慈濟傳播人文志業基金會
生命教育と慈善の新しい試み
 
少額の支援金で
透析センターをサポートし
長期にわたって
貧しい透析患者に恩恵を与えてきた
慈善や医療の布施を
異文化の人々に施すには
生命の教育が必要
 
旧正月、ペナンで華人が広福宮の前で布施している。人種も理由も聞かず、ただ布施をするのが華人の美徳。新年の布施は長年続いている。

植民地時代の雰囲気が濃厚に残るマレーシアの首都ペナン。イギリス植民地時代の建築物や教会が多く見られる。マラッカに遅れること一年の二○○八年、ペナンのジョージタウンは世界文化遺産に列せられた。

二〇一三年にヤフーが発表した調査結果によると、ペナンのジョージタウン市は世界で四番目、アジアで一番目の「リタイア後に住みやすい都市」である。ここは東西文化の交差点であるだけでなく、移民史の鍵を実証する都市でもある。

信仰は、華人の移民に対する心霊のパワーだった。華人は慈善と教育を重視し、たとえ異郷にあっても奮闘する時は助け合いと自立の精神を重んじてきた。ペナン最古の中国廟である広福宮(かつて観音亭と呼ばれていた)は、一八八○年に福州地方から移民した人々によって建立されている。廟の前の広場にはいつも善意ある人が貧民に生活物資を配っている姿が見られる。その布施の情景は今なお日々見ることができる。

二○一五年の年末に、マレーシアの華人たちは来年の漢字に「苦」の字を選んた。住みやすいペナンで華人が感じている「苦」とはいったいどのようなものなのか。慈済人はこの「苦」に対し、いったい何ができるのだろうか。

 

発願を堅持する

 

一九八九年、葉慈靖は台湾からペナンに駐在することになった。そして彼女はマレーシアにおける慈済の初の種となり、人々が慈善を分かち合うきっかけをもたらした。

慣れない異郷での生活と現地社員の管理に忙しく、その重圧は想像以上に大きかった。数カ月後、台湾へ帰って證厳法師にお会いした時、法師に「環境に適するのは人ではなく、人が環境に適することです。頭上に人様の天を頂き、人様の地を踏むなら、恩返しすることを忘れてはなりません」との貴い法話を頂いた。

法師の海外にいる弟子たちに言い含められたお言葉を有り難く頂いて、葉慈靖は衣食住や慣れない環境を克服して、台湾にいた時と同じく慈済委員としての仕事を始めた。まず、同僚が抱えている問題に手を差し伸べることから始め、慈済のことを言って聞かせた。

同僚は、イスラム教を国家宗教とするこの国で、マレーシア人に仏教の話をすると、二十四時間以内に強制送還されてしまうかもしれないと注意していた。葉慈靖は、台湾とマレーシアの違いに慎重に気を配りつつ、善念と慈済精神をどうすれば多くの人に伝えられるかと思考していた。

彼女は少額募金を募って貧民病苦の訪問ケアを始めた。何人かの同僚が、どこそこに貧困者がいると知らせるうちに、貧しい病人の訪問ケアについてくるようになり、慈済という仏教団体は普通の仏教団体とは違っていると思うようになった。

ある時、会社を代表して包装工場を訪問し、工場を経営する郭済航と出会った。工場では目の不自由な障碍者を雇用しており、彼の心にある愛を感じた。それからの彼女は、この種子を慈済の活動に迎えるため、彼を訪問ケアに誘うようになった。

ある日、彼らがKampung Baharu Bukit Merah(中国語:紅泥山)の慈済ケア家族を訪問していた時、無責任な夫は知能障碍の妻と八人の子供を見捨てて蒸発し、しかも八カ月になる赤子にはまだ血の跡がついているのを見て、郭済航は涙を流していた。そしてこの苦に出会ったことが、彼に慈済へ進む心を決心させた。現在彼は慈済マレーシア支部首席執行長になっている。

善門に入ることは簡単なようだが、菩薩道を歩くとなると種々の困難に出会う。当時の彼は三十を過ぎたばかりで、多くのことは心霊上の困難であり、事情の上での困難ではなかったと、過去を振りかえって思った。要するにマレーシアと台湾の違いは非常に大きいので、マレーシアで慈済を発展させるのは不可能だと思っていたのだ。

しかし、上人がおっしゃった「人種、宗教、社会がどれほど異なっていても、人々の心には必ず愛がある。善行は発願だけすればよいのではなく、努力して行う必要がある」という言葉が、彼に力を与えていた。それから二十数年を経て、堅固な信念があってこそ、人も己も利することができ、宗教精神の根基を実践できると体得した。

彼は慈済をさらに深く理解するため、毎月花蓮へ帰って法師の法話を拝聴している。上人がいつもおっしゃっていた「注意深く」というお言葉とは、人生において諸々の難問や発心の過程が、菩薩道の具現なのだと思えた。

「善行とは奉仕だろうか?」。郭済航は一つの例を挙げた。ある人が血書した《無量義経》をバザーに出して、得た浄財を慈済透析センターに寄付した。この善行がさざ波のように伝わると、それが不思議な力になって愛のさざ波を広めていったと説明した。

衆生を済度したのが反対に済度されているのを目の当たりにし、彼は人の生命が私たちの慧命となってくれているのだから、中途半端に放棄できないと悟った。ペナンの会員が透析センターを護持しているのが、その最も良い例であると言っている。 

台湾からマレーシアに初めて慈済の種を蒔いた葉慈靖。
劉済旌は歴史の渦巻く社会環境の中で実践と安心立命の価値を見出した。
 
マレーシアで根を下ろして成功した郭済縁。

 

病気のために貧に陥る人を救う

現在マレーシア支部執行長を務める郭済縁は、郭済航の二番目の兄である。郭済縁は慈済透析センターは医療以外に、生命教育を体現したものでもあると言う。

ペナンの慈済ボランティアが訪問ケアをした過程で観察した結果、多くのケア家庭が家族が腎臓病を患ったために苦境に陥っていることを知った。熟慮の結果、一九九六年十一月から大胆にも無料の透析センターを開設して、環境保全で得た資金を医療基金に当てることに決定した。

当時は政府運営の医療所以外には無料の透析センターはなかった。透析センターの資金は高く、いつまで続くかと危ぶむ声もあったが、ボランティアが月餅や粽などを作ってバザーで売ったり、さまざまな募金などを行って、慈済無料透析センターの大願は遂に成就し、運営を危ぶむ声もなくなった。

一九九七年八月に開業した時は、マレーシアのみならずアジア初の快挙だった。その五年後、ジータ、北海でも慈済透析センターが次々に開設し、貧困者に透析治療を行っている。

台湾では国民皆保険が完備されているが、マレーシアの保険制度は今なお普及されていないため、多くの人が膨大な医療費を支払うために家庭が崩壊している。ペナン慈済医療志業の李妙紅主任は、早期の一般透析費用は毎回が三百五十リンギット(約八千七百円)で、毎週三回の治療が必要だった。一般サラリーマンの月給は千五百リンギットにも満たない。慈済透析センターの出現は注目を集め、華人の善意と真心もまた讃嘆の的になっている。

ペナンの慈済志業主任、李妙紅(左)が看護師と透析患者の状況を診ている。透析センターは腎臓病の患者の家族にも関心を寄せている。
 
ペナンの人医会の会員がケア家庭を往診に訪れる。同行した息子はケアの方法を学んでいる。
 
腎臓病の李源興が母と自宅前で環境保全の廃品の仕分けをしている。彼は2010年から慈済透析センターで治療を受け、今では精進して慈済ボランティアとなっている。両目はわずかな光線が見えるだけ。もしも仏法という拠り所がなかったら、この世は懐中電灯もない暗闇に等しいと言う。

人々を慈善に迎え入れる

 

李妙紅は、透析センターの運営を安定させるのはそんなに生易しいことではないが、経費を捻出するのが困難だからと言って、患者に必要な治療と検査を削ることはできない、と患者を身内のように見なして接している。

慈済は金持ちだろうか? そうではない。マレーシア慈済基金会の資金の七割は少額の寄付であり、このことが社会の信任を得ている理由になっている。また、台湾発祥のこの非政府組織をマレーシア社会が信頼し、護持していることは、金銭にかえがたい栄誉である。

富裕層が好んで善行を行う伝統の中で、慈済は貧しい人にも少額の布施を呼びかける竹筒精神を推進しているのは、ペナンの全国民に慈悲という気持ちをもたらすためだ。二○一五年、慈済はマレーシア政府の要請を受けて、災難調査基金会の運用委員になった。これは慈済の効率の良さと公から得ている信任が、マレーシア政府に認められたことを意味する。ペナン慈済人の成就の鍵は、着実できめ細かい奉仕と寄付金の使い方にあった。

慈済は人種の分け隔てなく社会のあらゆる問題に関心を寄せる。静思堂では毎日ボランティアが当直して、貧富の分け隔てなく苦しむ人たちを迎えている。この仏教道場では大門を開け広げ、何人も受け入れる。人心の浄化、社会の平安を願う一本の具体的な道でもある。

生活が束の間にも移り変わるこの時代に、人種が複雑に入り混じる国では、多くのことがよくよく熟考しないと通じないことがある。マレーシアに移民した華人の数百年の歴史の中では、ただ渦巻く流れの中で懸命に前進するよりほかなかった。しかし現在のペナン慈済ボランティアの華人たちは、金のために努力しているだけでなく、彼らは自分の安心立命の価値を了解して、互いに友人や同胞の助けを求める声に耳を傾けている。これは人種融合の出発点であり、また人々が深く信じあう将来の始まりである。

 

 
NO.241