療を受ける。診療費は取らず、慈済名義で診察を行う。 |
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旅行で台湾に来た日本人の衣川満さん(左端)は、旅費を使い切り在留期間が過ぎても台湾に滞在している。病気と飢えで街をさまよっている時に南投収容所に送られ、洪啓芬医師(真中)の検査と治療を受けた。(撮影/黄裕仁)
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プロフェッショナルとなり現実の苦難を目にする
二〇〇九年四月、移民署南投収容所は中部、南部一帯の不法滞在外国人を収容することになった。林貽俊初代所長は宜蘭収容所に勤めていた際、北区慈済人医会と協力して無料診療を行ったことがあり、南投赴任後も中部の慈済ボランティアにかけあって、同年五月三日に収容者向け無料診療が初めて実施された。
収容者は長いこと健康をおろそかにしている上、国民健康保険に加入する資格もない。その上ビザやパスポートの期限が切れているので調子が悪くても医者に行くことができず、送還を待つ間はいっそう不安になりがちだと林所長は言う。所長は収容者の健康を気にかけており、慈済人医会の定期的な無料診療に期待を寄せた。
慈済ボランティアの審査を経て、中区慈済人医会が毎月一度、南投収容所で収容者の健康を守るための無料診療を行うことが決まった。収容所の同意を得た後、南投県草屯地区の慈済ボランティアである彭秀蓁さんがさらにボランティアを集め、所内で菜食料理セミナーや手作り教室を開き、外国から来た人々の「帰宅を待つ」日々に寄り添った。
無料診療がない日には外国人収容者は医者にかかれない。そこで洪啓芬医師は収容所に、「私のクリニックはほんの二キロ先にあるから、平日に診療が必要なら私の所に連れてきなさい。無料で診療してあげましょう」と申し出た。
洪医師はお金を取らないだけでなく、外国人収容者の心と体の健康を思いやり、前向きな思考へ導く。干天の慈雨のように、善の種は洪医師の善行に励まされ、異国で芽生える……。
医療の保障がない外国人収容者にとって、異国の地で受けた手助けは心に刻まれるものだ。だが洪医師は、これは自分の務めだと感じている。
小さい頃から何不自由なく育ち、学業や人生も順風満帆だった洪医師は「苦難」とは無縁で、この世の暗闇の部分で奏でられる人生の哀歌など知らなかった。
一九九九年の台湾中部大地震の際、娘が通っていた南投県の草屯僑光小学校が慈済の援助で再建されたことが、洪医師が慈済を知ったきっかけだ。しかしその後何度か呼びかけに応じて無料診療を行ったものの、それは単にお金を取らないというだけで、「日々の仕事」と変わりがないと思っていた。
二〇〇八年五月、四川大地震が発生すると、洪医師は慈済ボランティアの強い要望により災害救助医療チームに加わった。
被災地の洛水に到着すると、凄まじい苦難の光景が目の中に飛び込んできた。果てしなく広がる惨状に洪医師は愕然とした。「世の中にはこんな苦難があったのに、自分は全く気づきもしなかった。毎年世界各地を旅行し、苦労して稼いだ金を楽しみに使うのは当然だと思っていた」
ある日、列に並んでいない被災者十数人が診察をしてほしいとやってきた。しかし午後の無料診療の時間が差し迫っており、今診察を引き受けたら、さらに多くの「十数人」を待たせることになる……。
「後で知ったのですが、あの晩、あの方々はプラスチックの腰かけに座り、翌朝の無料診療が始まるまで待ち続けたそうなんです」と洪医師は思い出して嘆息した。
被災地の惨状と寄る辺のない被災者を目の当たりにして、洪医師の心は打ち震えた。帰国後は積極的に慈済人医会に参加し、訓練を受けて慈済ボランティアにもなった。一年後、洪医師の妻も夫に続いてボランティアとなり、二人で収容所の外国人収容者を世話するようになった。
「昔は仕事に疲れると、預金口座の金額が増えているのを見るのが慰めでした。まるで紙幣印刷機のようで、人生に心躍る瞬間も心の拠り所もありませんでした」と洪医師は過去を振り返る。
今では診察は洪医師にとって単なる仕事ではなく使命に変わった。「病」だけでなく「人」を診察し、病気に合わせた薬を与えるだけでなく「心の治療」を行う。愛と思いやりで、患者の立場に立ち、病の苦しみを分かち合い、苦しみを取り除き心に安らぎを与えるのだ。
(慈済月刊六〇四期より)
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