慈濟傳播人文志業基金會
観音山の「水背負い隊」
 
●子どもの頃、登山者にもらった一杯のお茶に感謝して、二十七年来、水運びの種を蒔いてきた蘇進雄さん。
遙かに見渡せば幾重にも連なる大屯火山群。視線を落とせば、五股と関渡の間にうっすら横たわる赤い関渡大橋。右に渡れば曲がりくねった基隆河と、傍らに静かに横たわる三角の社子島。陽光を反射してきらめく一筋の曲線は、台北を守る母なる川―淡水河。海抜六百十六メートルの観音山から見渡す視界には、台北盆地の風光がすべて収まり、青空を背景にして、まるで一幅の細やかな水彩画のようです。ただし、この素晴らしい景色を目にするには、二千段の階段をクリアしなければなりません。
 
四方八方に広がる観音山頂への登山道のうち、凌雲寺から始まる硬漢嶺登山道は全長千五百六十三メートル。その約千二百メートル地点に観音菩薩像があります。その観音像の前に息を切らせた三人の登山者が立ち止まっていました。汗だくの登山者は、「水を飲んでから、また登ろう」と言いました。手ぶらの仲間は彫像の下にある蛇口をさっとひねり、水を両手に受けて一気に飲み干しました。のどの渇きが癒え、呼吸が徐々に落ち着くと、彼らはまた山を登っていきました。山頂付近の観音像と硬漢嶺の牌楼の傍らには、水を持参していなかったり飲み尽くしてしまった登山者たちのために、それぞれ給水所が設置してあります。
 
この光景こそ、古い世代にはなじみ深い奉茶文化にほかなりません。やかんと茶碗が人の往来の多い辻や木の下に置かれ、道行く人が茶を飲める。それは昔の台湾においては人情味あふれる日常の一コマでした。「奉茶の歴史を遡れば、同様の行為は昔の中国では『施茶』と呼ばれていた。『施』とは、仏教の教えでいう『布施』と関係がある」。台湾大学歴史学研究科博士課程の呉景傑氏は、「奉茶の歴史」という文章の中でこう述べています。
 
水が簡単に手に入る現代、かつてどの街角にも見られた奉茶文化が次第に消滅していった一方で、水道のない山中では今でも時折奉茶の味に触れる機会があります。
 
近年水道が引かれた観音山でも、なお麓から水を背負って登り、登山者に絶えることなく茶を提供して、この貴重な奉茶文化を伝承している人がいます。労力と時間、そして金銭を「布施」して、山の中にこの心温まる人情味に溢れる光景を出現させたのは、いったい誰なのでしょうか。
 
●多くの人の協力によって、観音山頂の二カ所の水タンクは絶えることのない甘露の泉となっています。
 

献身の味

 
寒波で冷え込んだある朝の七時。木々に囲まれた郊外の空気はいっそう冷たく、吹きつける寒風を遮るにはジャンパーが二枚必要でした。次々に到着するバイク。エンジンを切り、ヘルメットを脱ぐか脱がないかのうちに、「おはよう」「おはようございます!」と、元気に声をかけ合います。毎週日曜朝七時、「観音山水背負い隊」の隊員は凌雲寺下方の「奉茶基地」に集合し、硬漢嶺に登る準備をします。
 
コンテナハウスに入ると、整然と並べられた約三十組のしょいこが目に入ります。タンクは五リットルから十リットル、二十リットルまで、自分の体力に応じて自由に選ぶことができます。蛇口がはめ込まれたガラス製スクリーンの後ろには、RO逆浸透、紫外線、オゾン殺菌などの機能を備えた浄水器があります。隊員たちはきびきびとした動作で次から次へとタンクを受け取り、殺菌された流水をタンクに汲んでいきます。これらの行き届いた設備は、水背負い隊の創立者である蘇進雄会長が準備したものです。
 
「十五歳の時、観音山に登り、衆楽園の東屋で水を一杯もらって飲みました。いやあ、本当においしかったですね」と、今年四十二歳になる蘇さんは当時を振り返ります。喜びと満足感に満ちた表情は、今まさに二十七年前のあの甘露を口にしているかのようです。蘇さんが山の上で熱いお茶をもらったのはそれが初めてでした。中学を卒業したばかりの蘇さんは不思議でならず、「このお茶はどこから来たんですか?」と聞きました。登山者は「誰かが背負ってきたんだよ」と答えましたが、蘇さんは納得できませんでした。登るだけでも大変なのに、水を背負って?
 
●山頂からは台北盆地の風景が一望できる。緑が多く交通も便利な五股の観音山には平日休日を問わず多くの登山愛好者が訪れる。
 
半信半疑の蘇さんは、若さゆえの無知と喉の渇きが癒やされた満足感とに後押しされて、五百ミリリットルのミネラルウォーターを背負って登ってみました。最初は見られるのが恥ずかしかったので、こっそりと東屋の大きな水タンクに注ぎました。蘇さんは、苦労して水を運び上げ、水タンクに注ぐ瞬間、「やったー」と思ったそうです。初めて人に貢献したときの気持ちを語る表情は、満足感でいっぱいでした。ここから蘇さんの三十年近くにわたる水運びのストーリーが始まったのです。
 
五百ミリリットルから、二リットル、そしてやがて二十リットルになっていきました。食堂を開いている蘇さんは夜働いて昼間に休みます。仕事が終わってくたくたに疲れている時でも家で休む前に、真っ先に一人観音山に行き、水を背負って登りました。その量は日増しに多くなっていきました。
 

十年一日のごとく

 
なぜそんなにも情熱を持って水運びを続けることができるのかと尋ねると、衆楽園の登山者たちが喉を潤して満足している様子、またその後、喜んで感謝を伝えてくれた時の表情を見ると、一番エネルギーが湧いてくるのだと答えました。来る日も来る日も、彼は毎日のように観音山に通いました。「徴兵中に休暇で帰省した時も水運びに行っていました」と、当時は恋人だった妻の黄静怡さんが補足します。
●登山者が登山途中で空になった水筒にタンクの水を注ぐ。
 
そのうち蘇さんと登山者らが一緒に衆楽園へ水運びをするのが慣例行事となっていきました。しかし、幸せな時は長続きせず、金銭、政治、商売などが原因でトラブルとなり、互いの溝が深まっていきました。蘇さんは「これほど苦労して山を登ってまで、どうしてこんな問題が起きるのだろう」と嘆き、「何も欲しがらない団体ができればいいのになあ」と心の中で一人祈りました。何年も経った今、この願いが実現したのかもしれません。現在の水背負い隊長の一人、潘俊文さんは、「なぜなら、彼らはいつも先を争うように水を背負って行くからです。つまり奉仕の何たるかを理解しているのです」と話します。和気藹々とした雰囲気に引きつけられた潘隊長は、水運びに加わって十二年になりました。
 
二○○○年の元旦、蘇さんはにわかに奮起し、いとこの協力で観音像を観音山上に運び上げました。「観音山というからには観音様がいなければと思ったんです」。観音山の名の由来には、北投から見える山の形が観音様の顔に見えるという地形説、山上の廟の多くで観音菩薩を祀っているからという信仰説などいくつかの説がありますが、いずれにせよ、観音像を祀ったことで、観音山の名に「実」がまた一つ加わったわけです。蘇さんが観音山水背負い隊を結成したのもその年でした。
●毎週日曜日に各地から集まった隊員らが水を背負って硬漢嶺に登る。
 
観音像を安置してからというもの、水運びの参加者はますます増えていき、水背負い隊は活動開始から二十年目に入りました。隊員が取水しやすいよう、二○一○年には奉茶基地をつくりました。地主に年間二万元の地代を払って土地を借り、コンテナハウスを置いて、製水器、しょいこ、タンクなどの道具を準備しました。「彼が基地を建てたがっていると知って、私たちもお金を出そうとしましたが、彼は断固として受け入れませんでした」。毎週日曜に新荘から観音山へ体を鍛えにやってくる、水運び歴十年になる元小学校教師の戴さんはこう話しました。
 

善念と衝突

 
「観音山に来るたびに、鍋を作ったり、お茶をいれたり、二年余りの間、ここの水を使わせてもらってきました。そろそろ恩返ししなければならない頃だと思っていましたが、ずっと忙しくて……」と話すのは水運び歴一年余りの燕子さん。ようやく昨年一月に暇ができました。「夫と一緒に水運びを始め、それからずっと続けてきました」と嬉しそうに話します。
 
蘇さんは衆楽園の教訓から隊での金銭のやりとりを禁じました。明文化された規定のほか隊員たちの間には暗黙の了解があります。しかし、もし悪いことを考える人がいたらどうすればいいでしょうか。「コインは二枚で音がするのであって、一枚では音はしません」。蘇さんは智慧あるお年寄りのように微笑んで答えました。
 
他人に指示することなく、何でも自分からやる蘇さんの影響で、隊には自発的に活動する雰囲気が生まれました。観音山の水運びに参加する隊員は皆、自ら進んで行動します。新隊員が加われば積極的にサポートし、皆で和気藹々とした雰囲気をつくっています。ベテラン隊員はそれぞれ鍵を持ち、いつでもコンテナハウスを開けて水を運べるようにしています。
 
二○一一年に日本で東日本大震災が発生すると、蘇さんは悲しい雰囲気を取り除こうと隊員を集め、山上で福を祈る音楽会を催しました。音響設備や楽器は皆で協力して山に運び上げました。音楽会の目的は、善念を結集して世界のために幸せを祈ることでした。しかし、山林に反響する音楽は登山者たちの怒りを買ってしまいました。
 
蘇さんは進むためには引くことも必要と思い、登山者に謝罪しましたが、やはり悲しい気持ちでいっぱいでした。人のためにしているつもりが、ただの独りよがりで、かえって人に迷惑をかけることになっていた……。失意の中、彼は当時一緒に水運びをしていた杜清安さんと潘俊文さんに隊長を交代してもらいました。
 
●現在チームの事務を担当する杜清安隊長が隊員に声をかける。
 
しかし、蘇さんは決して引退したわけではありませんでした。思いを力に変え、観音山に立って一つ一つの山に大願をかけ、他の山に向かって、奉茶の感動をより多くの人と共有しようとしたのです。「まずは台北で一番高い七星山から始めました」と蘇さんは顔を上げて言いました。
 
観音山の静けさと蘇さんの善念を引き裂いた夜の音楽会は、蘇さんをどん底に突き落としたかのようでした。しかし、それこそが実は三十年目のスタートでした。水背負い隊はより多くの山の頂に広がっていったのです。
 
手始めに蘇さんは一人で各山に登り、奉茶に適した場所を探しました。初めて七星山上に水を運んだ蘇さんは、寒い山上では冷たい水はあまり飲まれないことに気がつき、熱いお茶のほうがいいのではないかと考えました。
 
台北市内の繁華街、林森北路にある食堂で、蘇さんはひっきりなしに訪れるお客にあいさつする一方、暇を見つけてわざわざ私にお茶を出してくれました。見るとカウンターには生姜酒の瓶があります。ガラス瓶につまった黄金色の生姜は蘇さんのこだわりです。「私たちが運ぶ水と同じです。飲んでもらうなら最高のものでなければ!」と、蘇さんはきっぱり言いました。
 
枸杞に棗、黄耆……。蘇さんは漢方薬のティーバッグを使って養生茶を入れることにしました。しかし、問題はどうやって熱いままのお茶を運ぶかでした。アイディアマンの蘇さんは、二十キロのブリキのタンクを探してきて、お茶と合わせて四十キロ近くになる荷物を山に運び上げました。初めて蘇さんと一緒に七星山に登った奥さんも、「登った後、夫は顔が真っ青になっていたんですよ」と不思議そうに語りました。蘇さんは同様の方法で四度、お茶を運び上げました。その後、断熱効果のある帆布と軽くて保温性のある茶の容器を発見し、帆布を容器の形に合わせてカットしてもらって、ようやく奉茶の「苦しみ」から解放されました。
 
●初春を迎え、桜がほころび始める観音山の山頂。隊員たちは自分の体力を捧げて20リットルの茶を山上まで運ぶことで、尊い奉仕の精神を伝えている。
 
そんな活躍にもかかわらず、蘇さんのフェイスブックには水背負い隊の活動についてはわずかに数回の投稿があるだけです。そのうちある投稿のタイトルは「二○一四年,十カ所で奉茶。メンバー三十名募集中」となっており、大崙頭山、剣潭山、茶壷山、皇帝殿など十の山が列挙されています。観音山の観音像の後ろにある貯水基地には、木の仕切板の外にポスターが貼られています。「二○一五年、三十カ所で奉茶。メンバー三十名募集中」と、同様のスタイルと内容です。下の方に蘇さんの電話番号がはっきり書かれていることに、蘇さんの決意が見て取れます。
 
ブリキタンクの時のように、蘇さんは実行しながらやり方を修正していきます。彼は決して全ての山で奉茶をする必要があるとは思っていません。人気もない場所もあるし、すでに水道やタンクが置いてある場合もあります。現在、定期的に奉茶を実施しているのは、七星山、九五峰、天上山で、それぞれの山に隊長がいます。「こうやって彼に騙されたんですよ」。観音山遊歩道を歩く道すがら、七星山を担当する楊隊長が私たちを追い越しつつ、冗談を言いました。
 
水運びであれ奉茶であれ、この善行は隊員たちにとって言わば嬉しい負担です。体も丈夫になり、人を喜ばせることもできるからです。善念の種が多くの力によって発揚されているのです。
 
「温かい気持ちになりますね。他の山で奉茶と言えば、普通はタンクがそこに置いてあるというもので、人が一杯ずつ手渡してくれることは少ないですから」。多くの山を制覇した高さん夫妻は、もらったばかりの養生茶を手にして言いました。
二○一五年の元旦、奉茶をするのにいい場所を見つけ、奉茶の設備一式を揃えた蘇さんは、合計十個のタンクで七星山の奉茶を始めました。それが二○一六年には二十二個に、二○一七年にはさらに三十六個にまで増えました。不思議なのは、どれだけ運んでも終わる時間はいつも同じ午前十時過ぎだということです。タンク一つにつき百人分ですから、二○一七年元旦には延べ三千六百人が七星山で水背負い隊の差し出す熱いお茶を飲んだというわけです。
●20リットル、30リットル――。隊員たちは各自の体力に応じた量の水を運ぶ。一緒に善念を載せて、一歩一歩甘泉を山上まで運び、必要な人に心身を潤してもらう。
 

強固な後ろ盾

 
このように水運びを続けてきた蘇さんが口にするのは、各山の隊長たちへの感謝です。彼は観音山水背負い隊の歴史の中でいつも離れずに黙黙と奉仕してきた隊員たちに感謝し、「もし後ろからの支援がなかったら、前進し続けることはできなかったでしょう」と話しました。
蘇さんの最大のサポーターは妻の黄静怡さんです。蘇さんは奉茶の費用を細かく計算したりせず、いつも事後報告だったり、夫婦げんかを避けるため、実際の費用より低く報告するのですが、それでも黄さんは彼を応援して、「寺社へのお布施と同じで、良いことをしているのだからいいんです。あれほど多くの人が影響を受けているんですもの。本当に感動しています」と話します。
 
以前、隊員が水代を分担しようと申し出ましたが、蘇さんが断ったので、あやうく喧嘩になりかけました。最近、顧問と呼ばれるベテラン隊員が借地料を負担すると断固主張しました。「いいことは全部君がやってしまうんだから。僕にも少しはいい顔させてくれないか」と冗談混じりに言って、ようやく蘇さんを説得することができたのです。しかし、不必要な金銭のいざこざを避けるため、蘇さんは顧問から直接地主に支払いをしてもらうことにしました。
●硬漢嶺の2000段の階段を一生懸命登った水背負い隊隊員は、両手で養身茶を持ち、登頂してきた登山者たちに親しげに声をかける。一杯の心温まるあいさつである。
 
養生茶を飲んだ後、お返しをしたいと言う登山者もいます。このような場合、蘇さんは現金をくれる代わりに養生茶のティーバッグを買ってくださいと頼むとともに、ぜひ一緒に水運びをして奉茶の楽しみを味わってみないかと誘っています。
蘇さんの母親は昨年の初め、林森北路の交差点で時速五十キロで走ってきたトラックに衝突されました。深刻なくも膜下出血のため集中治療室で治療を受けましたが、医師は回復の見込みは少ないと言いました。しかし、あきらめることのできない蘇さんは、「山の神様、母を助けてください」と言いながら、母の頭をなで続けました。すると十日後、お母さんは奇跡的に回復したのです。医師も驚き、首をかしげました。
 
蘇さんは決して水運びを神話化したくないと断りを入れつつ、「水運びにしろ他の人助けにしろ、日頃から積み重ねておけば、自分が必要になったときに返ってくるのかもしれませんね」と言いました。
 
水背負い隊の正式名称は「アジア形上観音山水背負い隊」です。「形上」というのは、蘇さんの説明によると、人は空のコップのようなもので、善を行う時に天地の正しい気をそこに集め、誰かが必要になったときにその力で助けるという意味だそうです。母親の事故をきっかけに、蘇さんは長い間の水運びの過程を思い返しました。あるいは清い心が願いを叶えたのかもしれません。
 
たった一人から一つのチームまで、三十年近く水運びを続けてきた蘇さんは、これからも水運びと奉茶を続けるつもりです。「私たち水背負い隊は一粒の種です。いずれ森となり、火星にさえ草を生やすかもしれませんよ!」と目を細め、水背負い隊の今後に思いを馳せる蘇さんの顔には、笑みが絶えませんでした。真剣な中にも遊び心を忘れない蘇さんは、観音山で奉茶の大願を立てた時と同じように、自信たっぷりに語るのでした。
 
(経典雑誌225期より)
NO.247