
衆生が苦難にある時が
菩薩が精進し修行をする時
普段聴いている法を
社会で応用することができれば
修行の道場になる
六月二日に梅雨が全台湾を覆いました。稀に見る豪雨により、至る所で山崩れが起きて道路は寸断され、洪水や浸水するなどの災害が発生しました。極端な気候変動による大自然の威力に驚くばかりですが、人間は敬虔な心で自らを戒めなければなりません。
大勢のボランティアが自分の持ち場を守って黙々と奉仕していました。電気技師は危険を冒して切れた電線を直し、技師たちは寸断された道路を補修していました。次々に襲いかかる災難に際し、私たち一人一人が資源を大切にし、大地を護って節水節電することが、天地に恩返しする最良の方法です。さらに日頃私たちの生活を便利にしてくれている人たちにも感謝しなければなりません。
各地のボランティアから次々と災害状況の報告がきました。早く救済に行かなければと心を焦らせながら、雨足が少しでも弱くなると行ける所まで行って救済をしていました。水も電気も通っていない所では、すぐに温かい弁当を作って届けました。ある被災者はこの生涯で心まで温かくなる食事だったと言っていました。
慈済ボランティアはふだんから里長(隣組長)や社会福祉課と連携し、地域のお年寄りや病人などの、自分では家を片付けられない人のゴミや汚物の処理をしています。中には十数年もゴミがたまった家に住んでいる人もいます。できれば家族も一緒に清掃して、生活環境の改善に協力してほしいと願っています。
里長や社会福祉課から、サポートが必要な人がいるという知らせを受けると、慈済人は訪問ケアに行きますが、門前払いに遭うこともあります。それでもあきらめずに何度でも粘り強く足を運びます。そうして最後には頼み込んでやっと入れてもらうということがよくあります。それでもボランティアは苦労も汚いことも恐れず、清掃した後は家具などを元の位置に運んで、彼らに寄り添っています。
しかし、予告なしに襲ってくる水害は泥水を家の中まで流れ込ませ、家具や地下室を水浸しにします。広い被災地の救済には大勢のボランティアが必要になります。
慈済人は辛いという言葉を口にしませんが、清掃は辛いものです。七十、八十を超えたお年寄りまでが泥を運ぶリレーに参加していました。私は、休息の時間に疲れ切って、肩を寄せ合って休んでいる写真を見て、感動で胸がいっぱいになりました。
山の上に住んでいるお年寄りをボランティアが支援に行く時は、予め被災状況を詳しく調べてから必要に応じてお手伝いをします。あるお年寄りが、奉仕を終えて帰ろうとするボランティアの手を握って放そうとしないこともありました。
車の通れない所では、ボランティアたちは隊伍を組んで生活用品を背負って前進し、その人たちが安心して暮らせることを見届けて初めて、自分たちも安心します。それは、人の苦を取り去った後に自分が法悦に満ちることです。
皆が菩薩になって
随時善念を発し
奉仕の手を差し伸べる
六月四日は以前から台湾の慈済人が精進共修を行う日でしたが、大雨と救済のため取り止めました。「菩薩の縁は苦しむ菩薩との縁」と言います。衆生に苦難のある時が、菩薩が精進し励む時です。ボランティアは温かい弁当を届けたり、清掃したりという行動を修行としていました。被災者に温かな思いやりを伝え、清潔な環境を取り戻すのを手伝うことは、真の精進といえます。
菩薩として慈悲心を表す時は常に気をつけなければなりません。修得したものが身についていると、相手は自分を信じてくれ、困難に遭っている人は、安心して助けを受けることができ、一時の煩悩をなくすことができるのです。
日々聞いている法を社会で応用しなければなりません。一旦境地が現れた時、聴いていた理と行っていることが理にかなっているなら、奉仕は困難なことではありません。衆生が受けている苦しみと同じ苦しみを自分も受けていると感じられれば、自分の家族や友人ではないからと分け隔てることなく、無私の精神で助けることができます。
掃除をする時、全身泥にまみれても心は泥に染まらず、帰って洗えば明日また参加することができます。心が清浄無垢であれば、どんな境地でも良い感じを受けます。なぜなら参加することによって、座る所もない被災者の苦しみを知って、さらに無常を警戒し、どんな立派な住居も一時の災害に遭えばひとたまりもないことを体得することができます。
見返りを求めない奉仕は、相手が普段の生活に戻ったことに喜びを感じます。道場で円満に修行が終わって回向する時のように法悦に満ちることができます。
新北市双渓区の慈済ボランティアは、七十歳で一人暮らしの翁さんの世話をして数年になります。翁さんには妻と子がいますが、同居していません。豪雨の来る前日、ボランティアたちは、異臭を放つ山のようなゴミの整理をし終わった時、ボランティアの王再発さんが「自主的に来たのだから、その人の身になって何事も克服しなければ」と言いました。
そして入浴を手伝った後、誰も世話をする人がいないから老人ホームに入るように優しく説得すると、翁さんがやっと承知したので、社会福祉課に手続きをしました。
ボランティアたちは根気よく、嫌がったりせず、仁智勇の菩薩心を持って、十年あまりも翁さんに寄り添ってきました。このような難儀な道やひどい環境も甘んじて克服し、険しい道を平坦な菩提大道とみなして歩いています。
遠くにいる菩薩を求めるのではありません。菩薩とは自分の心の内にあるもので、善念を立てるとすぐさま奉仕の力が湧きます。災難が頻繁に起きているこの世では、善悪が偏り、種々の原因によって人心の不調が起きますが、皆がお互いにいたわりあうならば、安楽の世界になるのです。
戒、定、慧を修め
わずかな偏りもなく
誠を以て導き
一歩一歩しっかりと善導する
中国の北京に住む張玉宝さんは、二○一四年に慈済委員になる訓練を受けた時、法師が「どのボランティアも地域の中の堅実な種子です」と言われたのを聞いて、環境保全ボランティアを担当することに決めました。空気汚染や大地を傷つける環境問題のすべては人類によって造られることを知り、環境保全は人々に責任があるため避けては通るべきではないと思うようになりました。
始めた頃は腰を曲げて人が捨てた物を拾う時、人目を気にしていましたが、他のボランティアたちが堂々とやっているのを見て、大地と人類のための奉仕だと思い、積極的に宣伝をするまでになりました。
その後も慈済の環境保全回収車を運転して、地域の人たちにも一緒にやるように呼びかけ、毎週の環境保全日にはおやつを用意してふるまっています。
湖南省長沙の慈済委員、金蓮さんも環境保全をするように人々を誘っています。環境がよくないので引っ越しを考えていましたが、夫はここが安住の地だと言うので、彼女もここで自分を変えようと思いました。
政府も慈済人も環境保全に力を入れています。始めた時は困難なことと思っていましたが、法師の開示の中で、「一羽のスズメが森林の大火を消そうと羽を濡らしては森へ飛んで、滴を落とすことを絶え間なく続けていることに感動した天の神は、大雨を降らせ大火を鎮めました」というお話を聞きました。
このお話に啓発された彼女は、自分もこのスズメになろうと粘り強く地域の人たちに説き続けてきました。そして三年が経った今、各家庭に環境保全が着実に根を下ろしています。環境が良くなって皆は喜び、地域に環境保全所を提供しています。
小さな発願でも大きな環境に影響を及ぼすことができます。心を変えれば困難なことはなく、正しいことならやればいいのです。自分が先に立って身を以て励み、一心に偏りのない志を貫くなら、自然に善道へと向かって、清らかな大道へ邁進することができます。
善行は一人では成就できるものではなく、正しい方向に向かって導く人が必要です。さらにどの人も欠けてはならず、皆が一緒に行わなければなりません。環境保全は世界的にも重要視されている問題です。人々は本分を守って天地を尊重し、お互いに空間の浄化に努め、汚染をしないように心がけなければなりません。備えあれば憂いなしです。戒があれば不安はありません。
戒定慧を修め、人や物に接する時は悪因を造ってはなりません。心が乱れていなければ智慧が生じて福が増し、福縁を造るもとになります。
自分の心の世界を治め
煩悩に打ち克って
智慧を伸ばそう
人心が穏やかであれば
この世は浄土
曲がりくねった山道を通り過ぎると高い峰に到着します。眼下には広々とした境地を臨むことができます。仏に学ぶ者は修行の途中においてさまざまな障礙を受けても、慎重に細心に一歩一歩、愛と忍耐を発揮して道を切り開くことです。
無明を抑え、智慧を養うことです。心は一国と同じです。もしもうまく統括できなければ煩悩が起き、善と悪が交戦すれば、心の世界は動揺して不安になります。屈強な心の魔を調伏し、非を防いで悪を止めるためには、身口意を清く保ち、汚染を受けないことです。
凡夫の小我は私的な愛です。小我には、「欲しい」と求めても求められない苦が伴います。狭い心で何事も気にかけていると、煩悩に終始取りつかれることになります。いちいち悩まされ、煩わされ、苦しまされ、かき乱されます。でも、このような小さな愛、こだわる愛を天地の間にとばしてしまうと、天地と一体になる大我を目指すことができます。
人々は自分自身の心の世界を治め、寛大で清らかな念の心根を一片一片合わせていくと浄土になります。もしも煩悩が積み重なって複製されると、停滞して前へ進めず、善根が中断してしまいます。限りある貴い命が時と共に流れ去ると同時に、慧命も消失してしまいます。
法を聴いて心に留め、その善法を日常生活の中に応用しなければなりません。人々に利益し、善縁を養うと、自然に煩悩に費やす時間がなくなります。身体は道器であり、一日やればそれだけ多く得ることができます。一分多く奉仕すれば、一分の善縁と福縁が得られます。
心を善に向けて修行すると、悪念が心に入り込む隙がなくなります。一瞬でも一秒でも、心の世界を護って、智慧を凝集し、散漫にならないようにしましょう。皆さんがよくよく用心されますよう願っています。
❏静思語 【受法】
法を聞いたあと、日常生活の中で身をもって力行することができるのを「受法」という。
|