苗栗県の南庄郷は人気の観光地で休日には多くの人でにぎわっている。一方、ある医療団体は毎月この地の山間部に入り、蓬莱、獅山村、向天湖、東河村に向う。
十五年来、彼らだけが行く道。その辺鄙な村の古びた家々には、人情味に溢れた美しい光景がある。
村々を回り、病人を治療し薬を処方する医者は、古い時代からいる。薬で病が治り、医術が効果を発揮してきたため、彼らは人々の生命の守護神となっている。
今でもこうした出向く医療=往診は人々に必要とされている。台湾慈済人医会のメンバーは、決まった場所で施療を行うだけでなく、薬を携えて家々を訪問して施療を行っている。彼らは自分たちの時間と資源を使って、病院に来られない人たちの所に出向き、医療と温かい人情を届けている。医療スタッフと患者は互いに家族のように接し、健康を護っている。
苗栗県南庄郷は緑豊かな山林の奥にある純朴で静かな村である。若い人は外で生活しているため、山に残っているのは年寄りと子供。病気になって医者にかかりたくても、あまりにも距離が遠くて行けない。中でも三湾山地区は山が各集落を遠く隔てており、衛生所と二軒の診療所だけで一万二千人余りの健康を護っている。三湾から下山して街に出るには車で一時間半もかかり、乏しい医療資源の中、お年寄りや体の不自由な人は軽い病気も重いものになってしまう。
苗栗地域の訪問ケアボランティアはこの状況を見かねて、長期的に家庭訪問を行うほか、二〇〇二年に台中地区の慈済人医会に施療を依頼した。重い病気や緊急の症状は治療できないが、慢性病や衛生教育方面で効果を発揮している。
十数年来、晴れの日も雨の日も、寒くても暑くても、活動が途絶えたことはない。決まって東河小学校で施療するほか、四つの往診コースを切り開いた。その足取りは山をいくつも超え、医者と患者の間には感動的な物語がいくつも生まれている。
山の家族が気にかかる
中部地区慈済人医会の発起人である紀邦杰医師はほとんど毎月、山地に出かけている。笑うと布袋様のような紀邦杰医師は、苗栗地区訪問ケアボランティアの皆に好かれるサンタクロースである。彼はいつも方法を考えて、弱者家庭の医療に励んでいる。
南庄山の詹兄弟は小学生の時に「骨形成不全症」と診断され、叔母が彼らの面倒を見てきた。紀邦杰は彼らのホームドクターのように毎月往診に行き、長い間座っているためにできた兄の方の床ずれのケアを行うと共に、あれこれ改善の道を探った。訪問ボランティアの廖菊珍の提案で、紀医師は兄のために足踏み台の高さが変えられ、移動に便利な「多機能車椅子」を作ることにした。
紀邦杰は彼らのことを自分の家族のようにいつも気にかけていた。兄の方が病気で亡くなった時、取り乱した叔母は紀邦杰にまっさきに連絡を取った。このことからも一家が彼に深い信頼を寄せていることが分かる。
紀邦杰は南庄にはほかにも数多くの「家族」がいる。五十六歳の風德金は毎月東河小学校で行われる施療活動でボランティアをしており、医師とこの地域に住むサイシャット族の間の通訳をしている。二〇〇二年、彼は両親を亡くした後、美容室の仕事を辞め、脳性麻痺の弟を世話するために故郷に戻ってきた。少ない収入に加え、弟が病床に伏せている状態で、支援を得られない彼の孤独さは想像に余りある。
紀邦杰は毎月二十人近い医師や看護師、薬剤師、ボランティアを伴って往診に出かけ、数人だけのひっそりとした家に温かい空気を吹き込んでいる。紀邦杰は定期的な往診を行うだけでなく、施療の数日後に電話を入れる。短い挨拶を交わすだけだが、風德金にはそれが格別温かい気遣いに感じられる。「紀先生が毎月来てくれるだけでも十分なのに、何度も電話をしていろいろと注意してくれるのです。先生がいるだけでとても安心です」。今世は紀医師に大きな借りができた、と風德金はボランティアによく言う。
十数年間、風德金は弟の世話に専念し、弟の一挙手一投足が彼の心に響く。二〇一三年十二月初め、弟は長い夢から目覚めることなく、この世を去った。紀邦杰は訃報に接して、風德金を訪れた。「先生、弟がこんなに突然亡くなるとは思ってもいませんでした……」。紀邦杰を見るなり、風德金は嗚咽し、弟のことが心残りだ、と言った。
その後、風德金は施療ボランティアとして同胞のサイシャット族の世話をするようになった。「自分が元気を出さなければ、紀先生に対して申し訳が立ちません」と言う。
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紀邦杰医師は長い間、山奥や辺鄙な地方でお年寄りや病院に出向けない患者のため全力で医療奉仕を続けている。
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サイシャット族のプリンセス
陳成金医師にとって、「プリンセスお婆ちゃん」、夏玉嬌は最も気にかけている「家族」である。
南庄郷向天湖集落に向かう曲がりくねった小道を進んでゆくと、目の前は雲と霧に覆われ、草木が生い茂った山々が幾重にも折り重なっている。古い背の低い家が美しい谷間に置き去りにされたように点在している。屋根が崩れ落ちた家もあり、ブリキで何度も修繕されていた。若者は皆都会に出て働いており、これらの家に住んでいるのは、ほとんどが独り住まいの高齢者である。
陳成金は慣れた様子で路地に入って行く。後ろについていた人たちは驚いて、「陳先生、ここには何回来ているのですか?」と聞かずにはおれなかった。
「陳先生はほとんど毎回施療に来ていて、いつもこの道を通って向天湖に行くのです。彼は全てのケースを把握していて、皆さん陳先生が来るのをとても楽しみにしているのです」と、側にいた看護師の江昭瑢が代わりに答えた。
陳成金は微笑んでうなずいた。「中には私が最初から見ている人もいます。二〇〇三年から十数年になるケースもあります」
「お婆さん、また診察にきましたよ!」と陳成金は古い家に向かって声を上げた。髪の毛が真っ白な夏玉嬌は陳成金が来るのを知っており、早くから身だしなみを整えて、居間に座って待っていた。
一九一〇年生れの夏玉嬌はサイシャット族の最後のプリンセスで、サイシャット語、中国語、閩南語、日本語そして客家語も話せる。客家系である陳成金は大半は客家語を使って彼女と会話している。「陳先生が私の世話をしてくれるようになって十年近くになります。とても感謝しています。私がこんなに元気なのは皆先生のおかげです」と夏玉嬌は話す。
慈済訪問ケアボランティアは二〇〇二年からサイシャット族のプリンセス一家の面倒を見ている。夏玉嬌の孫の嫁は三人の幼い曾孫を残して亡くなった。一番小さい子は小学校一年生の女の子で、夏玉嬌が最も可愛がっている。小さいなりに曾祖母が入浴するのを手伝っている。
夏玉嬌の一人息子は中風で病床について長く、退役軍人年金をもらってはいるが、長期的な医療費や消耗品の支払いで生活は相変わらず苦しい。陳成金が往診に来る時は、薬や栄養剤を届けるほか、一人ぼっちの夏玉嬌のおしゃべりの相手をする。
ある年の七月、陳成金は山に入る前にカルテを取り出してめくった。「そうだ! プリンセスは来月の誕生日に百一歳になるんだ。長生きな人だなあ。ケーキを買って祝ってあげよう!」。その時から毎年七月に訪問する時は、必ずケーキを持って山に入り、夏玉嬌の誕生日を祝った。
二〇一六年、サイシャット族のプリンセス、夏玉嬌は百六歳になり、医療人員は彼女の誕生日に、彼女の息子も居間に連れてきて一緒に祝った。息子を見ると、夏玉嬌は顔をほころばせ、口の中のケーキを噛むのも忘れていた。
夏玉嬌は体が不自由なため、病床の息子とは離れた部屋で生活している。孫の嫁が世話しているが、忙しく、舅のベッドを夏玉嬌夏玉嬌のいる部屋まで移動させる暇がなかなかない。だから、母と子は滅多に顔を会わせることがなかったのだ。今日、息子がケーキを食べるのを見て夏玉嬌は安心し、口の中のケーキを飲み込んだ。
ここのお年寄りは皆毎月の人医会の施療を楽しみにしており、顔見知りの医者が来ない時は落胆する。「月に一回、お年寄りたちの世話をするには限りがあるのですが、逆に彼らから学ぶ方が多いのです。彼らの痛みに対する楽観的な態度と、感謝する気持ちに、いつも教えられています」
ボランティアの温かい付き添いと医者と患者の間の深い情を目の当たりにして、陳成金はこの活動をやめることはできない。十数年間の奉仕の中で悟ったことがある。「表向きは施療ですが、実際は医療人員に『苦を見て福を知る』ことを体験してもらうと同時に、身寄りのないお年寄りや病人に家族の付き添いと思いやりを感じてもらっているのです」
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サイシャット族のプリンセス、夏玉嬌お婆さんは毎回、陳成金医師が来ると、自分の息子に会ったように喜ぶ。(攝影/温玉嬌)
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採算は合わないが
止めてはいけない
苗栗で開業医をしている張東祥は学生の時に、「辺鄙な所で医療を行い、弱者のために奉仕したい」と立願した。台北の家と家業を離れて、頭份で仕事を始めた時、遠隔地の貧困者の世話をする機会があった。
二〇〇三年、一人の慈済ボランティアから貧しい患者のために医療費を出すための診断書を頼まれた。この時、「慈済には『人医会』という医療ボランティアチームがありますね?」と張東祥が聞くと、そのボランティアは翌日すぐに人医会の入会申込書を持って来た。彼は苗栗地区初めての慈済人医会医師となった。
ある日、一人の看護師が張東祥と共に南庄に家庭訪問した時のこと。まだかなりの距離があるのに、ケア対象世帯の家から悪臭が漂ってくるのに気がついた。彼女はびくびくして不安になったが、中に入らないわけにもいかず、一瞬ぼーっとして、手に持っていた血糖値を計る機器を床に落としてしまった。張東祥医師は床から立ち上る異臭も気にせず、ただちに屈んでそれを探した。
その看護師は後にこう語っている。「病院では名声のある外科医は皆顎で人を使い、看護師を気ままに呼びつけますが、張医師の腰の低い態度にはびっくりしました」
山間部には若い先住民も多少いる。彼らの体は丈夫なのだが、長い間酒とタバコを飲み、檳瑯を噛んできたため、肝硬変や高血圧、高血糖などの慢性病を患い、医療人員がどんなに言っても悪い習慣を変えることができない。
いくら言っても聞かない人には、医療人員も失望感を味わい、家庭訪問の成果に疑問を持ってしまう。ある看護師が張東祥に聞いたことがある。「またあの人の所に行くのですか? 医療の資源と皆の時間を無駄にしているのではないですか?」
すると張東祥は、「現実問題として状況を変えるのは難しいと思うが、患者は『生老病死』の苦しみを生命で以て啓示している。全てのケースは私たちの善行に対する決意を試しているんだよ。忍耐強く付き添ってあげれば、いつか縁が結ばれた時、彼は人生の転機を迎えるはずだ」と答えた。
以前、初めて南庄に施療に行った時、中部地区人医会創設者の紀邦杰医師に教えを請うたことがある。「一回の施療に五十~六十人の医療人員を動員しても、同等数の患者の世話はできません。効率とコストを考えると、やる価値があるといえるでしょうか?」。紀医師はすぐには答えなかった。
十数年後、彼は紀医師の心遣いが理解できた。慈済の施療はもともと「動く道場」のようなもので、医療人員に「苦を見て福を知る」「病を師とする」ことを生命の真理から体得し、人生の真理を考えさせるためのものである。
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医療チームには医療人員とボランティアがいるが、長期的な交流で互いに信頼感し合っている。
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医者と患者の間の情は
山の集落を温める
以前、台中の医者たちが苦労しながらも南庄に施療をしに来ていたが、十数年後の今では、苗栗の地元の医師や看護師が熱心に行っている。夫婦や一家で参加している人もおり、地元の情で以て地元の人々に奉仕している。
地元の医療人員が問題なく行っているとは言え、紀邦杰は初心を忘れず、若い学生や医師、看護師を伴って南庄で専門の奉仕を行っている。また、医療奉仕を受ける村人に「善行は待っていてはいけない」「掌を下にして人助けする人になりましょう」と言うのを忘れない。
「苦難に喘ぐ人が出てこれなければ、福のある人が出向いて行って、彼らの苦を取り除くべきです」と證厳法師が開示している。医療人員は休みを返上して、山を超え谷を超え、南庄に出かけている。愛と思いやりでお年寄りや弱者の拠り所となり、身体障害者を安心させている。彼らは世の苦難をなくし、不運な人生に光と希望をもたらしている。
在宅往診 |
往診は慈済の施療の中でもかなり重要な活動である。行動が不自由な人や交通手段のない患者に医療奉仕するために、医療人員自ら患者の家に往診に行く。
現地の慈済ボランティアは長期的に住民と交流し続けているため、どこに支援を必要としている弱者家庭があるのかを知っており、施療する数日前に各家庭に知らせている。どの地区の往診でも、医療チームは医師、看護師、薬剤師とボランティアで構成されている。携行するのはその地区で長期に渡って施療を受けている住民のカルテと看護記録、医薬品カバンなどである。(文・蔡奇成)
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