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エボラ孤児
2014年5月、シエラレオーネ共和国で勃発したエボラ出血熱は多数の国民の命を奪った後、多くの孤児を残した。とくに初めて感染が確認された東部の町コインドゥでは、両親を亡くし、自力で生きてはいけない孤児がたくさん残された。親戚は病気の感染を恐れて引き取ろうとせず、孤児の問題は伝染病の大きな後遺症となっている。写真はコインドゥで撮影したエボラ孤児たちで、彼らは現地の善意の人たちの援助の下に生活し勉強をしている。だが、将来はどうなるのか。その運命は誰にも分からない。
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エボラ出血熱発生の地
二〇一三年、西アフリカの三つの国でエボラ出血熱が大流行した。感染者は二万八千人以上に達し、その半数がシエラレオーネに集中していた。
かつて黒人奴隷の輸出拠点で、イギリスの植民地だったシエラレオーネは、独立して自由を勝ち取った。しかし、相次ぐ内戦と特効薬のない疫病が襲い、国の未来は暗澹たるものであった。
台湾を出発して三十三時間、四回飛行機を乗り換え、黄昏時にやっとシエラレオーネの首都フリータウンに着いた。
フリータウンに着くと、一昔前の映画「野生のエルザ」の主題歌「ボーンフリー」を思い起こさせた。歌詞の内容はアフリカの大草原でライオンが自由自在に走り回って戯れるというものである。フリータウンはどこにあるのか? 名前の由来は? どうしてライオンを連想させるのか? なぜ遥か遠くからここにやって来たのか?
話は遥か昔の一四六二年に遡る。文献によると、当時、ポルトガルの船団が西アフリカ沿岸に上陸し、要塞のような貿易拠点を築いた。彼らが地図を作製していた時、海岸線から遠くない丘の形状が雌のライオンに似ているのを発見し、そこをポルトガル語でライオン山(Serra Leoa)と命名した。
その後、西洋列強が競合する中、スペイン人がその地に強力な影響を持つようになり、名称もポルトガル語のSerra Leoaからスペイン語のSierra Leoneに変更されて今に至っている。
西洋列強にはその二カ国のほか、オランダとフランス、そして、最後にイギリスも加わった。植民地大国は次々に自国の貿易拠点を築いたが、主要な貿易品は鉱物と材木のほか、黒人奴隷の売買であった。彼らはアフリカ大陸の各地で強制連行した大量の黒人奴隷をこの港から輸出した。
奴隷貿易はアメリカの南北戦争終結(一八三五年)まで続けられ、その後、憲法で認められていた奴隷制度が廃止された。シエラレオーネから輸出された黒人奴隷はヨーロッパやアメリカ、カリブ海一帯からシエラレオーネに送還されて一つの地域に集められた。そこがフリータウンと名付けられたのは、シエラレオーネに戻った人々がもう奴隷ではなく、自由の身であることを意味した。

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フリータウン市街地
シエラレオーネ共和国の首都フリータウンには工業、商業が集中し、人口も100万人を超えている。街は人で溢れ、商売は活気に満ちている。
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独立して半世紀
脆弱な基盤
資源やそのほかの経済的利益を獲得するため、イギリスはシエラレオーネで活発に経済活動を続け、この国の発展を左右する影響力を持つようになった。
一九二四年、イギリス政府はシエラレオーネの国土を二分し、フリータウンと海岸一帯を植民地にし、内陸部を保護領とした。
一九六一年、イギリス政府の承認を経て、シエラレオーネは独立宣言した。独立後の国名はシエラレオーネ共和国である。面積は七万千七百平方キロで二〇一五年の統計によると、人口は七百万強である。
国土は台湾の約二倍であるが、鉱物資源が豊かで、とくにダイヤモンドの産出量が多い。そのような条件の下で数百万の国民を養うのは難しいことではない。事実、建国当初は豊かな生活と共に平和な時が流れた。しかし、それも長く続かず、政府の一部の制度や執行面で問題が発生した。陰謀が絶えず、強権グループが出現して豊かな国の鉱物資源を強奪しようとしたり、果ては軍隊の内部でも意見が分かれ、派閥が林立して勝手に行動するようになった。クーデターが起きても優劣がつかず、ついに内戦に発展した。
内戦は一九九一年から二〇〇二年まで続けられ、約五万人が亡くなり、数十万人が住む所をなくした。また、数多くの民衆が今回の内戦で手足を切断された。
手足を切断することは警告の意味であり、アフリカの集落がよく使う方法である。しかし、実際に手足を切断された人々は内戦の敵とは限らず、多くは部族や宗教が違うというだけで敵と見做された人たちで、その中には罪のない一般市民や女性も多く含まれている。
内戦はもともと脆弱だったアフリカの雌ライオンの活力を削ぎ、ただちに休養を必要としていた。しかし、思いもよらず数年後、内戦の傷が癒えないシエラレオーネで二〇一四年五月、エボラ出血熱が発生した。もともと貧しかったこの国は地獄に突き落とされた。しかしこの災難が、シエラレオーネ共和国という名を一躍世界に知らしめることになった。

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内戦の被害者
ニュートン地区に住むこの足を切断された女性は内戦の被害者である。アフリカでは昔から部族間の戦いで勝った方が敵の手や片足または両足を切断して威嚇する習慣がある。内戦中にかなりの数の人が手足を切断されており、罪のない一般市民も多く犠牲になっている。
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地区は狭く、娯楽に欠け、子供は空き缶を叩いて遊んでいた。 |
スラム街の簡単な小商い。 |
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❚クルーベイスラム街
クルーベイのスラム街はフリータウンの海辺沿いにあり、約6万人が住んでいる。その面積はサッカー場2、3個分の広さで、各家に水道は引かれておらず、公共の蛇口を使うしかない。また、電気も合法的には敷かれておらず、電気は各自でどうにかしなくてはならない。そこは湿っぽくて蒸し暑く、風通しが悪い。人口が密集し、衛生環境が劣悪なので、疫病を防ぎきれない。一旦伝染病が発生すれば、収拾不可能になる。エボラ出血熱の大流行はその一例である。
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子豚が蓋のない排水溝で食べ物を漁っていた。人と家畜が共生しており、現地の人はそれを普通に思っている。 |
エボラ出血熱が発生し
国力が一層衰える
研究によると、エボラ出血熱ウィルスの元凶とされるオオコウモリは、本来九十種類以上のウィルスを持っていると言われる。オオコウモリはアフリカの部族にとっては主要な食糧源の一つであり、そのほかに鼠や猿も食用されている。今回のエボラ出血熱の発生は、二〇一三年十二月に隣国ギニアの子供が両国の国境付近でエボラ出血熱ウィルスを持ったオオコウモリを捕獲した時に、感染したことが原因とされる。伝染病はそこから始まって収拾不可能になり、全国に広がった。
シエラレオーネの医療体制はもともと不十分で、公共衛生観念が不足していた。伝染病が発生しても、国に問題を解決する力はなく、WHOと多くの国の人道医療団体に頼るしかなかった。キューバや韓国、カナダ、アメリカ、ドイツ、フランスの国境のない医療団体の支援でやっと、エボラ出血熱の感染拡大を押さえ込むことができた。
二〇一六年三月十七日、WHOはシエラレオーネのエボラ出血熱緊急事態を解除した。統計によると、二〇一四年五月に感染が確認されてから、シエラレオーネ国内で感染した人の数は一万四千百二十四人に達し、三千九百五十六人が亡くなった。それが収まっても、西アフリカの雌ライオンは息も絶え絶えになり、国際支援が待たれる。
話はここで終わらない。エボラ出血熱が勃発した頃、台湾の慈済基金会はシエラレオーネの状況に気づき、支援する方法を探っていた。
シエラレオーネ出身のスティーブン・フォンバ師兄の伝を頼って、慈済は現地の慈善団体、カリタスフリータウン基金会(Caritas Freetown Foundation)とヒーリー国際災害支援基金会(Healey International Relief Foundation,略してHIRF)と共同で支援する覚え書きに調印した。
互いの協力の下、慈済は二〇一五年三月に物資の支援を初めて同国で行った。当時は伝染病がまだ流行っていたため、慈済からの支援物資はスティーブンが代表で現地の協力者を通して配付した。
二〇一六年三月、WHOはシエラレオーネでのエボラ出血熱の終息を宣言した。四月、慈済は二回目のケアと配付活動を行った。
二〇一六年九月下旬、慈済ボランティア一行七人がアメリカと台湾からヨーロッパを経由してシエラレオーネに到着し、現地の協力者とフリータウンで一週間に及ぶ米の配付とケア活動を展開した。そして、現地及び外国の医療団体や慈善団体を訪問した。互いに団体の理念を理解することで協力する機会を見つけ、シエラレオーネが直面している難題の解決に力を尽くすことを願った。
昨年、慈済は台湾農協が提供した二百トンの白米を同国に寄贈した。ヒーリー基金会とカリタス基金会、ラニー基金会(Lanyi Foundation)は共同で配付活動での移動経路の決定や交通整理、米の運搬、対象世帯の名簿作成などを手伝った。九月二十七日、三回目に到着した白米六十トンの配付が行われた。
配付活動の式典はフリータウンのニュートン地区で行われた。ニュートン地区は内戦時に手足を切断された二十世帯の人と百五十人を超える住民が住んでいるが、政府は被害者に何らの救援措置も取っていない。百三十九袋の白米は一袋十キロで、トラックでニュートン地区に運ばれ、二十一人の現地ボランティアが配付役を受け持った。慈済ボランティアは現地ボランティアに感謝した。
ニュートン地区での配付活動は円満に終了し、全ての団体は東の町ボーに移動した。彼らはホテルに着く前に「コミットアンドアクト基金会(Commit and Act Foundation)」を訪れた。その基金会の主な活動は虐待を受けた子供や女性のケアであり、基金会自体、慈済が支援する団体の一つでもある。
九月二十八日朝、ボーから東部の町コインドゥに向けて出発した。出発して間もなく、様々な困難が待ち受けていた。白米を積んだトラックのタイヤがパンクしたため、百八十袋の白米を人を乗せた三台の車に分けて積み替えてから再度出発した。道中十七キロに渡って泥の山道だったが、午後三時にやっとコインドゥ地区に到着した。そこはシエラレオーネでのエボラ出血熱発生の地である。
皆、時間を無駄にすることなく、協力して白米を車から下ろし、青色のビニールシートにきれいに並べた。配付が始まる前、「慈済はエボラ出血熱が収まった後、コインドゥ地区に来て白米を配付してくれた唯一の団体です」と村長が談話を述べた。
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5月から11月はシエラレオーネの雨季。9月に配付活動した時はその真っただ中で、大雨で砂利道がぬかるみ、配付物資を積んだトラックが立ち往生したため、予定が大幅に乱れたこともある。
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人道支援は先人に続く
コインドゥ地区では五十四世帯がエボラ出血熱に感染したが、幸いに生き延びたほか、四十数人のエボラ孤児がここに定住している。慈済は百七十一袋の白米を配付した。
急場を凌ぐだけのわずかな白米を配付するために、遥か遠い国に出かける意味があるのかと疑問に思う人もいるはずである。それに答える前にこれからお話することを聞いて、参考にしてもらいたい。
シエラレオーネでエボラ出血熱が猛威をふるっていた時、少なからぬ国内外の医療人員が世界の医療史上でも最も熾烈を極める伝染病との戦いに参入した。二年後、伝染病は抑えられたが、この世紀の伝染病は三千九百五十六人の命を奪った。その中には一般市民のほか、優秀な医療人員や外国から支援しに来た人員も含まれている。
これら犠牲となった人材は、もとはシエラレオーネから遠く離れた場所に暮らし、この戦いに命をかけて参加する必要はなかったのに、異郷で命を落としてしまった。何のために? その行動に意味があるのか? 私が彼らに代わって答えることはできない。しかし、彼らが恨みも悔いもなく、この伝染病との戦いに身を投じたことを知って、ある道理を理解した。医療従事者として感染地域は戦場であり、自分の能力を発揮して貢献できる檜舞台でもある。例え、不幸にして命を落としても医者としての本望だったに違いない。
エボラ出血熱がもたらした後遺症を直接見ることがない人や、シエラレオーネから遠く離れて伝染病の状況に特別に注意を払っていなかった人が、これら医療人員の奉仕と犠牲の意義を語るのはとても難しい。
進んで戦いに身を投じた彼らは、人間が持って生まれた人道精神を私たちに見せてくれた。このような人間の本質は、災害が起きた時に突出するものである。そのような特別な状況下では、必ず国際的な人道支援団体やNGOが出現する。慈済はそのうちの一つに過ぎない。
慈済の人道支援はほとんどが一過性のものではなく、長期的に続けられるものである。シエラレオーネでの人道支援とケアもこの方式に則っている。状況が許す限り、慈済の足跡は必ず、再び西アフリカに出現するはずである。一週間の配付活動の間に皆で現地の慈善団体を訪問し、意見交換を行った理由がここにある。また、これらの交流を通して互いの経験を学び取り、情報交換することで、将来のケアや支援活動に役立てようとするものである。
配付と訪問活動を終えた後、慈済ボランティアは各自多くの資料を抱えて所属する国に帰って、シエラレオーネでの配付とケアの成果を報告し、次回の活動に最適の時期と場所を決めるために資料を研究した。
そんな時、今度はハリケーン・マシューがカリブ海の島々を襲い、六百人以上の行方不明者と死者を出した。シエラレオーネから戻ったばかりのアメリカ慈済ボランティアはただちにハイチに向かい、新たな人道支援活動を展開した。
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ニュートン地区で配付活動を行い、民衆は喜びと共に白米を受け取った。この地区には内戦で手足を切断された人約150人が定住している。エボラ孤児も収容しているが、政府の支援は不足している。 |
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内戦で腕を切断された貧しい人が笑顔で米を受け取り、地域ボランティアと感謝し合った。
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コインドゥで配付する前に記念撮影をした。コインドゥはシエラレオーネのエボラ出血熱発生の地で、状況は熾烈を極めた。慈済はエボラ出血熱感染が落ち着いた後に米を配付した唯一の外国の団体である。
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エボラ出血熱に関する知識
エボラ出血熱は急性の重い疾患で、主にコウモリを媒介とする。病原体を持った野生動物と接触して感染する。多くの症例はアフリカで見られる。人と人の感染は直接接触で起る。患者や遺体の血液、唾液、嘔吐物、排泄物、汚水、涙などである。症状は、高熱、倦怠感、頭痛、嘔吐、下痢及び出血などで、致死率は五割に達する。イボラ熱に対して、現段階では予防する有効なワクチンはなく、感染してから対処療法で治療するしかない。
西アフリカのシエラレオーネ共和国とリベリア、ギニアの3カ国では2013年末にエボラ出血熱が大流行し、28600人が感染したが、シエラレオーネがその半数を占めた。2015年11月に一度、エボラ出血熱感染危険区域から名前が外れたが、その後、再び新しい症例が発見され、今年の3月に至ってやっと、WHOと当国政府がエボラ出血熱流行の終結を宣言した。統計によると、3カ国で11300人がエボラ出血熱で亡くなった。
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