善事を行わないことこそが困難
「三人寄ればその中に師がいる」と言う。慈済のボランティア活動の場では、いつも達州市のおばあさんたちの白髪頭がひときわ目立つ若者よりも軽やかに、心は自然体で、「善を以て師としている」。
證厳法師を護持する達州のおばあさんたちに困難はない。達州市に根を下ろした一粒目の慈済種子となった閆玄蘭さんは「善事を行わないことこそが困難」と言って、探し求めた道を勇敢に進んでいる。
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●自分を叱咤激励し奉仕に励む閆玄蘭さん。(撮影/邊静) |
仏に学び苦難を救う
この世の菩薩
一九四五年に、中国四川省の達州渠県に生まれた閆玄蘭さんは、達州市から四十キロ離れた村に住んでいた。家は農業と猟で生計を立てており、貧しいながらも両親は四女の玄蘭さんを学校に通わせていたが、五年生に上がる時、授業料が捻出できず退学するしかなかった。
彼女は十九歳の時、仲人に紹介されるままに結婚したが、新居は「四方を板で囲っただけの家」だった。夫の収入は不安定で、一畝の畑に陸稲や小麦を植えて苦労の連続だったが、六人の子供を育てた。
幼い時から体の弱かった彼女に、近所の人は仏様を拝むように勧めていた。一九九〇年に母親が亡くなった時、仏式で葬式を執り行った際、因果観を理解することができた。以前は他人ばかりを怨んでいたが、それを改め、体も日増しに健康になったので、寺院へお参りすることが多くなった。
「私はお寺へ行って、観音菩薩を拝むのが大好きでした」と言う。よく病気していた幼い頃に、観音菩薩は苦しむ人だけでなく、病の人も助けて下さると聞いていたからだ。そして、慈済によって、自分も苦難の人を助けるこの世の菩薩になることを願っていた。
六十歳になってから
救済活動に参加
炊き出しボランティアの喜び
「成都で青稞酒(チベットのお酒)を売っていた息子を手伝いに行っていた時、大地震に遭いました」と言った。彼女は二○○六年に店を開業した息子を手伝うために成都へ行き、二○○八年五月十二日の大震災を目の当たりにしていた。被災地へ支援に行きたいと思っていたが、政府は被災地に入ることを禁じていた。
「ある日、私は徳陽へ集金に行った時、『洛水に被災者が大勢いるから見に行こう』と誘われてついて行きました。その時、ボランティア活動をする慈済人の姿を見て、私も慈済ボランティアになりました」と話す。
永興公園に設置された臨時避難所では大勢の被災者が避難していて、ボランティアたちが食事を作っていた。彼女はこれが仏教というものだと思った。そして「野菜を切ったりご飯を炊いているボランティアたちや、被災者までが楽しそうに手伝っているのを見て、私は思わずその中に入って皆と一緒にやりました」と言った。
当時洛水はまだ重度の被災地で泊まる所はなく、ボランティアは三星堆まで戻ってホテルに泊まっていた。慈済ボランティアの呉丕玉に誘われて、一緒に泊まったのが慈済と共に歩くきっかけになった。二○○八年の七月に被災地へ入ってから九月までの間に、ボランティアが成都市で読書会を催していると聞いて、家に帰らず、廟参り仲間だった陳学玉さんを誘って参加した。
彼女は家を出て以来、家族に消息を知らせていなかった。夫は彼女が邪教に入っていないかと心配して、「もしも帰らなければ家にはいれない」と人を通じて伝えてきた。そして夫は電話で、学玉さんを妻を誘拐したと叱りつけたと聞いて、荷物を持って帰った。
しばらくして夫が手術のため入院することになった。優しく看病し、慈済で習った和やかな顔と優しい態度ですべての人に当たっていた。夫と子供たちは閆玄蘭さんの変わりように驚き、慈済の善行に参加することを認めてくれた。
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●2015年末、金堂県の冬季配付物資を仲間と運ぶ閆玄蘭さん(一番右)。「若い時に鍛えているから大丈夫」と話す。(撮影/邊静) |
無から慈済を始める
困難だったが喜びもあった
閆玄蘭さんを始めとして、一人から二人へ、さらに多くの人へとボランティアの輪は広がっていった。たくさんの達州のおばあさんたちが、家の中から環境保全を始め、至る所で慈済のことを話すうちに、毎月成都へ慈済の講座を聞きに行く人が増えていった。「仏に学ぶことを皆が伝えていたから、この概念に賛成することができたのです」と言った。
そしておばあさんたちは家々を回って慈済を紹介して、「今、災難が多く発生しています。私たちは毎日自分の家の中から環境保全に努めましょう。そして愛の奉仕を行えば、地球環境を保護することになります」と伝えている。
達州から被災地の成都や洛水までは、道が遠く、当初は道路が開通していなかった。達州ボランティアは百七十人民元(一人民元は約十六円)を払って大型バスに十二時間揺られ、慈済の活動に参加しなければならない。
「私たちがこの世の菩薩を招集するには、達州の人たちに安心のできる場所を提供しなければなりません。そうしなければ法師の法髄と慈済の活動を学ぶことができません」と言って、彼らは費用を集め、成都慈済奉仕センターから十五分離れた所に、宿泊用として、台所つきの部屋を三つ借りた。「最高記録は三部屋に二十六人も泊まり、ぎゅうぎゅう詰めでしたが、皆喜んでいました。ホテル代は高く皆自腹ですから。それに竹筒精神にならって倹約しなければなりません」と閆玄蘭さんは話す。
二○○九年、達州のおばあさんたちの念願がついに叶った。台湾へ行って證厳法師にお会いすることができることになったのだ。初めて乗る飛行機は緊張した。「飛行機の中に入った時は恐ろしくて、心の中で一心に『法師様、私をお守り下さい』と願い続けました。心が落ち着いて窓の外を見たら真っ白い雲の上でした」と話す。
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●達州のおばあさんボランティアは成都へ奉仕に出かけた。どこへ行っても人後に落ちず、仲間はいつも一緒だ。(撮影/林炎煌)
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しかし、法師にお会いした時の緊張と感激はそれに及ばなかった。「法師は私たちの手首に数珠をつけ、声をかけて下さいました」と。あれから八年の歳月が過ぎたが、今もすべての事がありありと心に浮かんでくる。そして「あの時、目の前に法師様を見た時は感動して、なぜだか泣いてしまいました。まるで身内に会ったようでした。もしかしたら法師様とは終生の家族なのかもしれないと思います」と記憶を辿っていた。
「その時、私たちは台湾の師姐(慈済の女性ボランティアの呼称)が洛水にきた時に教えてくれた台湾語の「ママ」と「法師の長情大愛」という二つの歌を歌いました」。その歌詞の一句一句には、おばあさんたちの法師に対する真情が込められている。
お年寄りが互いに護り合う
志業も家業もよくなる
達州のボランティアの足並みは止まらない。、白髪ながら行動力があり、多くの若者に精進を呼びかけた。
二○一○年七月に達州で水災が発生した際、達州のおばあさんたちは重要な役割を担った。四川の慈済基金会代表の黄崇発さんが「当時、閆玄蘭さんと陳学玉さんに、ボランティアの訓練が終わって洛水から達州に帰った後、すぐに被災状況の情報を集めて担当者に報告するように頼みました。そのおかげで支援物資の配付が無事に終わりました」と言った。
二○一二年、達州のおばあさんたちは再度台湾海峡を超えて、慈済委員の認証を受領しにやって来た。彼女は「初めて法師にお会いした時は、心からの感動で泣いたけれど、今回慈済委員の認証を受けた時は嬉しくてとても幸せだった。法師の認証をお受けして、私たちの責任と使命はさらに重くなりました。達州の人々を多く呼び集めて共に善事に尽くさなければなりません」と覚悟を込めて言った。
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●2012年、什邡市の方亭中学で親子研修会を行った。閆玄蘭さん(前列右から3番目)は賄い係で、やれることは幸せだと体得した。(撮影/陳慧琦) |
達州のおばあさんたちは年齢が増すにしたがって、家族を世話する必要が生じてくる。熊運蘭さんの夫は前立腺癌を患い、郭容さんの母は九十歳になった。閆玄蘭さんの夫も今年八十五歳で狭心症などの持病があって、あまり家を空けられないために、成都のボランティア活動に参加する機会が少なくなっていた。その代わり一心に地域のことに気を配っている。
今年の三月二日、成都でボランティア一日研修会が終わった後、達州のボランティアたちは、時間を節約するために夜中一時の夜行列車で帰った。夫の世話に忙しい玄蘭さんは、「慈済の書物をよく読んで、自分に鞭打って人後に落ちないようにと心がけています。慈済の活動には一刻を争って参加し、組長にも協力しています」と言う。
達州のおばあさんたちが住む達州市は、七百万人以上の人口で面積は広い。それぞれ住んでいる所も離れているため、おばあさんたちが活動のために集まるのも容易なことではない。
達州の福田はとても大きいが、ボランティアの人数が少ないので、彼女と学玉さんは一人二役で駆けずり回っている。そして一日空いていたら一秒でも多く善用しようと常々話す。
「今私たちは至るところを回って、家庭環境保全と学生の補助をしています。また家を借りて環境保全センターにしたいと思っています。成都や洛水には出られないけれども、家業と志業はおろそかにしていません」と話す。
「私は老いてもなお体は若者に負けず真面目にやっています。夫は十年間も病気で、一人では何もできません。ですから私は何でもやれる自分は幸せだと思います」。今年七十二歳の閆玄蘭さんの志とは、一心に慈済を達州に根付かせ、皆と福田を耕すことだ。その志は強く、今日もまた奉仕に邁進している。
(慈済月刊六〇五期より)
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