慈濟傳播人文志業基金會
香港 困難な生活
 
●不動産価格が七年連続で世界一高い。
●二〇一六年の不動産価格の上昇率は三十三パーセント。
●政府は中低所得者層向けに公営住宅を建設して廉価で賃貸に出   
 しているが、今年三月末現在の統計によると、二十七万世帯が
 入居待ちで、平均待機年数は五年である。
●公営住宅の家賃は収入の四十パーセントを越え、民間住宅の家
 賃は公営住宅の九倍である。
●香港特有の「劏房」は平均二坪足らずで、複数が同居する場合
 もある。香港全体で約十九万人がその「劏房」に住んでいる。
●香港政府の「二〇一五年香港貧困状況報告書」によれば、 人口
 七百二十九万人のうち、貧困者はその二割に相当する百三十四
 万人に達している。
 
九龍観塘工業区では借家の広告ビラが低い壁いっぱいに貼られている。操業を停止した工場も劏房に分割され、低所得者層の労働者に貸し出している。
 
窓から日が射し込み、ベッドの縁に座った猫背姿が浮かび上がった。室内は様々な物で溢れ返っている。そこは二坪足らずの黄おじさんの住まいである。扉の外は薄暗い廊下が続き、借家人は風呂と台所を共用している。ほかに五世帯が生活している。
 
黄おじさんは七十歳を過ぎている。若い頃は学校の用務員をしていたが、収入が少なく、自分の家を持つことはできなかった。退職してからは、政府の高齢者手当に頼りながら、この団地の屋上に建てられたブリキの小部屋に住むようになった。
 
ブリキ小屋は冬は寒く、夏は暑い。黄おじさんは昼間は外出し、生活の足しにするために、ダンボールや回収できるものを拾い集め、日が暮れてから帰宅する。住環境が悪くても我慢するしかない。
 
黄おじさんは公営の賃貸住宅への入居を申請し、一昨年やっと順番が回ってきた。比較的安い家賃で入ることはできたが、香港人はそれを「上楼」と呼んでいる。しかし、黄おじさんは子連れの中国人女性と結婚したため、生活空間はもっと窮屈になり、独りで再び深水にある元のビルに戻って来たのだった。家賃は月額千五十香港ドル(約一万六千円)で、九階の二坪の板の間である。
 
黄おじさんが住んでいた屋上から眺めると、隣接したビルの屋上には全てブリキ小屋が建っている。その周りの路上にはビーチパラソルが立ち並び、様々な露店が各種各様の物を路上いっぱいに置いていた。荷車が行き交い、元々広くない路地が一層混雑していた。  
                                         
深水埗区は九龍の市街地にある。近年、現代的なビルが増える中、経済的に能力のある人は新しく建設された民間のビルに移り、旧市街の住居は買い取りか賃貸かにかかわらず、低所得者が身を委ねる場所となっている。
 

快適な暮らしが難しいわけ

香港島の山の中腹にある高級住宅街で労働者が建設中の高層ビルで作業をしていた。香港は競争が激しく、学歴の低い人は危険な割に収入が少ない肉体労働に就くしかない。どんなに汗水垂らして働いても、それに見合った生活を送ることはできない。
 
 香港は土地が狭くて人口が多いため、住居の需要に供給が追いつかない。一九九七年に香港が中国に返還されて以降、裕福な中国人が香港で投資目的で不動産を買うため、不動産価格は上昇する一方である。中産階級はほとんど住居を持つことができなくなり、仕方なく賃貸の公営住宅に住んでいる。
 
香港不動産委員会の統計によれば、二〇一七年三月末現在で、公営住宅への入居を申請した二十七万世帯が待機中である。かつて香港住居委員会に勤めていた慈済ボランティアの吳万里は、「毎年、公営住宅を申請する人は約三万人ですが、平均して四年から六年待たなければなりません」と言った。
 
需要が増えるにつれ、資金に余裕のある家主は家族が住むのに適した住宅を「板の間」や「劏房」にして貸し出すようになった。香港のメディアの調査によると、それらは平均で一・三坪、卓球台二つ分の大きさしかない。また、近年、通称「棺桶部屋」と呼ばれるものが出現した。カプセルホテル式のベッドの大きさで、棺桶が並んだように見えるためそう呼ばれている。家賃は月額千香港ドル(約一万五千円)である。
 
公営住宅への入居待ちをしている人や民間住宅に手が届かない人は、こうした非合法の借家に住むしかない。調査によれば、約八万四千世帯が劣悪な生活環境に耐えながら、非合法の借家に住んでいる。
 
「劏房に住んでいる人は、家に帰っても動き回る空間さえなく、窓のない部屋もあります。そういう空間に閉じこもって、子供がベッドの上で勉強しているのです。香港人に精神疾患が多いのは、経済的なプレッシャーのほかに、まともな空間や気が休まる場所がないことと関係があります。貧富の格差は益々広がり、若い世代には未来が見えません」と慈済ボランティアの施頌鈴が言った。
 
そしてもう一つのグループは、小さな借家さえも借りられずに街を放浪している。彼らは野宿者またはホームレスと呼ばれている。
 

労働者の一日

 
 整然とした身なりと丁寧な言葉遣いの阿源は、彼自身の口から聞かなければ、九龍のある公園で生活していることなど想像もできない。
 
阿源の家財道具は少なく、公園の一画は彼が夜を過ごすのに足りる大きさである。昼間はレストランの清掃や雑用、配達などをしている。通勤前にビラ配りの仕事をすることもある。香港の最低賃金は時給三十四・五香港ドル(約五百円)で、計算してみると、阿源の手取り月収は八千香港ドル(約十二万円)である。しかし、劏房一間の家賃は最低三千五百香港ドル(約五万三千円)で、彼の収入の四十パーセントに相当する。
 
「ただ寝るだけのために、懸命に働いて得たお金がほとんど家賃と光熱費に消えてしまうのです」と阿源が言った。苦労して得たお金を自分の手元に置き、衣と食さえ凌げれば、緊急時のための貯金もできるのである。
 
阿源の状況はホームレスの中でも良い方である。彼と同じ公園で生活しているあるホームレスは、持病で身体が不自由なため、臨時雇いの仕事も見つからず、千~三千香港ドルの「総合社会保障援助金」で生活をしている。昼間は寝泊まりする場所にいられないので、街をうろつくしかない。三食は慈善団体の救済に頼っているが、食事にありつけない日もあり、貧困と病の悪循環に陥っている。
 
香港の五つの大学と四つのNGOが二〇一五年十月に合同で調査した結果によれば、過去十年と比較して、ホームレスの数は一気に三倍に増え、千六百人以上に達している。公園のほか、地下道や歩道橋などにも寝泊まりし、中には二十四時間営業のマクドナルドで夜を明かす人もいる。トイレがあって明るく、街頭で野宿するよりも安全なのである。人々は彼らのことを「マック難民」と呼んでいる。
夜11時半、香港島の24時間営業のマクドナルドには、夜を明かしに来るホームレスが次から次へと現れる。
 
街頭で野宿するかマクドナルドに行くかは別として、ホームレスは同じように夏の暑さと冬の寒さに晒されている。政府は暑さと寒さを凌ぐシェルターを設けてはいるが、短期間の滞在しかできない。道行く人から軽蔑の眼差しを投げられ、追い払われる。不衛生な野宿の不快さも、彼らが日々直面する現実である。
 

スープを飲みながら、悩みを打ち明ける

 
二〇一一年末、香港慈済ボランティアは縁があって、「籠屋」(鉄条網で仕切った貸し部屋だが、今はほとんどが取り払われている)に住む低所得者を見舞い、毛布を届けたことがある。その時ボランティアは突然、「風雨を凌げる場所にいる人が毛布を必要としているのなら、野宿している人はもっと必要としているのではないだろうか?」と思いついた。
慈済ボランティアが旺角地下鉄駅前を通った時、ホームレスが道端に寝ていたので、声をかけた。「怖いと思っては、心から彼らのケアをすることはできません」と吳万里(左から2人目)が言った。ホームレスは街に住む友人であり、友人が困っている時、助けるのは当然なのだ。
慈済ボランティアが油麻地澄平街の地下道にいるホームレスに弁当を届けると、ホームレスは掻っ込むように食べた。いったい何食食べていないのだろう?
 
ボランティアはぶらぶらと近くの歩道橋まで行ってみると、橋の下にはダンボールを被ったホームレスが、じめじめして寒い中震えていた。ボランティアは彼らが寒い夜を過ごせるように、とただちに毛布を届けた。
 
小雨が降って気温が下がった夜、慈済ボランティアは再び、深水埗歩道橋の下で毛布の配付を行った。そして、配付範囲をホームレスが常時集まる油麻地、尖沙咀文化センターにまで広げた。配付を通して、ホームレスが野宿している所では共通の情景が見られることに、ボランティアは気づいた。劣悪な環境の中、多くの人が健康を害しているのだ。恐らく一回や二回の配付活動では彼らの生活を改善することはできず、長期的にケア計画を立てなければならない。
 
二〇一三年、慈済ボランティアの王長堅は「平等に分かち合う」団体のケア活動に参加し、中環、上環のような繁栄した金融街にも数多くの暗がりが存在し、救いの手を必要としている野宿者がいることを知った。王長堅は香港島の慈済ボランティアと共に、長期的に行動する「ホームレスケアチーム」を立ち上げた。
 
ホームレスは通常夜の九時を回ってから現れ、安全上、ケアチームは男性ボランティアが主体となった。そして、ホームレスと親しくなってから少しずつ女性ボランティアも参加するようになり、ケア活動に家庭的な温かさをもたらした。
 
香港人は甘いスープを飲む習慣があるが、野宿しているホームレスが手間のかかるスープを作ることはできない。ボランティアは家から温めたスープを持って行き、その甘い香りのスープでホームレスの身も心も温めた。
 
毎回のケア活動では物資の配付の他、食事と甘いスープを届けている。スープを飲む時、ボランティアとホームレスは情を通わせ、そこから野宿するようになった経緯を聞き、それによって、より適切な支援を提供するようにしている。
 
ホームレスケア活動は次第に香港島から九龍区や新界区にまで広がってゆき、今では二十のケア拠点がある。地域ごとに異なる習慣を持ったホームレスがいるため、ケアする方法も異なっている。唯一つ同じなのは、真心で彼らに付き添い、人生のどん底から抜け出せるよう願う気持ちである。
吳万里(左から2人目)の呼びかけで、阿威(右から2人目)は毎週金曜日の昼に牛頭角邨でボランティアと共にリサイクル活動をする。動作は速くはないが良い助っ人である。

 

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